札所巡禮

第1番  大蔵山 杉本寺(杉本観音)

 春4月鎌倉を訪れる人はとても多い。鎌倉の一駅手前の北鎌倉は小さな駅だが、この駅で下車するご婦人はとても多かった。

 杉本寺は、鎌倉駅下車が便利のようだ。先ずは広い歩道が整備された若宮大路に出て、鶴岡八幡宮方面へ向かう。鶴岡八幡宮鳥居前で、道は突き当たり左右に分かれる。右に折れ暫く歩くと左手に小学校がある。

 小学校を過ぎると左手に、第一番大蔵山杉本寺の道標が有り、左に折れ道なりに進むと、幟旗の立つ急な石段に出会う。

 矢鱈にすり減った石段が、寺院の歴史を物語り、相当に勾配が急なので、年寄りは足下に注意を要す。

 先ず急勾配な石段を登ると山門に出る。門の手前に右へ向かう路が有り、その先には弁天堂や鐘楼や五輪塔が有ることが、本堂周辺から窺い知れた。

 門を潜ると真っ直ぐに本堂へ向かう石段と、左手に回り込む石段がある。直進の石段は苔生しており、養生のために竹の柵をを設け通行できない。左手へ回り込むと、其れは其れで趣があり、僅かな平地に立つ本堂の前に出る。

 本堂は茅葺き高床式で相当に古く、周囲には幟旗が立てられている(葺き替えの案内がある。)

【屁理屈】

 ひとの興趣を惹けば心に残り、興趣が無ければ忘れられる

 彼方此方出歩いていると、荒廃した遺跡は目に余るほどある。どれにも由緒は有っただろうに!・・・・・

 

 

【由緒】

 鎌倉最古の寺で、行基菩薩 慈覚大師 恵心憎都作 三尊を本尊とすると聞く。

 杉本寺の歴史は古く、天平三年(731)、僧行基がこの地を訪れ、観音様を祀る場所に相応しいと考えたことからと言われている。

寺の縁起に依れば、天平六年(734)に光明皇后が東国を安寧にしたいと願い、右大臣藤原房前と行基に財を与え、お堂宇を建させ、行基作の十一面観音を安置したことから始まったとある。

 次いで、仁寿元年(851)に慈覚大師が十一面観音を祀り、更に寛和元年(985)に花山天皇の命で、源信恵心僧都が十一面観音を彫り、納めた。

 文治五年(1189)、火災により堂宇が焼失した、ところが、本尊の観音様三体は自ら杉の木の根元に避難してして居たと云うことから、杉本観音と呼ばれるように成ったと謂われている。

 建久二年(1193)、源頼朝が、また建暦二年(1212)に源実朝が参詣したことが記録に残っている。室町以降の歴史は不詳である。

 裏手の山一帯は、境内を含め杉本城跡で、三浦氏一族の杉本義宗が築いたものである。鎌倉幕府が滅びてまもなくの延元二年 (1337)、朝廷方の北畠顕家が鎌倉攻めのとき、この城で攻防戦が行われ、足利方の斯波三郎以下300人以上の者が討たれたと 太平記にある。

 苦境に立つ南朝を助けるため、顕家は東北を出発、藤沢方面から鎌倉に向かい、足利義詮を守る軍を片瀬、七里ガ浜、 由比ガ浜と次々に破り、最後に杉本城を落とした。そのため義詮は一時三浦に逃れたとある。

 

第一番  大蔵山 杉本寺(杉本観音)

所在 神奈川県鎌倉市二階堂903

宗派 天台宗

本尊 十一面観世音菩薩

開基 行基菩薩

創立 天平六年(734)

電話 0467-22-3463

 

御詠歌

 たのみある しるべなりけり

 すぎもとの

 ちかいはすへの よにもかわらじ

 

 

 

【屁理屈】

 生まれたとき、一握りの天才を除けば殆どの民衆の能力は同じであった。其れが30年、40年を経ると、大いに差が出る。

 現在の相異は、今まで努力を為したか?怠惰を為したか?の相異による。 ただ其れを本人は自覚していない。

 

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第2番  海雲山 岩殿寺(岩殿観音)

 今日は鎌倉まで電車で来て、第一番杉本寺、第二番山岩殿寺、第三番祇園山安養院と、3ヶ寺を巡拝する積もりで出てきた。

 地図によると第一番杉本寺、第3番祇園山安養院、第2番山岩殿寺の道順なので、一番の次として第三番祇園山安養院へ行って、此処(海雲山 岩殿寺)へは第三番祇園山安養院の次に来た。

 実を云うと、観音巡礼とは云っても、それ程の心構えが有ったわけではない。程ほど宜しく、暇が有ったので出かけてみた!と言うほどである。だから、第一番杉本寺から第三番祇園山安養院へは徒歩で行ったが、これで大分草臥れてしまった。

 幸いにも寺を出て少し歩いていたらタクシーが通ったので、タクシーに乗って仕舞った次第である。

 タクシーは住宅地の中で降りた!

 住宅地の先に石段が顕れ、その先に山門が現れる。

 山門を潜ると更に石段である。

 鎌倉は起伏が多いからか・・・・?寺院は石段が好きか・・・・?

 納経所の横に八角の堂が有る。長い石段を登ると観音堂が有り、眺望が開ける。

 ここ(海雲山 岩殿寺)からは歸るだけだ!ひたすら地図を頼りに住宅地の中を歩いて逗子駅に到着した。

 

 住宅地の突き当たりに寺門がある。門を潜ると矢鱈に長くて急な石段がある。石段の突き当たりを左に折れると本堂に出る

 住職さんのお住まいは、門を潜った左側にある。

 

 

【由緒】

奈良平安期の鎌倉 岩殿寺は坂東三十三霊場の第二番札所である。

 縁起によれば“721年(養老5)に大和長谷寺の開基徳道上人が、岩窟にて十一面観音を感得。また熊野権現の化身である老翁に逢い、仏教興隆の鎮守として熊野権現を祀ったと”記されていて、この熊野権現が観音堂のすぐ右手にある。

 数年のちに僧行基が訪れて十一面観音の石像を安置し、そのため徳道と行基の二人を開山としている。本堂裏に小さな石窟があり、それが寺号岩殿寺の由来とかとも、云われている。

 相州三浦郡久野谷郷(神奈川県逗子市久木)海前山岩殿寺(現在は海雲山)の由来は、皇統四十五代の聖武天皇の勅願による大和の国(奈良県)の長谷寺の開山本願徳道上人が、この地に下向されたときに始まると云われる。

 それゆえ、当山は徳上、行基両上人の開基と言われている。また、大非殿前から南海を見渡せるので、山を海前(現代は海雲山)と名付け岩窟が自然の殿堂のようであったので、寺を岩殿寺と号したといわれる。

 正暦元年庚寅春三月十七日六十五代後白河法皇が来山され、ここを坂東三十三カ所第二番の霊場と定めた。なお、源頼朝が蛭ケ児島にいた頃、文覚上人の勧めで、当時の本尊を厚く信仰し、夢に現われてお告げを蒙ることが屡々あったという。戦乱の折、敗色濃くなってからも、大非の冥助幾度も得て、立直れたというが、なかでも石橋山敗軍のときは、観世音が船人ととなって頼朝を房州洲崎に渡して、忽ち十一面観世音の妙容を顕わして、三浦の方に飛び去ったという。頼朝は御報恩のため御来印を下賜され、治世の間は毎月欠かさず参拝されたという。文治三年正月二十三日には頼朝公の姫が参詣。建久二年子の三月には三浦義澄同六兵衛義村参詣。建久三年巳兎の五月八日後白河法皇四十九日の御仏事のため百僧集まり参詣。この折に南堂を補修する。承元三年五月五日には右大将実朝将軍参詣。寛喜二年十一月十一日、大破せる伽藍再建のため、大僧正院家並び十二院の別当が日夜法要を修行され、そのとき、鎌倉殿の命に依り僧西願に勧進して堂宇を再建、三代盟主三七日昼夜祈念したことが「東鑑」にも記されている。

 然し、その後もまた、物代わり星移りて七堂伽藍も荒廃し、寺院の面目も無かったものを東照神君(徳川家康)の御仁恵により境内ならびに田畑山林と御朱印を賜わり、その徳沢に潤い、且つ申し請けて寺領五石の御朱印を賜わったという。

(以上「東鑑」「三浦郡記」「相模風土記」および土地旧家覚之書による)

 

第2番  海雲山 岩殿寺(岩殿観音)

所在 神奈川県逗子市久木5-7-11

本尊 源頼朝が救われた行基菩薩の十一面観音安置

開基 徳道上人 行基菩薩

創立 養老5年(721)

電話 046-871-2268

 

 

御詠歌

 

たちよりて 

あまのいわとお おしひらき

ほとけをたのむ みこそたのしき

 

【屁理屈】 知識不足で悩む人に手助けをすると

 うまくいって当たり前 予定通りに成らないと

 自分の能力不足を棚に上げ あれやこれやと貶す

 知識不足の人への手助けは、感謝されないことが多い

 

 

 

【屁理屈】

 幾つもで支え合っていると、一つが外れると不安定になる。

 支えが外れて倒れるか、不安定になるのは、凭れていたからで、運不運ではない。

 一見仲の良い家族は、互に凭れている場合がある。

 

 

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第3番  祇園山 安養院 田代寺(田代観音)

 鎌倉に出て来て杉本寺の次に参拝したのがこの寺である。地図で見ると杉本寺は鎌倉駅から離れている。

 地図では、鎌倉駅→杉本寺→安養院と△形の位置関係だが、杉本寺→安養院の間は住宅地なので、迷子になりそうなので止めた。

 一旦、鎌倉駅東口に戻り再度若宮大通を逗子方面へ進み、鉄道手前の三叉路を右に進むと、その道は亦、三叉路に出るので左側に進む。

 暫く進むと、右側にも寺、左側にも寺がある處に出る。右側にあるのが上行寺、左側が田代寺である。

 鎌倉駅から安養院まで15分ぐらいの距離である。閑静と謂うか瀟洒と言うか、何れにせよ整った住宅地の左側に寺へ続く石畳があり、左側に「坂

東三十三番田代観音安養院」と書かれた大きな石柱がある。門前には刈り込まれた大きな躑躅があり、瀟洒な寺門がある。

 そのまま進むと正面に本堂があり、左手に樹齢七百年と言われる槙の古木がある。境内の周囲には躑躅が植えられ、石仏や石塔が配置されている。

 

 

 

【由緒】

第3番  祇園山 安養院 田代寺(田代観音)

        神奈川県鎌倉市大町3-1-22

宗派 浄土宗

開基 田代信綱 北条政子

開山 尊乗上人 願行上人

開創 1192年(建久3年)

本尊 千手観音菩薩 阿弥陀如来

 

 安養院は、神奈川県鎌倉市大町にある浄土宗の寺院で、山号は祇園山、寺号は長楽寺と謂う。本尊は阿弥陀如来。千手観音(田代観音)を安置し、坂東三十三箇所・鎌倉三十三箇所第3番札所である。

 この寺の歴史には、長楽寺・善導寺・田代寺という三つの前身寺院が関係していて、長楽寺は、1225年(嘉禄元年)北条政子が夫である源頼朝の菩提を弔うため長谷笹目ヶ谷(鎌倉文学館付近)に願行を開山として創建した寺と伝えられる。

 山号を祇園山と号し、律宗の寺院であったが、長楽寺は1333年(元弘元年)兵火により焼失し、大町にあった善導寺に統合され安養院長楽寺と号した。

 なお、安養院は政子の法号から取られたもので、一方の田代寺は1192年(建久3年)田代信綱が尊乗を開山として比企ヶ谷に建立したのに始まると伝えられ、江戸時代になって安養院に統合された。

 なお千手観音は田代寺にあったので、田代観音とも称される。

 本堂内には寺の本尊の阿弥陀如来坐像(室町時代)の背後に札所本尊の千手観音立像(江戸時代)を安置する。

 

御詠歌

  枯樹にも 

 花咲く誓い 田代寺

 世を信綱の 跡ぞ久しき 

 

 

【屁理屈】

 仕事には二通りある

 仕事に携わるにも二通りある

 金銭を得ることだけが目的の仕事

 携わることが目的の仕事

 

 

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第4番  海光山 長谷寺(長谷観音)

 付近には鎌倉大仏と長谷寺の観音様があり、江ノ島電鉄長谷駅を出れば、日本人も外国人も雑多な観光客で賑わっている。

 長谷寺前の十字路から、観光業の商い店と客待ちの人力車とタクシーで溢れている。

 寺門左袖の入り口から境内にはいると、正面に池を配した築山が有る。左手には数段の石段があり、その上に巨大な観音像を祀るお堂と、相模湾を一望できる休憩展望台がある。

 築山の右手には、紅い鳥居を配した石仏を祀る洞窟があり、付近にも所狭しと石仏が祀られている。

 築山の正面には急峻な石段が遥か上の寺宇を目指す。

 

 正面に寺門、左手に参拝券売り場と大きな駐車場がある。

 門前は雑踏だが、一瞬の人気が去った時をねらって撮った

 門前右脇にの古木がある。

 

 

【由緒】

第4番  海光山 長谷寺(長谷観音)

所在地 神奈川県鎌倉市長谷3-11-2

宗派 浄土宗系単立

本尊 十一面観音

創建年 伝・天平8年(736年)

開山 伝・徳道

開基 伝・藤原房前

正式名 海光山 慈照院 長谷寺

別称 長谷観音

札所等 坂東三十三観音4番

    鎌倉三十三観音霊場4番

文化財 梵鐘・十一面観音懸仏6面(重文)

 

 長谷寺は、神奈川県鎌倉市にある浄土宗系統の単立寺院。山号を海光山、院号を慈照院と称し、長谷観音と通称される。

 本尊は十一面観音、開山は僧侶の徳道とされる。坂東三十三箇所観音霊場の第四番札所である。

 歴史伝承では長谷寺の創建は奈良時代とされているが、中世以前の沿革は明確でなく、創建の正確な時期や経緯についても解明されていない。

 寺伝によれば、天平8年(736年)、大和の長谷寺(奈良県桜井市)の開基でもある徳道を藤原房前が招請し、十一面観音像を本尊として開山したという。

 この十一面観音像は、観音霊場として著名な大和の長谷寺の十一面観音像と同木から造られたという。すなわち、養老5年(721年)に徳道は楠の大木から2体の十一面観音を造り、その1体を本尊としたのが大和の長谷寺であり、もう1体を祈請の上で海に流したところ、その15年後に相模国の三浦半島に流れ着き、そちらを鎌倉に安置して開いたのが、鎌倉の長谷寺であるとされる。

 当寺の梵鐘には文永元年(1264年)、当時の住職真光の勧進により鋳物師物部季重が造った旨の銘文があり、この頃には長谷寺が存在していたことと、当時は「新長谷寺」と呼ばれていたことがわかる。鎌倉時代にさかのぼる遺物としては他に弘長2年(1262年)および徳治3年(1308年)銘の板碑、嘉暦元年(1326年)銘の懸仏などがある。

 近世の地誌『新編鎌倉志』や、寺に伝わる『相州鎌倉海光山長谷寺事実』などによると、歴代の権力者が長谷寺の伽藍や本尊の修造を行っている。康永元年(1342年)には足利尊氏が伽藍と諸像の修復を行なった。明徳3年(1392年)には、足利義満が観音像の光背を修復し、行基の作という伝承のある像を前立として安置した。

 天文16年(1547年)に、北条氏康の寄進を受け、天正19年(1591年)、徳川家康から朱印状を受ける。慶長12年(1607年)、堂塔伽藍を改修し、正保2年(1645年)にも、酒井忠勝が堂宇を改修している。

 長谷寺は江戸時代の初め、慶長12年(1607年)の徳川家康による伽藍修復を期に浄土宗に改宗した。当時の住持玉誉春宗を中興開山としている。明治以降に単立となった。

 境内には観音堂等の主要な堂宇は海を見晴らす山腹に建てられ、諸堂は関東大震災で倒壊後の再建である。長谷寺は文人と縁が深く、境内には高浜虚子の句碑、久米正雄の胸像などがあり、高山樗牛は明治34年(1901年)、ここに住んだことがあり、その記念碑もある。

 観音堂は長谷観音と呼ばれる十一面観音立像を安置し、奈良の長谷寺の観音像と同じ、右手に数珠と錫杖、左手に水瓶を持つ長谷寺式の像容である。

 阿弥陀堂は観音堂の右手に位置し、厄除阿弥陀と呼ばれ、鎌倉六阿弥陀(高徳院の「鎌倉大仏」、光触寺の「頬焼阿弥陀」、の他光明寺、浄光明寺、宝戒寺の各阿弥陀如来像等)に数えられる阿弥陀如来坐像を安置する。

 その像は長谷にあった誓願寺(廃寺)の旧仏で、源頼朝が造立した像という伝承があるが、実際の制作は室町時代とされる。

 大黒堂は観音堂の左手に位置し、鎌倉江ノ島七福神の1つに数えられる大黒天像を祀る。

 応永19年(1412年)作の大黒天像は宝物館に移され、現在は新しい大黒天像が祀られている。

 弁天堂は山門を入って右手に位置し、空海(弘法大師)が刻んだという伝承をもつ弁才天像(宝物館に収蔵)を祀る。堂の近くには弁天窟がある。

 本堂は山門に入る前の右手に、寺務所と軒続きにある。平成になって完成した純木造(台湾檜)。専ら壇徒の法要に使用され、非公開。

 高浜虚子句碑は大黒堂前に立つ石造観音像の台座が句碑になっている。

 高山樗牛住居碑は山門を入って左手に立ち、明治期の思想家高山樗牛は病没する直前の明治34年(1901年)頃、長谷寺境内に住んだことがあり、1959年にこれを記念する碑が建てられた。

 十一面観音懸仏は、神の憑代としての円鏡の上に本地仏としての仏像を表した御正体の一種で、銅製などの円板に立体的な仏像を取り付けたものを指す。

 長谷寺には重要文化財指定の懸仏が6面あり、うち3面にはそれぞれ嘉暦元年(1326年)、元徳2年(1330年)、元徳3年(1331年)の銘がある。

 6面のうち、嘉暦元年銘のものは鎌倉国宝館に、元徳2年銘のものを含む2面は奈良国立博物館にそれぞれ寄託されており、元徳3年銘のものを含む残り3面が長谷寺宝物館にある。

 

御詠歌

 長谷寺へ

 まいりて沖を ながむれば

 由衣のみぎはに 立つは白波

 

 

【屁理屈】

 “ひと”の欲望には際限がありません。

 此処まで!と

 際限を決めると、人生は随分と楽になります。

 

 

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第5番  飯泉山 勝福寺(飯泉観音)

 この寺へは電車で行った事がないので、付近の様子は余り記憶にない。ただこの寺は平地に所在し、寺域には古木が茂り荘厳な建造物があるなど、寺域には可也の記憶がある。

 自家用車を運転しての移動は、物事の推移が早く、而も運転に神経を集中するので、却って観察は散漫に成らざるを得ない。とても洞察など不可能に近い。

 依って車での移動は、駐車場に到着してから、駐車場に戻るまでの僅かな時間だけが、観察と記憶の対照となり、運転中の物事は、殆ど記憶に留めていない。

 其れに引き替えバスや電車での移動は、当事者にとっては全てが徒歩である。家を出てから帰宅するまで、全てが観察と洞察と記憶の対象となる。

 著者は若い頃から二宮尊徳翁に私淑していたので、小田原には幾許かの思い入れが有る。翁は小田原の出身なので、小田原には幾たびか訪れたことがあり、その序ででは申し訳ないが、飯泉山 勝福寺には参拝した経緯がある。

 先ずは重厚な仁王門に対面する。門を潜ると古木が散在する。樹齢一千年の大銀杏も有る。厳然とした大本堂と庫裏、石仏が祀られている。

 著者が記憶に留めたのは、軒に下がる大きな提灯と二体の不可思議な彫り物。一体は鳥(翼も尾もある)に人の顔、もう一体はエンゼルの様な手足のある女体に翼がある。

 

 

第5番 飯泉山 勝福寺(飯泉観音)

宗派:真言宗東寺派

本尊:十一面観世音菩薩

別称:飯泉観音

開基:弓削道境法師

創立:天平勝宝五年(753)

住所:神奈川県小田原市飯泉1161

電話:0465-47-3413

 

 勝福寺は、神奈川県小田原市飯泉にある真言宗東寺派の寺院で、山号は飯泉山と云い、本尊は十一面観音で、飯泉観音とも称される。

 この寺は、奈良時代孝謙上皇の信頼を得たが、上皇の没後下野国薬師寺に左遷されることとなった僧道鏡が下野国へ赴く途中、上皇から賜った十一面観音を相模国足柄下郡千代村に堂宇を建立して安置したのに始まると伝えられる。

 この観音像は、唐からの僧鑑真が請来したものと伝えられ、当初は補陀落山と号し、道鏡の出身である弓削氏の氏寺であったという。

 平安時代の天長7年(830年)現在地に移ったとされ、室町時代に現在の勝福寺と号するようになり、後北条氏の帰依を得た。

 なお、この寺には仇討ちで知られる曾我兄弟(曾我祐成・時致)や二宮尊徳にまつわる伝説が残されている。

 文化財として、神奈川県指定文化財の本堂と勝福寺の十一面観音立像がある。

 神奈川県指定天然記念物として、勝福寺と八幡神社境内の大銀杏がある。

 小田原市指定文化財としては、仁王門と銅鐘と青銅水蜂などがある。

 

御詠歌

 かなはなば たすけたまえと 祈る身の

 船に宝を つむはいいづみ

 

 

【屁理屈】

 薄暗い處を小さな光を頼りに歩を進める。妻子が手を携えて歩めば、少しは気が休まる。

 過ぎ去った後を振り返ると、随分と横道に逸れたところも、危なげなところも有った。たが今茲に大過なく過ぎ去った現在がある。これが家族が辿った人生というものだろう!

 

 

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第6番  飯上山 長谷寺(飯山観音)

 参拝の準備は、、先ず路程を事細かに頭に叩き込むことから始まる(車にナミゲーターが付いて居ないので) 。国道412号線から県道60号線へ、飯山白山森林公園を目指す。

 飯山白山森林公園は都市部から少し離れた郊外の景観で、眼前に小高い山が迫り紅い欄干の橋と、「飯山白山森林公園へようこそ」の案内板が記憶に残る。

 あとは市道か?町道か?・・・・・・・只管進むと、何時の間にか其処はすっかり山の中。

 古びた仁王門を潜ると人気がなく石灯籠が両側に整列し、前方に方形屋根の本堂がある。

 山の中なので辺り一面古木だらけだが、樹齢400年の狗槙(槙の種類)がある。何処の寺もほぼ同じだが、石碑が祀られている。

 

 

(缶詰屋根)

 

【由緒】

第6番  飯上山 長谷寺(飯山観音)

     神奈川県厚木市飯山5605

宗派:高野山真言宗

本尊:十一面観世音菩薩

開基:行基菩薩

創立:神亀二年(725)

住所:神奈川県厚木市飯山5605

電話:046-241-1635

別称:飯山観音

札所等:東国花の寺百ヶ寺 神奈川6番

 

 長谷寺は、神奈川県厚木市にある高野山真言宗の寺院で、神亀2年(725年)に行基が開創したとも、或いは弘仁年間(810年-824年)に空海が開創したとも伝えられる。

 

御詠歌

飯山寺 建ちそめしより つきせぬは

いりあい響く 松風の音

 

 

【屁理屈】

 人生は幸福な家庭を築く事が目的だ!

 幸福な家庭とは皆健康で、妻を愛し、子弟を愛し、父母を愛す。

 仕事はそれらを達成するための手段で、目的ではない。

 

 

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第7番  金目山 光明寺(金目観音)

 小田原厚木道路の平塚東インターより県道62号線でて、西へ向かえば、金目川沿いの平坦地、住宅地の中に第7番金目山光明寺(金目観音)がある。

 門前には左右に石柱、右側に摩尼車、正面に仁王門、その前方に本堂が窺える。仁王門の通路脇には大きな草鞋と小さな草鞋が下がっていて天井から大きな提灯が下がっている。

 門前から見て左側(境内から見て右側)に鐘楼があり、前方に紅い幟に囲まれた方形屋根の本堂が有る。

 

 

【由緒】

第7番 金目山 光明寺

所在地 神奈川県平塚市南金目897

宗派 天台宗

本尊 聖観世音菩薩

創建年 (伝)702年

開基 (伝)道儀

別称 金目観音

 

 伝承によれば大宝2年(702年)に海女が海中から観音像を得たという。その後道儀上人が一宇を建立しこの観音像を安置したのが光明寺の始まりという。

 中世には源頼朝の帰依を得、寺領も寄進され、江戸時代には江戸幕府の帰依を得、元禄10年(1697年)に伽藍が復興され、更に明治初期には一時衰退したが、近年復興された。

 この寺には、国指定の重要文化財として本堂内の厨子(附:木造聖観音立像)がある。

 この堂宇は室町時代、明応7年(1498年)の造営で、堂内に本尊聖観音像を安置されており、その前立の聖観音像の胎内銘から造営年代が判明した。なお前立聖観音像は参考資料として重要文化財の附指定となっている。

 なお神奈川県指定重要文化財として、光明寺観音堂、木造金剛力士立像、光明寺銅鐘などがあり、平塚市指定重要文化財として、木造聖観音立像、木造観音三十三応現身立像、仁王門、光明寺古文書、光明寺縁起書などがある。

 語り草として、大宝二年(702)相模国小磯の浜よて、潮汲む海士の桶より示現されし金像をまつったに創まる。海中出現の観音なり。のちに行基菩薩この地を訪れ、聖観音の木像を刻み、その胎内に納めしという。

 亦、源頼朝の室政子が実朝の無事安産を祈念したことにより「安産の観音」として崇められ、腹帯をうける信徒多く、所願みなかなうをもって「かなひ」の観音ともいう。

 仁王門は昭和62年に行った解体修理の際、元禄11年(1698)修理の墨書が多数発見され、元禄年間に観音堂にひき続き修理が施されたことが判明した。その際、解体部材の一部に元禄期より更に古い物があることがわかり、その形態から室町末期(16世紀中頃)のものと推定された。金目観音の一大修改築が行われた明応年間、この二王門は観音堂の作事方法から一時仮上屋となっていたものと考えられ、40年程経て現在残る古材による仁王門が建立されたものと思われる。

 木造 金剛力士立像、両像の基本構造は、頭頂から立脚の足臍までを欅の一本で彫出し、背面を丸木舟の様に素朴に内刳りし、そこの後頭部・背部・腰部の各材で蓋をした形で、遊脚等が別材となっている。吽形像左脚内刳面に、写真の墨書銘があり、昭和61年の解体修理の結果、この銘文が記されている部分のみ木肌を削り直してあり、「再興」は「修理」をさしていることが判明し、14世紀頃の像立と推定された。逞しい肉身部の創出や腰部衣皺の表現はかなり巧みで、運慶風の余炎を感じさせ、関東における有数の中世金剛力士像の佳作である。

 光明寺は、かつては金目観音堂の別当坊であったが、現在は宗教法人光明寺として観音堂受持となっている。この観音堂は、昭和58年から3年間に渡って行われた半解体修理の結果、元禄大修理の実態と、明応建立時の原形がほぼ判明した。この観音堂は、本格的密教本堂形式で、一般の中世密教本堂に比べて異例なほど外陣の閉鎖性が著しく、内陣は当初後面が三間とも板壁で、低く幅の広い和様仏壇を設けていることなどが特色で、15世紀末相模の各方面の情勢が反映している建物と思われる。

 この寺に祀られる幾つかの観音像に付いて述べれば、観音経(法華経普門品)によれば、観世音菩薩は教えを説く相手や場所に応じ、三十三身の姿に変化するといい、それを三十三応現身と呼び、この寺の像は、簡潔かつ素朴な作風が認められ、衣や甲冑の彫りは浅めである。

 相好は全体に穏和で、やや不均衡な尊体ながら、抑えた動きが特徴的で、造立は室町時代初期と推測される。童女身像の底部に明応7年(1498)の彩色銘があるが、造立時の銘ではなく、修理時のものと考えられる。

 光明寺に祀られる歓喜堂本尊は、詳しくは大聖歓喜大自在天、略して聖天あるいは歓喜天といい、インド神話では魔群である毘那夜迦天の王として現れ、のちに仏の教えに帰依して魔障を除く守護神と成ったと云われている。

 密教諸天の中でも最も霊験あらたかであるといわれ、光明寺の天尊は足利尊氏公をはじめ各将軍の深く帰依されたことが、現存の古文書に示されている。

 

御詠歌

 なにごとも いまはかないの 観世音

 二世安楽と たれか祈らむ

 

 

【屁理屈】

 私は言い訳をする。

 妻にも子にも、周囲にも

ただ、自分には、言い訳をしない

 

 

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第8番  妙法山 星谷寺(星の谷観音)

 この寺へは相当以前に行った経緯がある。坐間に漢詩詞の同人が居たので電車で小田急坐間に行き、同人に勧められ序でに駅の近くにある寺に参拝したのである。

 次いで数年前、隣家のご主人が坂東33観音巡礼を為さっていて、重複を問わず10ヶ寺餘も便乗させて貰った。本冊掲載の朱印はその時に戴いた。

 堂宇は坐間駅から10分ほどの處に有るが、周囲には樹木もあり閑静な住宅地と云う記憶である。寺域は清掃され諸石碑は整然と配置されていた。

 仁王像は唐金製で、鑿跡もその儘な方形石臺の上に、青天井で祀られていた。亦本堂を含め諸屋舎は近年の造築かと思わせるほど綺麗である。同行の同人(漢詩詞の同人)に誘われて堂内欄間を覗くと、奇妙な天女が居られる。一体はポッコリお腹、もう一体は鳥の足のエンゼルである。

 庭の片隅には水琴窟があり、参拝者は各々試みて清楚な響きを体験した。

【屁理屈】

 家族を征服しても子供の悪あがき

 他人を征服すれば、社会人になれる

 自分を征服すれば大人になれる

 

 

 

 

【由緒】

第8番 妙法山 持宝院 星谷寺

別称:星の谷観音

宗派:真言宗大覚寺派

本尊:聖観世音菩薩

開基:行基菩薩

創立:天平年間

住所:神奈川県座間市入谷3-3583-1

電話:046-251-2266

 

 この寺は、もとは寺の北東にある山頂(現在の座間谷戸山公園・伝説の丘)にあった観音堂の別当寺として建立されたもので、観音堂とともに行基によって創建されたと伝えられる。

 観音堂は鎌倉時代に焼失し、現在地に移されたと伝えられ、江戸時代には、江戸幕府から朱印状を与えられていた。

 この寺には、古くから「星谷寺の七不思議」(銅鐘・星の井・楠の化石・咲き分け散りの椿・観音草・根不断開花の桜・下りの紅葉)の言い伝えがある。

 国指定の重要文化財として、銅鐘 がある。

注;寺社にある殆どの銅鐘には鐘を衝く円形の凸部が前後(或いは裏表)に有るが、この寺の鐘には、片方にだけしか凸部が無い。

 

【屁理屈】

 犬猫を溺愛し牛豚を殺戮して死肉を食らう、動物愛護家?・・・・・・・ 

 

御詠歌

 障りなす 迷いの雲を ふき払い

 月もろともに 拝む星の谷

 

【屁理屈】

 殆どの“ひと”は、欲望を満たすために働く。

 

 

【屁理屈】

財物は幾ら重ねても時間と共に劣化する

知識は重ねれば重ねるほど厚くなる

 

 

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第9番  都幾山 慈光寺

 近年の町村合併で多くの市が誕生した。比企郡ときがわ町と聞くと、都市部から離れた地域と想像が付く。秩父巡礼の時に、秩父鉄道に八高線接続駅が有ったが、其れから推測すると、“ときがわ町”の様子も概ね想像が付いた。

 この寺は10年前に四駆で行った事があり、山中の寺だったと記憶している。再び数年前にも隣家のご主人の車で便乗参拝した経緯があるので、再再度の参拝は省いた。

 不思議な話だが、他人様に乗せて貰っての行動は、数年前のことなのに路程の記憶は殆ど無い。此は著者一人の記憶欠如では無さそうで、殆どの人はそう言う・・・・・・・覚えていないと!

 依って以下は相当以前の参拝記憶だが、有る部分鮮明に覚えている。

 関越自動車道東松山インターを出てから、県道273号を通り、都幾へ向かった。県道172號大野東松山線を慈光寺バス停を目当てに走った。市街地から畑地有り水田有りの農村地帯、其れから山間地帯と周囲の景観が移って行った。

 慈光寺へは右折れである。ずっと人気のない山路で、山路になれば成るほど四駆は楽しいのである。

 人気のない寺に到着した。

 間違った記憶があるかも知れぬがご勘弁を!・・・・・・・

 本堂の天井から白馬の彫像ぶら下がっていた。

 庭の大木の上の方に、鉄棒と大きな石の塊があった。

 版碑が沢山あった。勿論石碑も沢山祀られていた。

 

 

【屁理屈】

 親と子は思うほどに胸懐が通じていない

 

 

【由緒】

第9番 都幾山 慈光寺

宗派:天台宗

本尊:十一面千手千眼観世音菩薩

開基:慈光老翁

創立:白鳳二年(673)

住所:埼玉県比企郡ときがわ町西平386

電話:0493-67-0040

 

 この寺は、天武天皇2年(673年)興福寺の僧慈訓が千手観音を安置し、その後宝亀元年(770年)道忠が開山となって創建されたという。

 平安時代の貞観年間(859年 - 877年)には勅願所となり、天台宗の別院となりその中心的な寺院となった。その後、源頼朝をはじめ徳川将軍家などの帰依を得た。

 国宝として、法華経一品経・阿弥陀経・般若心経 33巻があり、重要文化財として、開山塔、銅鐘、金銅密教法具、紙本墨書大般若経がある。

 埼玉県指定文化財として、木造聖僧文殊坐像、木造宝冠阿弥陀如来坐像、木造千手観音立像がある

 観音堂に安置されている千手観音像は、平成6年(1994年)に観音堂の修復工事に際して解体修理が行われ、内部から天文18年(1549年)に大仏師法眼長慶により造立されたことを示す墨書銘が発見された。

 その外の文化財として、経箱、青石塔婆9基、蔵骨器 (附:慈光寺開山塔出土品一括)、埼玉県指定天然記念物として、タラヨウジュ、カヤ などがある。

 昭和60年(1985年)11月26日、放火により釈迦堂や鐘楼が火災となり、釈迦如来像、蔵王権現像などが焼失した。

 

【屁理屈】

 言葉は

 どのように話したか? ではなく

 どのように聴かれたか?

で判断される。

 

 

御詠歌

 聞くからに 大慈大悲の 慈光寺

 誓いも共に 深きいわどの

 

【屁理屈】

 孫の言葉は金科玉条

 

【屁理屈】

 如何に大金注ぎ込んでも、全ての欲望を手にすることは出来ない。

 金銭で購える欲望の充足だけが、人生の目的ではないはずだ

 

 

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第10番 巌殿山 正法寺 (岩殿観音)

 関越自動車道東松山インターから国道407号へ、続いて県道212号線に出て、こども動物公園を目指す。こども動物公園近くの信号を右折れし1キロ弱進む。次に左折れすれば、巌殿山 正法寺行き当たる。

 帰りは他の路も有りそうなので、先へ続く道を進んだら、隧道があり、通り抜けたら県道に出た。

 左折れして来た方向に戻ったら、大東文化大学に夾まれた路となり、そのまま進んだら、こども動物公園にでた。

 山の高さかは判らぬが、平地は県道を夾んで数十メートルの巾が有る丈で、この僅かな平地に住家が建ち並び、山は住家に覆い被さるように鬱鬱と続く。

 平地は遂には無くなり、僅かに道幅だけとなる。伽藍は平地の行き止まり辺りに有る。

 この寺域は相当に広く、四駆なら目と鼻の先だが、正法寺から大分離れたところに巌殿観音が有る。

 仁王門から延びる表参道の両脇には家が建ち並んでおり、嘗ての正法寺と門前町の繁栄の面影を残しているが、実際に商店の建物のまま残っているのは丁字屋旅館(江戸時代から昭和初期まで営業していた)と向かいの麺屋十番(さぬき系の麺をダシの効いたつゆで出すうどん屋)のみである。

 寺の裏手には交通量の多い県道が通っているため、正法寺への参拝者もこの県道から隧道を通って観音堂へ直接来る人がほとんどである。しかしこれは裏口で、正式には県道のこども動物公園前の交差点を斜めに北へ曲がり800m先を左折すると仁王門に突き当たるので(駐車場あり)、ここから歴史のある石段を一歩一歩、観音様を念じながら登るのが参拝の礼に適う(石段が苦手の方には左側に坂道がある)

 なお、県道沿いには大東文化大学、埼玉県平和資料館などの近代的な建物が立ち並んでいるのに対し、寺と参道周辺には昔ながらの静かな雰囲気が残っている

 

【屁理屈】

 人間社会では金銭を払えば、表面的な欲望と生活の欲望は手に入れることは出来るが、物事の本質に逼る欲望は、手に入れることは出来ない。

 物事の本質に逼る欲望を手にするには、修養以外に方法はない。

 

 

【由緒】

第10番 巌殿山正法寺(岩殿観音)

所在地:埼玉県東松山市岩殿1229

宗派:真言宗智山派

本尊:千手観音

創建年:養老2年(718年)

開基:沙門逸海

別称:岩殿観音

 寺伝によれば養老2年(718年)に、沙門逸海が千手観音像を刻み開山し正法庵と称し、鎌倉時代初期に源頼朝の命で比企能員が復興し、頼朝の妻北条政子の守り本尊だったと伝わっている。

 天正2年(1574年)に栄俊が中興開山となり、天正19年(1591年)に、徳川家康より寺領二十五石の朱印地を与えられる。

  境内は岩殿丘陵(この辺りの地名が巌殿)の最東端に位置し、物見山のすぐ隣にあるため、寺は急傾斜地を切り崩したような場所にあり、山寺の雰囲気を持つ。

 観音堂は養老年間の創建と伝えられ、寛永、天明、明治と都合3回再建され、現在の建物は明治11年(1871年)の建立で、本尊の千手観音は、室町時代の作と伝えられる。

 仁王門は表参道から石段を少し登った所にある「巌殿山」の額を掲げた門で、左右には仁王像がある。右手には本堂があり、観音堂は、この仁王門から長い階段を登ったところにある。

 鐘楼と銅鐘銅鐘(梵鐘)(埼玉県指定有形文化財)は、元亨2年(1322年)に鋳造されたもので、外面に無数の傷が付いており、これは天正18年(1590年)年に豊臣秀吉による関東征伐の際に、山中を引き回した時の傷だと伝えられる。

 鐘楼は(東松山市指定有形文化財)元禄15年(1702年)に比企郡野本村(現在の東松山市野本)の山田茂兵衛の寄進で建立されたと伝えられる草葺き屋根の建物で、東松山市内では最も古い建造物として、東松山市有形文化財に指定されている。

 六面幢は天正10年(1582年)に、正法寺の僧、道照が建立したもので、埼玉県史跡に指定されていて、境内には樹齢800年の東松山市指定天然記念物の大銀杏が有る。

 正面の石段を上ると、愚禅和尚の筆になる「施無畏」の扁額をかける仁王門、さらに登りつめると、岩壁に囲まれた五百坪はどの境内に観音堂が建っている。

 その右手の鐘楼には松山合戦の折、兵の士気を鼓舞するため陣中を引きずったのでキズ跡を残す元享二年(1322年)在銘の梵鐘がある。昔は六十六ヵ坊を擁し、関東に並びなき大伽藍を構えていたというが、今は堂塔の数は少ない。

 この寺の盛衰はまことに激しかったと記録にあるが、源頼朝の命により比企能員が復興、能員が北條時政のために自害をせまられて死去、その嫡子時員は追手を逃がれて出家し、この寺を護った。

 のち室町時代には 「袖をつき踵をめぐらして現当二世の道をねがふ」(河越軍記)者が多く大いに栄えた。だが永禄十年(1567年)松山城合戦の兵火で焼亡、一山の僧徒は悲境に離散。天正二年(1574年)僧栄俊が中興した。

 寛永年間及び明治十年に失火。現在のお堂は明治十二年高麗村から移築したもので、本尊は千手の坐像で、相好端正なお姿は鎌倉初期の作風を伝える。

 万治二年(1659年)水野石見守忠貞奉納の「明版一切経」慶長以前の記録「正法寺文書」は貴重な寺宝で、江戸時代末期の『山吹日記』に「仏殿に馬の古画の額をかゝげたり。寺僧の説に古法眼の筆なりと。昔はぬけ出て、夜な夜な麦をくひけるを、ある画師の筆をそへて撃ぎとめしより、出ることなくなりし」という「抜け絵馬」や、中山郷の天満宮の奉納相撲に、この村の人がいつも負けていたので、この寺の仁王尊に相手をたおしてもらったという「仁王の相撲」の話は面白い。

【六面幢】

 正法寺六面幢は、正法寺観音堂の東南、谷を利用した沼の対岸山中の平場にあり、泥片岩(青石)の6板の板石塔婆を組み合わせて、六角柱をつくり、その上に六角形の笠石をのせたものですが、1枚欠失しています。

正法寺六面幢

 高さ107センチメートル、板石の大きさは横36・縦101センチメートル、笠石の直径は128センチメートルで、笠石の周縁には、飛雲、裏側には双竜・宝球、獅子、宝相華が極めて精巧に彫刻され、板石にはそれぞれ銘文が刻まれている。

 これによると、天正10(1582)年2月彼岸中日に、岩殿山の僧道照が開山栄俊、弟子俊誉、

妙西、道慶、俊意らの菩提を供養するために建立されたものと思われる。

 

【屁理屈】

 人生80年と言うけれど、水を飲みウンチをして、呼吸をしていれば人生か・・・・

 活躍できるのは三四十年そこそこだ!・・・・・・・前後は子供と燃え滓

 30年もの人生を注ぎ込んで、○○か?・・・・・

 

 

御詠歌

後の世の 道を比企の 観世音

この世を共に 助け給えや

 

【屁理屈】

 収入の回数が多いほど浪費が多くなる

 

 

 

【注】 編集のためにページを差し入れました

秩父巡礼記 P176 の続き

すぐれた詩人金子みすゞ

 こうしたみすゞのあたたかい眼差しは、なんのむくいも求めず、ただ人のために自分の仕事をコツコツとはたす、名もない存在のすばらしさを、身近な土や太陽などにこと寄せて称揚している。そういうところに「見えないけれどもあるんだよ」というみすゞの、表面的なまやかしにごまかされず物事の真実を見ていこうとする、人間と人生にたいする深い洞察がうかがわれる。だから読むものが、自分の生活を反省させられたり、生きる道を激励されたりするのである。

 

     『土と草』

    母さん知らぬ

    草の子を、

    なん千萬の

    草の子を、

    土はひとりで

    育てます。

 

    草があおあお

    茂ったら、

    土はかくれて

    しまうのに。

 

     『日の光』

    おてんと様のお使いが

    揃って空をたちました。

    みちで出逢ったみなみ風、

    (何しに、どこへ。)とききました。

【注】第20番西明寺末ページに続く

 

 

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