第11番 岩殿山 安楽寺(吉見観音)

 国道407號を北上し県道271号線を先ずは“吉見百穴”に立ち寄り、その儘進めば、岩殿山 安楽寺に行ける。

 埼玉県比企郡吉見町は、周囲に丘陵は有るが、高い山は無く農地と住宅地の混在する地域で、“吉見百穴”は小学生の頃、遠足で来た経験もある。

 都会にある寺院は、配置も整えられ綺麗に清掃されていて、ご住職さんのご人徳は本より、民家も多ければ経済的にも豊であろうとは愚生にも想像が付く。

 住宅地からチョット歩を進めると、直ぐに辺り一面の農地に出る。この位の環境が、住むには一番良いところだ!とは著者の言。

 平地にあるような寺でも、道路よりは少し高いところにある。この寺も例に漏れず30段ほどの石段があり、緑に囲まれた環境は訪れる人の心を洗ってくれる。

 

 

【由緒】

第11番 岩殿山 安楽寺(吉見観音)

別称:吉見観音

宗派:真言宗智山派

本尊:聖観世音菩薩

開基:坂上田村麻呂

創立:大同元年(806)

住所:埼玉県比企郡吉見町御所374

電話:0493-54-2898

東国花の寺百ヶ寺 埼玉5番

文化財 三重塔(県指定文化財)

 

 安楽寺は、奈良時代の僧行基が聖観音像を安置したのに始まるとされ、平安時代初期の武将坂上田村麻呂が堂宇を建立したと伝えられる。

 その後、源頼朝の弟源範頼が三重塔などを建てたとされるが、兵火により焼失したという。もとは息障院が本坊でありこの寺の近くにあったが、その後息障院はこの寺の南東へ約1kmのところへ移り、江戸時代前期、杲鏡によって再興された。

 埼玉県指定文化財として、本堂、三重塔、仁王門が有り、吉見町指定文化財として、仁王像がある

 吉見観音縁起によると、

 今から約1200年前に行基菩薩がこの地に観世音菩薩の像を彫って岩窟に納めたことが始まりとしている。

 平安時代の末期には、源頼朝の弟範頼がその幼少期に身を隠していたと伝えられ、安楽寺の東約500mには「伝範頼館跡」と呼ばれる息障院がある。

 この息障院と安楽寺は、かつては一つの大寺院を形成していたことが知られていて、天文6年(1537年)後北条氏が松山城を攻めた際に、その戦乱によって全ての伽藍が消失し、江戸時代に本堂・三重塔・仁王門が現在の位置に再建されたと伝えられている。

 ここは、埼玉県東松山市にある「岩殿山 安楽寺」(別名、古くから岩殿観音の名前で親しまれている。)である。吉見縁起によれば、ご本尊は聖武天皇の勅命を受けた行基が今から約1200年前に聖観世音菩薩の像を彫って岩窟に納めたのが始まりという。

 坂上田村麻呂あ奥州征伐の時にこの地方に立ち寄り一時総鎮守となった。

 その後、平安時代の末期に源平の合戦で名高い源頼朝の弟「範頼」が、幼少期に身を隠していたと伝えられ、吉見荘を領地としていた頃に、本堂と三重塔を建立したが、北条氏との戦いで全て焼失した。

 安楽寺の約500m先には、「伝範頼館跡」と呼ばれる身障院があり、この身障院と安楽寺はかつては一つの大寺院を形成していたといい、現在の本堂と三重塔は今から約320年前に再建されたものであるが大変立派な建築物で、本堂の欄間には、左甚五郎の作と伝わる「野荒しの虎」の彫刻がある。

 

御詠歌

 吉見よと 天の岩戸を 押し開き

 大慈大悲の 誓いたのもし

 

 

 

 

【屁理屈】

 人は生まれて、死ぬまで僅かに80年

 意気がが有って活動できるのは、僅かに40年余り

 僅か40年のあいだに、何を為そうとするのですか

 色々あるだろう

 其れが、生きていた証でもあり、人生の目的と言うことでしょう

 お金を稼ぐのは、目的を達成するための手段と思うのですが

 お金を稼ぐのが目的では、悲しすぎますね

 貴方の人生の目的は何ですか?

 

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第12番 華林山 慈恩寺(慈恩寺観音)

 華林山 慈恩寺は埼玉県岩槻に有り、著者は松戸市なので、岩槻を人形の街として知っている。七五三人形で気の利いた人形の欲しいときは岩槻まで足を伸ばすのである。

 国道16号線を北上すると岩槻に到る。外環道(東京外郭環状道路)が無かったとき、東北自動車道に乗り入れるには、岩槻から東北自動車道に入った。

 だから岩槻には幾度も行っていて、岩槻は市街地から少し離れると田畑の広がる農村地帯である。寺はその農村地帯の中にあり、山中の寺や市街地の寺から比べると、寺域は相当に広い。

本堂前面

 

【屁理屈】 “ひと”は自分で思うほど心優しくはない

     “ひと”は自分で思う以上に薄情である

    “ひと”は自分で思うほど賢くはない

 玄奘三蔵(西遊記の三蔵法師)の遺骨を納めた玄奘塔

 

【由緒】

第12番 華林山 最上院 慈恩寺 慈恩寺(慈恩寺観音)

宗派:天台宗

本尊:千手観世音菩薩

開基:慈覚大師

創立:天長元年(824)

住所:埼玉県さいたま市岩槻区慈恩寺139

電話:048-794-1354

玄奘塔(玄奘三蔵法師の霊骨奉安)

 

 この寺は、天長年間(824年-834年)円仁の開山によって創建されたと伝えられ、天正18年(1590年)関東に入部した徳川家康から翌天正19年(1591年)に寺領を寄進され、江戸時代に入ると江戸幕府のほか岩槻城主からも帰依を得た。

 昭和17(1942)年12月に、当時所在不明だった玄奘三蔵法師の霊骨を、日本軍(高森部隊)が南京中華門外で、土木作業中に偶然発見され、霊骨は南京政府に届けられ、その後盛大に奉安式が行なわれた。

 分骨は日本仏教会に贈られ、開創の由来によってこの寺に奉安されることとなり、昭和28(1953)年5月に十三重の花崗岩の石組みによる霊骨塔「玄奘塔」が落慶した。

 昭和30年(1955年)に日台友好のため、台湾に分骨され、今は日月潭の玄奘寺に奉安されている。さらに昭和56年(1981年)には薬師寺が三蔵の属する宗派の法相宗であったため、慈恩寺から分骨がなされ、現在の薬師寺には玄奘三蔵院が建てられ、三蔵はそこに奉安されている。

 さいたま市有形文化財として、南蛮鉄灯籠(1589年伊達与兵衛房実が寄進したもの)がある。

 慈恩寺の謂れとして、天長元(824)年に、慈覚大師(円仁)の開山によって創建されたと伝えられていて、大師は関東巡錫の際、日光山の頂きから、仏法弘通の地を示し給えと祈念して李の実を虚空に投じたと云う。

 その後大師がこの地を訪れた際、池のほとりに李の木があったため、有縁の地と感じ、杉の霊木をもって千手観音の尊像を刻み一宇を建立して安置したと伝えられている。

 慈恩寺の寺名は、風景が似ているとの理由から、慈覚大師が入唐求法の折に遊学した長安の大慈恩寺にちなんで名付けられたとされる。

 天正19(1591)年には、徳川家康から寺領百石を寄進され、江戸時代に入り、寛文10(1670)年に東照神君の霊牌供養料二十八石を受けたほか、岩槻城主からも帰依を得た。

 また、文政年間(1818〜30年)には、日光輪王寺法親王歴代の参籠所とされた。『坂東霊場記』には、「近隣他境数里の境、貴賎道俗昼夜をわくなく
歩を運び群集をなせり」と紹介され、盛時には十三万五千坪の境内と、塔中六十六か坊を有する大寺であったとされる。

 

 

御詠歌

 慈恩寺へ 詣る我が身も たのもしや

 うかぶ夏鳥を 見るにつけても

 

 

 

 

【屁理屈】

 頑固者は、自分の心に余裕のない現れである。

 頑固者は、自分の知識に余裕のない現れである。

 閉ざせば閉ざすほど、一層停滞し窮地に入り込む

 

 

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第13番 金龍山 浅草寺(浅草観音)

 金龍山 浅草寺は東京スカイツリーから徒歩で行ける程の近くにあり、著者が小学生の頃、(今から60年前は、自動車が百分の一しか走っていなかった)自転車で遊びに行った記憶がある。

 浅草は東京にある庶民文化の集積地で、而も寺域は広大で文化的文物も多彩多岐大量で、拾い出したら際限ない。

【屁理屈】

 何か得る物があるから人が集まる

 得る物とは、魅力だ!

 魅力にもいろいろある

 

 

【由緒】

第13番 金龍山 浅草寺(浅草観音)

宗派:聖観音宗

本尊:聖観世音菩薩

開基:土師直中知・桧前浜成・桧前竹成

中興開山:慈覚大師

創立:推古天皇三十六年(628)

住所:東京都台東区浅草2-3-1

電話:03-3842-0181

 

 浅草寺は東京都台東区浅草二丁目にある東京都内最古の寺で、山号は金龍山と云い、本尊は聖観音菩薩である。元は天台宗に属していたが第二次世界大戦後独立し、聖観音宗の総本山となった。

 観音菩薩を本尊とすることから「浅草観音」あるいは「浅草の観音様」と通称され、広く親しまれていて、東京都内では、唯一の坂東三十三箇所観音霊場の札所で、江戸三十三箇所観音霊場の札所(1番)でもある。

 東都金龍山浅草寺図(文政3年(1820年))にみえる伝承によると、浅草寺の草創の由来は以下のとおりである。推古天皇36年(628年)、宮戸川(現・隅田川)で漁をしていた檜前浜成・竹成兄弟の網にかかった仏像があった。

 これが浅草寺本尊の聖観音像で、この像を拝した兄弟の主人・土師中知、土師真中知は出家し、自宅を寺に改めて供養した。これが浅草寺の始まりという。

 観音像は高さ1寸8分(約5.5センチ)の金色の像であると言われるが公開されることのない秘仏のため、その実体は不明である。その後大化元年(645年)、勝海上人という僧が寺を整備し観音の夢告により本尊を秘仏と定めたという。

 さらに平安時代初期の天安元年(857年。天長5年(828年)とも)、延暦寺の僧・円仁(慈覚大師)が来寺して「お前立ち」(秘仏の代わりに人々が拝むための像)の観音像を造ったという。

 これらのことから浅草寺では勝海を開基、円仁を中興開山と称していて、天慶5年(942年)、安房守平公雅が武蔵守に任ぜられた際に、七堂伽藍を整備したとの伝えがあり、雷門、仁王門(現・宝蔵門)などはこの時の創建といわれる。

 本尊の聖観音像の由縁については、現在の埼玉県飯能市岩淵にある岩井堂観音に安置されていた観音像が、大水で流されたという伝承がある。

中世から近世の歴史書に依れば、吾妻橋金龍山遠望 浅草寺の文献上の初見は、鎌倉時代の『吾妻鏡』で、同書によれば、治承5年(1181年)、鎌倉の鶴岡八幡宮造営に際し、浅草から宮大工を呼び寄せている。

 また、建久3年(1192年)、鎌倉の勝長寿院で後白河法皇の四十九日法要が営まれた際、浅草寺の僧が参加していて、後深草院二条の『とはずがたり』には、彼女が正応3年(1290年)浅草寺に参詣した時の様子が描写されている。

 天正18年(1590年)、江戸に入府した徳川家康は、浅草寺を祈願所と定め寺領五百石を与えた。

 浅草寺の伽藍は中世以前にもたびたび焼失し、近世に入ってからは寛永8年(1631年)、同19年(1642年)に相次いで焼失したが、3代将軍徳川家光の援助により、慶安元年(1648年)に五重塔、同2年(1649年)に本堂が再建された。このように徳川将軍家に重んじられた浅草寺は観音霊場として多くの参詣者を集めた。

 貞享2年(1685年)には、表参道に「仲見世」の前身である商店が設けられ、寺が近隣住民に境内の清掃を役務として課す見返りに開業を許可したものである。

 江戸時代中期になると、境内西側奥の通称「奥山」と呼ばれる区域では大道芸などが行われるようになり、境内は庶民の娯楽の場となった。

 天保13年(1842年)から翌年にかけて、江戸三座の芝居小屋が浅草聖天町(猿若町、現・台東区浅草六丁目)に移転し、そうした傾向はさらに強まった。

 関東大震災直後に、仲見世は全焼したが、境内は被害を免れ、浅草は近代以降も、庶民の盛り場、娯楽場として発達し浅草寺はそのシンボル的存在であった。

 明治6年(1873年)には境内が公園地に指定され、明治18年(1885年12月27日)には表参道両側の「仲見世」が近代的な煉瓦造の建物に生まれ変わった。

 明治23年(1890年)には商業施設と展望塔を兼ねた12階建ての「凌雲閣」(通称「浅草十二階」)が完成している。

 大正6年(1917年)からは日本語の喜歌劇である「浅草オペラ」の上演が始まり、映画が普及する以前の大衆演劇として隆盛した。関東大震災では浅草区は大半が焼失する被害にもかかわらず、避難民の協力によって境内は一部建築物が延焼するだけの被害で済んでいる。

 然し昭和20年(1945年)3月10日、東京大空襲で旧国宝の本堂(観音堂)、五重塔などが焼失。太平洋戦争後の浅草は、娯楽の多様化や東京都内の他の盛り場の発展などによって一時衰退した。

 しかし、地元商店街のPR活動等によってかつての賑わいを取り戻しつつあり、下町情緒を残す街として東京の代表的な観光地となっており、羽子板市、ほおずき市などの年中行事は多くの人出で賑わっている。

 次いで、雷門は表参道入口の門で、切妻造の八脚門で向かって右の間に風神像、左の間に雷神像を安置することから正式には「風雷神門」というが「雷門」の通称で通っている。

 慶応元年(1865年)に焼失後、長らく仮設の門が建てられていたが昭和35年(1960年)、約1世紀ぶりに鉄筋コンクリート造で再建された。此は実業家・松下幸之助が浅草観音に祈願して病気平癒した報恩のために寄進したもので、門内には松下電器産業(現パナソニック)寄贈の大提灯があり、三社祭の時と台風到来の時だけ提灯が畳まれる。

 風神雷神像は頭部のみが古く、体部は慶応元年(1865年)の火災で焼失後、明治7年(1874年)に補作。昭和35年(1960年)の門再建時に補修と彩色が加えられている。

 門の背面の間には、「金龍・天龍」の像を安置し、西の金龍(女神)は仏師・菅原安男、東の天龍(男神)は彫刻家・平櫛田中の作で、昭和53年(1978年)に奉納されたものである。

 仲見世通りは、影向堂雷門から宝蔵門に至る表参道の両側にはみやげ物、菓子などを売る商店が立ち並び、「仲見世」と呼ばれている。

 商店は東側に54店、西側に35店を数える。寺院建築風の外観を持つ店舗は、関東大震災による被災後、大正14年(1925年)に鉄筋コンクリート造で再建されたものである。

 

 宝蔵門は雷門をくぐり、「仲見世」の商店街を抜けた先にある。入母屋造の二重門(2階建てで、外観上も屋根が上下二重になっている門)である。現在の門は昭和39年(1964年)に再建された鉄筋コンクリート造で、実業家・大谷米太郎夫妻の寄進によって建てられたものである。

 門の左右に金剛力士(仁王)像を安置することからかつては「仁王門」と呼ばれていたが、昭和の再建後は宝蔵門と称している。その名の通り、門の上層は文化財の収蔵庫となっている。

 二体の金剛力士像のうち、向かって左(西)の阿形(あぎょう)は仏師・錦戸新観、右(東)の吽形(うんぎょう)像は木彫家・村岡久作の作である。

 阿形像のモデルは力士の北の湖、吽形像のモデルは明武谷と言われている。

 門の背面左右には、魔除けの意味をもつ巨大なわらじが吊り下げられている。これは、前述の村岡久作が山形県村山市出身である縁から、同市の奉賛会により製作奉納されているもので、稲藁2,500kgを使用している。

 耐震性の向上と参拝客に対する安全確保のため平成19年(2007年)に屋根改修工事を行い、軽量さと耐食性に優れたチタン成型瓦を全国ではじめて採用した。

 使用したチタンは表面にアルミナブラスト加工を施したものでそれらをランダムに配置することで土瓦特有の「まだら感」を再現し、瓦と変わらない外観となっている。また、主棟・隅棟・降棟・妻降棟すべての鬼飾もチタンで製作された。

 本尊の聖観音像を安置するため観音堂とも呼ばれる。旧堂は慶安2年(1649年)の再建で近世の大型寺院本堂の代表作として国宝(当時)に指定されていたが、昭和20年(1945年)の東京大空襲で焼失した。現在の堂は昭和33年(1958年)に再建されたもので鉄筋コンクリート造である。外陣には川端龍子筆「龍の図」、堂本印象筆「天人散華の図」の天井画がある。

 内陣中央には本尊を安置する間口4.5メートル、高さ6メートルの宮殿がある。宮殿内部は前の間と奥の間に分かれ、奥の間に秘仏本尊、前の間には「お前立ち」の観音像が安置される。

 宮殿の扉の前には「御戸張」と称する、刺繍を施した帳が掛けられていて、時々デザインの違うものに掛け替えられている。

 毎年12月13日に開扉法要が行われ、短時間開扉されるほか、特別な行事の際などに開扉が行われる場合があるが、その際も参拝者が目にすることができるのは「お前立ち」像のみで秘仏本尊像は公開されることはない。

 宮殿の手前左右には脇侍の梵天・帝釈天像、宮殿の裏には秘仏本尊と同じ姿という聖観音像(通称裏観音)、堂内後方左右の厨子内には不動明王像と愛染明王像を安置する。

 2009年2月から2010年12月にかけて、「平成本堂大営繕」が行われ、屋根の葺き替えは昭和33年(1958年)の再建以来50年ぶり。宝蔵門の改修工事でも用いたチタン成型瓦を採用。使用色も2色から3色に増やし、より粘土瓦に近い風合いを醸し出している。

 再建前の五重塔は慶安元年(1648年)の建立で本堂と同様、関東大震災では倒壊しなかったが昭和20年(1945年)の東京大空襲で焼失し、現在の塔は本堂の西側、寛永8年(1631年)に焼失した三重塔の跡地付近に場所を移して、昭和48年(1973年)に再建されたもので鉄筋コンクリート造、アルミ合金瓦葺き、基壇の高さ約5メートル、塔自体の高さは約48メートルである。

 基壇内部には永代供養のための位牌を納めた霊牌殿などがあり、塔の最上層にはスリランカ・アヌラーダプラのイスルムニヤ寺院から招来した仏舎利を安置している。

 なお、再建以前の塔は東側にあった。その位置(交番前辺り)には「塔」と刻まれた標石が埋め込まれていたが、平成21年(2009年)、新たに「旧五重塔跡」と記された石碑が設置され、周辺には木が植えられ、憩いの場となっている。

 二天門は本堂の東側に東向きに建ち、切妻造の八脚門で、元和4年(1618年)の建築で、第二次世界大戦にも焼け残った貴重な建造物である。

 この門は、本来は浅草寺境内にあった東照宮(徳川家康を祀る神社)への門として建てられたものである。(東照宮は寛永19年(1642年)に焼失後、再建されていない)

 現在、門の左右に安置する二天(持国天、増長天)は上野の寛永寺墓地にある厳有院(徳川家綱)霊廟から移されたもので、平成22年(2010年)、改修により創建当初の様式に戻された。

 浅草神社は本堂の東側にあり、拝殿、幣殿、本殿は重要文化財で、浅草寺の草創に関わった3人を祭神として祀る神社で、明治の神仏分離以降は浅草寺とは別法人になっている。

 伝法院は宝蔵門の手前西側にあり、浅草寺の本坊で、小堀遠州の作と伝えられる回遊式庭園がある。

 通常、一般には公開していないが、特別公開されることがあり、平成23年(2011年)、国の名勝に指定された。

 その他の堂宇などを述べれば、駒形堂は寺の南方、隅田川に架かる駒形橋西詰の飛地境内にある小堂で、本尊は馬頭観音立像(秘仏)である。

 浅草寺本尊聖観音像の「示現の地」とされ、かつて船で来訪する参詣者はここで下船し、駒形堂に参詣してから観音堂へ向かったという。現在の堂は鉄筋コンクリート造、方三間、宝形造で、平成15年(2003年)に建て替えたものである。

 堂は元来は隅田川に向いて建てられていたが、現在の堂は江戸通り側を正面とし、川には背を向けた形になっていて、本尊は毎月19日の縁日に開扉され法要が行われる。

 二尊仏は宝蔵門手前右手にある2体の露座の銅造仏像で、通称「濡れ仏」と云う。向かって右が観音菩薩、左が勢至菩薩像である。

 台座を含めた高さは約4.5メートル。貞享4年(1687年)の作で、台座の刻銘によれば、上野国館林(群馬県館林市)の高瀬善兵衛という人物が、かつて奉公した日本橋の米問屋成井家への報恩のために造立したものである。

 久米平内堂は二尊仏の手前にある小祠で、ここに祀られる久米平内は、講談等に登場する半ば伝説化された人物である。

 その伝記等は定かでないが、剣の道に優れ、多くの人の命を奪ったので(首切り役人だったともいう)、その罪滅ぼしのために、自らの像を仁王門の近くに埋めて多くの人に踏みつけさせたという。

 「踏みつけ」が「文付け」(恋文)に通じることから、縁結びの神と見なされるに至った。

 弁天山は宝蔵門の東方にあり、広場の奥にある小山をいい、石段上に朱塗りの弁天堂、その右手に鐘楼が建っている。

 弁天堂は鉄筋コンクリート造で昭和58年(1983年)に再建され、鐘楼は木造で昭和25年の再建である。この鐘楼に架かる梵鐘は江戸時代の人々に時を知らせた「時の鐘」の一つで、元禄5年(1692年)の銘がある。

 松尾芭蕉の句「花の雲鐘は上野か浅草か」と関連して説明されることが多いが、この句は現存する鐘の鋳造の5年前の貞享4年(1687年)に詠まれたものである。弁天堂への石段の左側には芭蕉の「観音の甍見やりつ花の雲」の句碑がある。

 影向堂は本堂の西側にあり、鉄筋コンクリート造、寄棟造、錣葺き屋根で、平成6年(1994年)の建立である。堂内には本尊聖観音像のほか、鎌倉期の円派の様式を示す阿弥陀如来坐像など十二支の守り本尊である8体の仏像を横一列に安置してある。

 影向堂の周囲には六角堂、橋本薬師堂、石橋などがあり、影向堂の左に建つ六角堂(東京都指定有形文化財)は室町時代の建立で、小規模ではあるが、境内最古の建物で、堂内には日限地蔵を本尊として祀ってある。

 石橋(国の重要美術品)は、かつて境内にあった東照宮(徳川家康を祀る)への参詣用に造られたもので、元和4年(1618年)、東照宮が勧請された際に建造されたが、東照宮自体は焼失後再建されていない。

 淡島堂は影向堂のさらに西側に建ち、江戸時代、元禄年間に紀州(和歌山市)の淡島明神(淡嶋神社)を勧請したことからこの名がある。

 木造、入母屋造。平成7年(1995年)、境内地の再整備の際に旧影向堂を移して淡島堂としたもので、この堂は昭和30年(1955年)までは浅草寺の仮本堂であった。

 堂内には本尊阿弥陀如来坐像、向かって左に淡島神の本地仏とされる虚空蔵菩薩像を安置し、毎年2月8日にこの堂で針供養が行われることで知られる。

 鎮護堂は本坊伝法院の鎮守で、伝法院通りを西方に向かって歩いた右手に入口があり、伝法院は非公開だが、敷地の南西にある鎮護堂のみは公開されている。

 ここから柵越しに伝法院の回遊式庭園が瞥見できる。ここに祀られる「鎮護大使者」とはタヌキである。明治時代の初期、境内には多くのタヌキが住み着き、寺では手を焼いていた。ある夜、当時の住職の夢にタヌキが現れ、「自分たちを保護してくれるならば、伝法院を火災から守ってやろう」と住職に告げたため、この堂を建てて鎮守とすることにしたという。切妻造の拝殿の奥に建つ本殿は大正2年(1913年)の建立である。

 境内には幾体もの銅像が有るので列挙する。

 九代目市川團十郎像 ・瓜生岩子像大谷米太郎夫妻像 ・九代目市川團十郎「暫」の像 ・松尾芭蕉句碑 ・迷子知らせ石標 ・「鳩ポッポ」の歌碑 ・映画弁士塚 ・喜劇人の碑 ・瓜生岩子像 ・『こちら葛飾区亀有公園前派出所』記念碑 ・消防殉職者表彰碑 ・浅草神社境内には久保田万太郎句碑 ・川口松太郎句碑 ・河竹黙阿弥顕彰碑 ・市川猿翁(二代目市川猿之助)句碑 ・初代中村吉右衛門句碑 などがある。

 文化財として、六角堂二天門(重要文化財) ・法華経(国宝) ・元版一切経(重要文化財) ・伝法院庭園(名勝)などがある。

 

【屁理屈】

 野菜作りは、今年失敗しても、来年また作り直せばよい

 子供は一生に一作である。

 作り直しは出来ない。

【屁理屈】

 自分の能力の限界を知っていますか?

 

 

 

御詠歌

ふかきとが 今よりのちは よもあらじ

つみ浅草へ まいる身なれば

 

【屁理屈】

 この世に普通と云うことは無い!

 この世に異常と云うこともない。ただ知らなかっただけ!

 想定外とは、知っていたのに対応しなかったこと

 

【屁理屈】

 個人が必要とする金額以上に財貨が有ると

人生をダメにする

 家族もダメになる

 

 

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第14番 瑞応山 弘明寺 (弘明寺観音)

 この寺は京浜急行で行けば簡単に行ける。駅名が“弘明寺”なので、間違えることもない。駅前なので通行人に聞かなくとも直ぐに所在が分かる。

瑞應山の横額が有るから、此方が本堂かな?

 

大きいから此方が本堂かな?

【由緒】

第14番 瑞応山 弘明寺 (弘明寺観音)

所在地:神奈川県横浜市南区弘明寺町字山下267

山号:瑞應山

宗派:高野山真言宗

本尊:十一面観世音菩薩

創建年:伝・天平9年(737年)

開基:伝・行基

正式名:瑞應山 蓮華院 弘明寺

別称:弘明寺観音

武相不動尊 第18番

文化財:木造十一面観音立像(重要文化財)

弘明寺f、横浜市南区にある高野山真言宗の寺院。瑞應山蓮華院と号し、横浜市内最古の寺院である。 本尊の木造十一面観音立像(通称「弘明寺観音」)は、国の重要文化財。

 

 寺名は駅名、町名などにも広く使われていて、鎌倉時代には「求明寺」と表されていた。 その後、呉音で同じ「ぐ」と読む観音経偈文にある「弘誓深如海」の弘の字を当てて弘明寺に改めたといわれている。

 寺伝によると、養老5年(721年)にインドの僧・善無畏が当地に結界を創り、天平9年(737年)に行基が観音像を刻んで一宇を建立したと伝えられ、行基を以って開基としている。

 弘仁年間(9世紀初期)には空海が双身歓喜天(弘明寺聖天)を彫刻し安置したといい、 鎌倉時代には源将軍家累代の祈願所であった。

 戦国時代には北条早雲から寺領を、江戸時代には歴代将軍から朱印地を賜り、坂東三十三箇所観音霊場の十四番札所として信仰を集めた。

 平成16年(2004年)、弘明寺が事務局となり「病苦研究会」という真言宗有志の団体が形成されている。 終末医療における、心理面のサポートに仏教思想を活かす為の試みで、観音像など秘仏とはなっているが、内陣参拝で拝観できる。

 かつては広い寺有地を有していたが、廃仏毀釈による公有地化で北側の大半(現・弘明寺公園)を横浜市に譲渡し、北側には湘南電気鉄道(現・京浜急行電鉄)弘明寺駅が開業、更に駅周辺では寺自身が民有化をすすめたことなどにより、寺有地は過去の約2割にすぎなくなっている。

 本堂は寛徳元年(1044年)に、光慧上人が建立。当時の古材が床板として使われている。

 四脚門は楓関門と呼ばれ、応永18年(1411年)の建立で、横浜市内最古の門である。

 仁王門は江戸時代に建てられたといわれている。

 七つ石とは善無畏が七つの盤石を埋めて結界を創ったと伝わるり、霊石として信仰を集めている。

 身代地蔵は京浜急行電鉄が2001年に奉納した。

 弘明寺から鎌倉街道まで、アーケードとなって「弘明寺商店街」として下町の賑わいを残している。レトロモダンな雰囲気を求めて、しばしばテレビ番組やCMのロケ地として使われているが、このアーケード街は、江戸時代に栄えた弘明寺の門前町と屡々混同されるが、終戦後の闇市を起源とするもので、同じものではない。

 元々境内であった弘明寺公園と、弘明寺商店街のほぼ中央を横切る大岡川の両岸は横浜市有数の桜の名所となっている。

 木造十一面観音立像(弘明寺観音)はケヤキの一木造りで、鉈彫りの典型的な作例として有名なもので、平安時代の作と伝えられ国の重要文化財に指定されている。

 木造黒漆花瓶二口は、ケヤキを轆轤で成型した、「亞」の字の形をした黒漆塗りの花瓶で、1590年修理の銘がある。高さ70cmあり、この大きさの木造は類例がない。横浜市指定有形文化財に指定されている。

 梵鐘は寛政10年(1798年)製で、横浜市指定の有形文化財。

 寺の謂われによると、弘明寺は横浜市内最古といわれる由緒正しき古刹で、養老五年(721年)、インドの善無畏法師がこの地を霊域として7つの盤石を埋めて結界した。その17年後に行基菩薩が霊感を受けて、十一面観音を刻み一宇を建てたのが始まりだそうです。

 この行基が彫ったと云われるご本尊の十一面観音像は「鉈彫り」と呼ばれる、ノミの跡をそのまま生かした彫り方が特徴の観音像です。

 実際は平安初期の作品らしく、関東地方に多く見られる仏教彫刻だそうで、このご本尊は旧国宝で、現在は国の重要文化財にしていされています。実はここ弘明寺ではなんと、内陣に上がり、このご本尊を間近で見ることができます。

 現在の観音堂は、明和二年(1765年)再建のものですが、その再建時に光慧上人が建てた当時(1044年)の古材や床等が使われているのだそうです。

 その、光慧上人はこの弘明寺とこの地域に多大な功績を残した方だそうで、今でも中興開山として仰がれていて、その理由の一つとして、この武相の地に疫病が流行った時に、光慧上人が秘法を修し、宝瓶から霊水を注いで民衆を救ったのだそうで、御詠歌はこの時の霊験を詠んだものなのだそうで、このお寺の隠れた名所は、観音堂奥の歓喜天堂です。

 

御詠歌

 ありがたや 誓いの海を かたむけて

 注ぐ恵みに さむるほのみや

 

 

 

 

【屁理屈】

 財貨は能力に合わせた丈有ればよい!足りなくても多すぎても難儀

 

【屁理屈】

 自尊心が無い“ひと”には、善悪もなければ、生死もない。

 餌を食い呼吸をしている肉塊にすぎぬ!

 

 

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第15番 白岩山 長谷寺(白岩観音)

 長谷寺は自動車で行くには、判りやすく、今の車にはカーナビが付いているので、猶更のことである。関東の人なら観光バスで、高崎観音と水澤観音は、幾度かは訪れた経験があるだろう。

 なお長谷寺の旧地名は群馬県榛名町で、同じく榛名山の榛名神社は農耕の神としての信仰もあり、農家の方々の参拝も多いのに、長谷寺(白岩観音)を知る人は少ない。其れは、高崎観音と水澤観音は寺院と謂うよりは、観光地なのに對して、長谷寺は純然とした宗教施設だからであろう。

 

 

【由緒】

第15番 白岩山 長谷寺(白岩観音)

所在地:群馬県高崎市白岩3583

山号:白岩山

宗派:金峰山修験本宗

本尊:十一面観音

創建年:不明

開山:不明

開基:役ノ行者

中興年:1580年

中興:世無道

別称:白岩観音

 

 長谷寺は、群馬県高崎市(旧群馬郡榛名町)白岩にある金峰山修験本宗の寺院で、地名から白岩観音とも称される。

 この寺の創建年代等については不詳で、勅願により徳道によって創建されたとも、行基が十一面観音を刻んだとも伝えられ、或いは最澄や空海がこの寺を訪れたとも伝えられる。

 その後、源氏(鎌倉将軍家)をはじめ新田氏・上杉氏などの信仰を得て、戦国時代の永禄9年(1566年)には武田信玄が箕輪城を攻めたときに類焼したが、天正8年(1580年)世無道によって再興された。

 古くから修験道の寺であったが、明治に入り一時天台宗に属することとなり、戦後現在の宗派となった。

 群馬県指定文化財として、木造十一面観音立像(本尊)、木造十一面観音立像(前立像)などがある。

 高崎市指定文化財として、白岩観音本堂、仁王門などがあり、縁結びの神とされる九頭竜姫のご持仏や十一面観世音菩薩がある。

 

    御詠歌 誰も皆 祈る心は 白岩の

           初瀬の誓い 頼もしきかな

 

 

【屁理屈】

 “ひと”は“他人”のために為さなければ“人”とは謂えない。

 私はどうだろう・・・・・・・

 

 

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第16番 五徳山 水澤寺(水澤観音)

 関東の人は水澤観音と云い、伊香保温泉や高崎観音などを含めた観光地の一つとして訪れる人が多い。

 観光バスなら元よりのこと、小型車で行っても気が付いたら境内に居た!と言うのが偽らざる現実である。

 兎に角人が多い・・・・浅草の観音様ほどでは無いが、地方の寺なのに実に人が多い。

 

 

 

 

 

【由緒】

第16番 五徳山 水澤寺(水澤観音)

宗派:天台宗

本尊:千手観世音菩薩

開基:恵灌僧正

創立:推古天皇の朝

住所:群馬県渋川市伊香保町水沢214

電話:0279-72-3619

本尊 十一面千手観音

創建年 (伝)推古天皇の朝

 

 この寺の創建年代については不詳であるが、飛鳥時代上野国の国司高光の開基により創建されたと伝えられ、江戸時代には江戸幕府から朱印状が与えられた。

 群馬県指定文化財として六角三重塔(輪蔵)がある。

 境内に飯縄大権現が祀られているが、飯縄大権現は東京の高尾山にも祀られている。

 謂れとしてこの様な話がある。

 創建年代については不詳だが、飛鳥時代上野国の国司高光の開基により創建されたと伝えられる。

 『縁起』には推古天皇の朝に当り、上野の国司高光中将菩提の所となさんがため、奏聞を経、御勅宣を以て高麗来朝の僧恵灌僧正を南都より請待し、開山別当と為し、伊香保御前御守持の千手観世音菩薩を安置し建立する寺なりとある。

 推古天皇の御代(592〜629)、高野辺左大将家成は上野国に左遷され、勢多郡深須郷に蟄居した。家成には北の方との間に一男三女があり、嫡男の家定は中納言として上京、姫はそれぞれ淵名の姫・赤城の御前・伊香保姫として成長した。

 しかし、北の方が深須の地にて病死、家成は更科大夫宗行の娘を後妻に迎えて一女を授かった。その後、家成は宣旨を受けて単身上洛、残された継母は先妻の子供を妬んで殺そうと謀った。

 更科次郎兼光とともに赤城山麓で牧狩りを計画し、その折に姉二人を吾妻川に沈めて殺害、残る伊香保姫も川に沈めようとした時、赤城山から黒雲が起こり、風雨激しく雷鳴が轟いたので兼光らは驚き逃げ帰ったという。

 伊香保の郷に隠れ住んだ姫は都にこのことを報告、父はすでに没していたため兄の家定が下向して兼光たちを成敗したといわれる。

 後に伊香保姫は中将高光に嫁ぎ、慧灌僧正に請うて念持仏を祀ったといい、それ以来、歴代天皇の勅願寺として、また上野の国司の菩提所として栄えた。

 南北朝時代成立の『神道集』によれば、金堂・講堂・常行堂・潅頂堂・経蔵・鐘楼・多宝塔・全山併せて仏像百八十体を祀る巨刹と伝えられるが、火災により焼失、その都度再建を重ねた。江戸時代には江戸幕府から朱印状が与えられた。

 

御詠歌

 たのみくる 心も清き 水沢の

 深き願いを うるぞうれしき

 

 

 

【屁理屈】

 自分は綺麗だ! あれこれ汚いと謂うけれど

 便器の中を覗いてご覧なさい

 身体に密着していた物が

 ありありと見えます。

とても綺麗とは謂えません

 此が貴方の本性です

 

 

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第17番 出流山 満願寺(出流観音)

 栃木県の出流山近辺は、石灰岩の採掘場が多くある。著者が若い頃地盤改良の資材として、石灰資材調達のために出流山近辺へ行ったことがある。

 東北自動車道栃木インターを出て、県道32号線を北上し、Y字を左に進むと、矢鱈と石灰を積んだ大型トラックとすれ違う。

 道路右側に石灰岩を粉砕加工する工場が建ち並ぶ。トラックは其処から出て来るのである。工場もトラックも道路も、粉末の石灰で白白白である。

その折り、満願寺の話を聴いて序でに参拝した。白白白の處には民家らしき建物はないが、そのまま暫し進むと、橋があり数軒の民家が有る。その右側に寺院への入り口があり、入り口の左側に「坂東三十三観音 第十六番札所 出流山 満願寺」の大きな石柱が立ち、その前面に大きな仁王門が構える。

 山間部の寺院なので寺域は矢鱈に広いし、建物も大きい。境内なのに遠すぎて、奥の院までは安易な気持ちでは行き着き難い。参道を進むと右側に紅い鳥居の稲荷神社と大きな池。

 左側には広い駐車場とホテルかと見間違う程の宿坊、そのまま進むと上り階段の途中に本殿と朱印處、其れを更に進むと藪の中に入ってしまう。

 著者は安易だから、吃驚してそのまま引き返したが、その奥には瀧があり、その奥に奥之院がある。奥之院は朱色懸崖造の社殿だそうで、その奥に秘仏を祀る鍾乳洞があるそうだ・・・・・・・。

 

 

 

 

 

 ホテルのような宿坊など、何しろ大きな建物が沢山あって、どれが本堂なのか?掲載に迷う・・・・・・

【由緒】

第17番 出流山 満願寺 (出流観音)

宗派:真言宗智山派別格本山

本尊:千手観音菩薩(弘法大師作)

開基:勝道上人

創立:天平神護元年(765年)

住所:〒328-0206 栃木県栃木市出流町二八八

пF0282(31)17

 

 真言宗智山派の出流山満願寺は、弘法大師御作の千手観音菩薩をご本尊とする坂東三十三観音第十七番札所である。今から千二百余年前に修験の行者、役の小角によって「観音の霊窟」(鍾乳洞)が見つけられた。

 天平神護元年(765年)日光山繁栄の源を作られた勝道上人によって開山され、この「観音の霊窟」には鍾乳石によって自然にできた十一面観音像がある。

【謂われ】下野の国司(今の県知事)の高藤介の妻が子宝に恵まれず、この「観音の霊窟」で子宝を得ることができるということを聞いて21日間「観音の霊窟」に籠り、翌天平七年に男の子を授かった。

 この子がのちの勝道上人で、以来、当山の奥之院にお祀りされている鍾乳洞で自然にできた「十一面観音菩薩」は子授け、安産、子育てのご利益があると信仰されている。

 寺には1735年に建築された二層の仁王門があり、鐘楼の左手には鉄筋5階建ての宿坊で納経所もある「信徒会館」が建っている。

 そもそも満願寺の創建は奈良時代の767年に遡り、開山は勝道上人で、その後、平安初期の820年に弘法大師・空海が訪れ、本尊の千手観音像を刻んだと伝えられ、真言宗智山派の別格本山として尊崇を集めてきた。

 とりわけ下野国(栃木県)出身の足利氏の時代には大いに栄えていたが、足利義満が寄進したという本堂は1741年に焼失した。現在の本堂は1764年に再建され建物である。

 奥の院(往復1.5キロ)は、本堂脇から鬱蒼とした登坂の山道に入り、苔むした石仏、石碑、石塔や歴代住職の墓所を見ながら、渓流に沿って登っていくと、水音が聞こえ、滝が見えてくる。「大悲の滝」といい、水垢離と修行の場であり、滝上には不動明王が祀られている。

 更に、滝のかかる崖を見上げると、懸崖造り朱塗りの奥の院が設けられている。険しい石段を登りつめて、舞台造りの拝殿に入ると、正面に十一面観音像と開山・勝道上人像、更に守護神の大黒天像が奉安され、右手はなんと崖に口を開けた鍾乳洞になっている。

 洞内には十一面観音の後ろ姿とされる高さ4メートルほどの鍾乳石が神秘的な姿を現わしている

 

【屁理屈】

 鍾乳洞の中に、天井から滴る石灰分を含む水滴が固まって出来る石筍がある。

 育つには気の遠くなるような歳月が必要だと聞く。

 処が橋脚の割れ目など、コンクリート製建造物から滴る水が固まって出来る石筍がある。その石筍は十年単位だ!

 

 

 

御詠歌

 ふるさとを

 はるばるこおに たちいづる

 わがゆくすえは

 いづくなるらん

 

 

 

 

【屁理屈】

 “ひと”の欲望には三要件が有る。

 表面的な物事に欲望を示す者。

 生活に関わる物事に欲望を示す者。

 物事の本質に欲望を示す者。

 人生にとって、三要件の欲望配分が重要で有る。

 

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第18番 日光山 中禅寺(立木観音)

 中禅寺は日光いろは坂(国道120號)を登り、中禅寺湖に出たところの交差点を左側(立木観音入り口)に折れて間もなくの處、左側にある。その先にも英国大使別荘やイタリア大使・・・・・・が有り、飲食店などもあるので、中禅寺湖へ遊びに来たときなど屡々立ち寄る寺院である。

 境内はそれ程広くはなく、更に高低差があるので、仁王門から建物が段状に重なって仰ぎ見え、言い換えれば、上の建物からは隣の屋根越に仁王門を見下ろせる。

 山門の表側には仁王様が祀られているが、裏側には風神と雷神が祀られている。

 

 

 

 

【由緒】

第18番 日光山 中禅寺(立木観音)

所在地:栃木県日光市中善寺歌ヶ浜2578

宗派:天台宗

寺格:別院

本尊:十一面千手観音菩薩(通称:立木観音、国重文)

創建年:(伝)延暦3年(784年)

開基:(伝)勝道

正式名:日光山 輪王寺 別院 中禅寺

別称:立木観音

 

 伽藍の構成は、正面が大黒堂、左手前が寺務所、奥は本堂で、五大堂出口から見た中禅寺湖(堂内は撮影禁止)中禅寺は栃木県日光市の中禅寺湖畔・歌ヶ浜にある天台宗の寺院である。世界遺産に登録された日光山輪王寺の別院である。

 寺伝によれば延暦3年(784年)日光山の開祖である勝道上人により、二荒山神社の神宮寺として男体山登拝口近くに建立されたという。(聞くところに依れば“二荒山”は“補陀洛山”に通じ、観音信仰の一大聖地である浙江省普陀落の地名に倣ったと云われる)

 康治元年(1141年)藤原敦光が「中禅寺私記」を著し、正和4年(1315年)仁澄により中禅寺の大造営が行なわれ、次いで、明治5年(1872年) 神仏分離により輪王寺別院となり、山内の女人牛馬禁制解禁される。

 明治35年(1902年)大山津波により壊滅的被害を受け、現在の地(中禅寺湖畔の歌ヶ浜)に再建され、昭和44年(1969年)勝道上人開山1200年記念事業として五大明王堂が建設される。

 

 重要文化財として木造千手観音立像があり、立木観音堂に安置されていて、像高は約6メートルあり、大正3年(1914年)8月25日付けで、古社寺保存法に基づく国宝(旧国宝、現行法の重要文化財に相当)に指定されている。

 所有者名義は輪王寺で、勝道上人が延暦年間(奈良時代末期-平安時代初期)に立木に彫刻したとの伝承から立木観音と通称される。

 作風・技法等から見て、実際の製作年代は平安時代後期と推定されていて、カツラ材の一木彫で、42本の手などは別材を寄せて造られている。

 明治35年(1902年)9月28日から9月29日にかけての暴風雨により起きた男体山の山津波により中禅寺湖に流されたが、3日後奇跡的に浮かび上がり、現在の中禅寺湖東岸に安置された。

 これにより、苦難や災事を乗り越える力を与えてくれるとの信仰を集めるようになった。

 

 

 御詠歌

 中禅寺 のぼりて拝む みずうみの

 うたの浜路に たつは白波

 

 

 

【屁理屈】

 人生は一瞬先のことは判らない。

 先のに事が判らないのに、先のことを当てにする“ひと”が居る。

 

 

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第19番 天開山 大谷寺(大谷観音)

 栃木県の大谷観音と聞くと、寺院に関心の無い人は、大谷石の採掘場跡にある平和観音(拝観自由)を想い出す。

 平和観音像は大谷石の石切り場跡に世界平和を祈り、総手彫りで昭和23年(1948年)から6年をかけて昭和29年(1954年)に完成し、昭和31年(1956年)に開眼した。全長は88尺8寸8分(26.93m)で末広がりを意識している。大谷石造りの巨大な観音像で、第2次世界大戦の戦没者の慰霊と世界平和を祈って造られたものである。

 

 著者も完成当時参拝に行ったが、当時は観光客でごった返していた。然し、数年前に大谷寺へ参拝し、序でに立ち寄ると、人っ子一人いない廃墟で有った。

 だが此は、坂東33観音第19番天開山大谷寺ではないので、話はこれ程にして、・・・・・・

 天開山大谷寺へは東北自動車道鹿沼インターを出て、大谷方面に向かう。第19番札所の寺は、県道168號(大谷街道)に接しているので直ぐに分かる。

 寺は山と道路との僅かな平地に諸施設が収まっていて、裏山の岩壁は奥行き数メートル巾に窪んでいて、その窪んだ中に屋根が半分突き刺さった形で建っている。

 

 

 

 

 

【由緒】

第19番 天開山 大谷寺(大谷観音)

別称:大谷観音

院号:千手院

宗派:天台宗

本尊:千手観世音菩薩

開基:弘法大師

創立:弘仁元年(810)

住所:栃木県宇都宮市大谷町1198

電話:028-652-0128

創建年:不詳(奈良時代後期から平安時代初期と云われる)

 

 大谷寺は、栃木県宇都宮市にある天台宗の寺院。山号は天開山。院号は千手院。国の特別史跡及び重要文化財に指定されている大谷磨崖仏の所有者である。

 大谷寺は大谷石凝灰岩層の洞穴内に堂宇を配する日本屈指の洞窟寺院で、本尊は、凝灰岩の岩壁に彫られた高さ4メートルの千手観音で、一般には「大谷観音」の名で知られている。

 当寺周辺には縄文時代の人の生活の痕跡が認められること(大谷岩陰遺跡)、また弘仁元年(810年)に空海が千手観音を刻んでこの寺を開いたとの伝承が残ることなどから、定かではないが千手観音が造立された平安時代中期には周辺住民等の信仰の地となっていたものと推定される。

 こうして、平安末期には現代に残される主要な磨崖仏の造立がほぼ完了し、鎌倉時代初期には鎌倉幕府によって坂東三十三箇所の一つに定められたものと推定される。

 鎌倉時代に入ると、大谷寺は宇都宮社の神職で鎌倉幕府の有力御家人でもあった下野宇都宮氏の保護の下で隆盛したと見られ、昭和40年(1965年)の大谷寺発掘調査において、鎌倉時代の懸仏、貞治2年又は正平18年(1363年)奉納の経石、天文20年(1551年)と書かれた銅椀などが出土している。

 しかし豊臣秀吉により下野宇都宮氏が改易されると、一時は衰退を余儀なくされた。

 然し江戸時代に入って、奥平忠昌が宇都宮城第29代城主に再封された後の元和年間(1615年 - 1624年)、慈眼大師天海の弟子であった伝海が藩主忠昌の援助を得て堂宇を再建した。

 天海僧正は天文年間に宇都宮城下の粉河寺で修行した経歴を有しており、徳川幕府が擁立された後、徳川家康と代々の将軍家の援助により上野寛永寺を建立したほか、日光山貫主として堂宇再建を行っている。

 その後、宝永年間にも諸侯の援助により堂宇建立を中心とした勧請が行われたが、その後の火事で多くの堂宇を焼失している。

 大谷磨崖仏と云われる大谷寺の本尊である石造千手観音菩薩立像など、大谷石の壁面に掘られた石心塑像群は、国の特別史跡及び重要文化財である。

 銅鐘は元禄8年(1685年)、大谷寺中興の祖との一人と云われる第4世応賢の依頼により鋳物師の戸室定国が鋳造したもので、小形、端正、古様の様式であることが特徴を有し、昭和63年(1988年)4月3日に県より有形文化財(工芸品)に指定されている。

 銅製灯篭は享保元年(1716年)、河内郡新里村の住民の寄進により戸室元蕃が鋳造したものである。

 巧みな意匠と安定感が特徴で、昭和63年(1988年)3月22日に市より有形文化財に指定されている。

 銅製鰐口は寛文7年(1667年)に鋳造された青銅製の鰐口で、作者は不詳である。

 金属性鰐口としては市内最古と見られていて、耳が蕨手状になっていることが特徴で、平成7年(1996年)3月22日に市より有形文化財に指定されている。

 寺院は岩壁の窪に半ば填り込んだ形態で築造され、当然岩壁の窪は屋内になる。大谷岩陰遺跡は大谷寺の洞窟に見られる古代遺跡である。

 古代人が生活した痕跡が認められ、洞穴内の深さ3mの地層から屈葬された概ね完全な形の縄文人の人骨が出土した(身長154cmの痩せ型)。

 因って大谷寺の洞窟は、元々縄文人の横穴式住居であったものと考えられ、平成10年(1998年)にお茶の水女子大松浦秀治助教授らに学術調査を依頼した。

 この人骨を放射性炭素法とフッ素法の二種類で年代を測定した結果、縄文時代草創期(約1万1千年前)の、20代前後の男性で、であると判定された。

 堂内の岩壁面に彫られた厚肉彫りの磨崖仏は、国の重要文化財と特別史跡の二重指定を受けていて、10体のうち本尊の千手観音は、弘仁元(810年)弘法大師の作と伝えられる。お堂の上の山は御止山“おとめやま”といい、国の名勝に指定されている。

 大谷観音大谷磨崖仏は千手観音像、伝釈迦三尊像、伝薬師三尊像、伝阿弥陀三尊像の4組10体の石心塑像が4区に分かれて彫出されている。

 このうち千手観音像は、現在大谷寺の本尊で、大谷磨崖仏は大分県臼杵市の臼杵磨崖仏と並んで学術的に非常に価値の高い石仏とされ、大正15年(1926年)2月24日に国の特別史跡に指定され、昭和36年(1961年)6月30日には「彫刻」として国の重要文化財に指定されている。

 壁面は4区に分けられ、西に面する壁面の一区には千手観音立像(像高3.89メートル)が彫られ、これが大谷寺の本尊となっている。

 南に面する二区・三区・四区の彫像は、それぞれ釈迦三尊像、薬師三尊像、阿弥陀三尊像と伝承されている。

 一区の千手観音立像は42臂を有し、凝灰岩で概形を彫り出し、細部を塑土で造形してあり、当初は大手42本の他に小手を塑土で表していたが、現状では剥落している。

 二区の像は釈迦如来(像高3.54メートル)の左右に文殊菩薩と普賢菩薩を配した釈迦三尊像と伝えている。

 ただし、右脇侍像(向かって左の像)は合掌する僧形像で、図像的に普賢菩薩像とは思われず、本来の像名は未詳である。

 三区の像は薬師如来(像高1.15メートル)の左右に日光菩薩と月光菩薩を配した薬師三尊像と伝え、像は風化損傷が著しい。

 四区は阿弥陀如来(像高2.66メートル)の左右に観音菩薩と勢至菩薩を配した阿弥陀三尊像と伝える。二区と同様に右脇侍像は合掌する僧形像で、本来の像名は未詳である。

 なお、壁面には以上10体の仏像のほか、座位の仏像と粘土を張り付けた立位の仏像数体が確認されている。

 大谷磨崖仏の造立時期は、史料がなく判然としないが、千手観音像と伝薬師三尊像がもっとも古く、伝釈迦三尊像がこれに次ぎ、伝阿弥陀三尊像がもっとも遅れての造立といわれ、平安時代中期から鎌倉時代にかけての制作と推定される。

 造立当時は金箔と彩色が施された煌びやかな像であったと推定され、その後覆っていた漆や粘土が剥離した部分も多いが、保存状態は比較的良好である。

 周辺付近には大谷岩陰遺跡と呼ばれる縄文時代の遺跡があり、当時から人が生活していた痕跡が見られ、また、現代になって大谷石を彫刻した磨崖仏の平和観音像(像高26メートル)がある。

 

  御詠歌

 名を聞くも めぐみ大谷の 観世音

 みちびきたまへ 知るも知らぬも

 

 

【屁理屈】

 果物は表側から果皮→果肉→種子から構成され、果皮と果肉は捕食者を誘う爲にあり、果物にとって最も重要なのは種子である。

 

 

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第20番 獨鈷山 西明寺(益子観音)

 益子は窯業の盛んな街である。気に入った焼き物が欲しいときは、身近な益子を訪れることは多い。笠間の某氏が益子で焼き物の技術を身に付け、故郷笠間で窯を開いたのが笠間焼きの起源と聞く。

 第20番 獨鈷山 西明寺(益子観音)は益子にあり、地図を頼りに車を走らせば迷うことなく行き着ける場所で、多くの寺の例に漏れず、長く急な石段を登り詰めた平坦地にあった。

 多くの寺が萱葺を銅板に葺き替え、或いは銅板の缶詰め屋根が多いのに、この寺は仁王門から本堂・・・・・・・に到るまで、適宜維持管理された萱葺の儘だった。(昭和年代の話)

 境内には古木が茂り、人をして静逸を醸し、堂宇が有り、石仏が祀られ、特に栃木銘木百選の“こうや槙”が偉容を呈し、閻魔堂には笑い閻魔が祀られていた。

 お寺さんが幼稚園を為さっているのは見掛けるが、この寺は診療所を為さっている。

 普門院診療所〒321-4217 栃木県芳賀郡益子町益子4469

内科 麻酔科 泌尿器科 整形外科 リハビリテーション科

 かかりつけ患者の急患は、休診日でも夜間でも受け付けます。とは有り難い。

【屁理屈】

 “ひと”の一生はもっと価値があると思ったのに・・・・・・

 何時からお金を稼ぐことが目的に成ってしまったのかなあ・・・

 

 

 

 

【由緒】

第20番 獨鈷山 西明寺(益子観音)

本尊:十一面観世音菩薩

創立:天平九年(737)

電話:0285-72-2957

住所:栃木県益子町益子4469

宗派:真言宗豊山派

開山:行基

開基:紀有麻呂

開創:737年

本尊:十一面観音

主な伽藍

楼門:重文 1492年 茅葺

三重塔:重文 1538年 珍しい銅板葺 高さ18m

本堂:県指定文化財 1701年

鐘楼:県指定文化財 1722年 茅葺

閻魔堂:1714年 茅葺 

納経所:茅葺

境内:県指定史跡

椎の林叢、高野槇:県指定天然記念物

閻魔堂の閻魔坐像:笑った顔

本堂内厨子:重文 1394年

 

 

  御詠歌

 西明寺 誓いをここに 尋ぬれば

 ついのすみかは 西とこそきけ

 

 

 

【注】 編集のためにページを差し入れました

第10番 正法寺 末尾からの続きです

 

    一人は答えていいました。

    (この「明るさ」を地に撒くの、

    みんながお仕事できるよう。)

 

    一人はさもさも嬉しそう。

    (私はお花を咲かせるの、

    世界をたのしくするために。)

 

    一人はやさしく、おとなしく、

    (私は清いたましいの、

    のぼる反り橋かけるのよ。)

 

    残った一人はさみしそう。

    (私は「影」をつくるため、

    やっぱり一しょにまいります。)

 

 真実追求する美しい生き方

  つぎの『お魚』という詩は、幼稚園などでもよく読まれるという。一部には魚と人間を対立させ、「魚の自由を奪う人間の罪」「地球環境保護」と読む読み方もあるようだが、それはまったくの見当はずれであり、目先三寸の政治にみすゞの詩を利用しようとするものである。みすゞの一連の詩に親しむものは、それがだれにも養われることなく、ただ人人を支えるために生きていく、その生き方の美しさ、たくましさを称揚するやさしさだとわかるであろう。

 

 

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