第21番 八溝山 日輪寺(八溝山)

 若い頃四駆で彼方此方出回った。八溝山日輪寺にはその時に立ち寄った。その後友人と一緒に、更に隣家のご主人の車で一緒に、都合3度は訪れている。この稿を書くのに再見分をしようとしたが、怖かった記憶が蘇り止めた。

 最初に自分で運転して行った記憶は鮮明だが、その後に乗せて貰って行った2回は、絵葉書程度の記憶しか残っていない。

【屁理屈】人の知識吸収法には幾通りか有る。目と耳だけの知識吸収は、到底身体を使っての知識吸収には及ばなかった。

 数日前に台風が通過した後である。水戸から大子へ、大子から福島県伊王野(黒磯を右に入ると奥羽街道に出る。その交点辺りが伊王野)へ向かう県道(県道248号線)を進み、途中右折れして大子林道へ進み、その途中右側に八溝山神社は位置する。

 日輪寺への登口は八溝山神社への参道となる。目印は素木の大きな鳥居(神明鳥居)で、鳥居を潜ると数軒の民家と小川があり、道幅は狭く登坂で、途中路肩が崩落して、四駆だから通れる處も数カ所有った。

 九十九折れの坂道を上り詰めると、上り下りの峠道に出る。八溝山日輪寺の駐車場は其処にあった。

 駐車場前面に数段の石段があり、その前面に真っ赤な本堂がある。右手には可也古びた半壊に近い観音堂が有った。

 本堂も観音堂も、外壁では厭きたらず、奥にまで立ち入って、辺り構わず千社札の張り放題!・・・・・・・・

 こんな傍若無人な振る舞いが、宗教心と謂えるのか???

 彼方此方のぞき見していたら、ご住職さんらしいお人と出会った。普段でも週一程しか来ていないけど、今日は偶々、台風の後なので見回りに来た!と云っていた。

 千社札の狼藉には腹を立てていました!

 この時は、その気も無かったので、朱印は戴きませんでした。

 日輪寺を出て、更に先へ進むと、道路標識のある二股に出会う。

どちらへ進むかはその時の判断だが、著者は右側を撰んだ。(後で左側を通ったら良い道だった)

下り道は徐々に狭くなり、深い杉林の中に入った。道の脇には急流が、路肩は崩落し、懸け橋は半腐れ、人の通った気配はない。道幅が狭くて方向転換すら出来ず、戻るに戻れない!・・・・・・一本道なので、道を間違えてはいない。

 相当長い時間おそろしい思いをして、木木の間から人家の屋根が見えた。携帯電話の無い時代なので、遭難しても連絡手段がない。本当に死ぬかと思った。

 

 

 

【由緒】

第21番 八溝山 日輪寺(八溝山)

宗派:天台宗

本尊:十一面観世音菩薩

開基:役ノ行者

創立:天武天皇の朝(673)

住所:茨城県久慈郡大子町上野宮字真名板倉2134

電話:02957-7-0552

宗旨 天台宗

 

 この寺の創建については不詳であるが、寺伝によると役行者が開基したと伝えられ、大同2(807)年に弘法大師が十一面観世音菩薩を刻んで本尊とし、中興したといわれる。

 『八溝日輪寺旧記書類写』によれば、弘法大師が湯殿山から鹿島潟に向かおうとしていた時、八溝川の流水に香気と梵文とを感得したといわれ、大師はこの水上に霊地があると考え、里人に尋ねたところ、山中には大猛丸と呼ばれる鬼神が棲み人に害を及ぼすと教えられた。

 鬼神を降伏するために大師が山に入ると、雲が山を覆い風雨が激しくなったといわれる。そこで大師は虚空に向かい、般若の魔字品を書いたところ、たちまち雲は晴れ風雨は鎮まり、鬼神は退散したと言われる。

 大師は頂上に登り山の形を観ると、八葉の蓮華を伏せた形のように峰から八つの谷が分かれて水が八方に流れていたため、この山を八溝山と名付けたといわれる。

 また、狩衣を着た二神(大己貴神と事代主神)が現われたといわれ、その二神になぞらえて2体の十一面観音を刻み、日輪・月輪の二寺を建てて観音霊場としたと伝えられる。

 仁寿3(853)年、慈覚大師が来山して天台宗に改められ、後に源頼朝も寺領を寄進した。

 室町時代(文明年間:1469〜87年)には間口16間の本堂をはじめ、雷神門・札堂・薬師堂・不動堂など諸堂が建立され隆興し、天文6(1537)年には、佐竹義篤と白河城主藤原直広が大檀那となり、堂舎を修営および梵鐘を寄進している。

 江戸時代には江戸幕府から朱印状を与えられ、山伏の往来もはげしく修行の山となり、寛永20(1643)年には、火災で本堂を焼失し、仮堂を建立した。

 更に、万治元(1658)年に再び火災に見舞われたが、水戸義公は2回登拝して再建に尽カし、春秋の二季に野・常・陸三州に守護符の頒布を許すなどして保護した。

 境内には、上之坊月輪寺、中之坊尼寺があったといわれる。しかし、天保3(1832)年の水戸藩による廃仏運動によって大きな打撃を受け、一時は本尊が白河郡高野大梅に避難されるほどの法難に遭遇した。

 その後明治13年には火災に遭い堂宇を全焼、明治以降衰退し、大正4年には仮堂が立てられ、昭和49年、には観音堂が完成した。

 本堂は、五間四面。もと下之坊と呼ばれたところで、本堂は明治13年に焼失、その後鉄筋コンクリート造りで再建された。旧堂の向拝には、正徳3(1713)年の鰐口のみがかけられている。

 坂上田村麻呂は、日輪寺に対して「月輪寺」を建てたと伝えられているが、現在ではその跡をみることはできない。寺の近くには、坂上田村麻呂お手植えと伝わる三本杉がある。

 『続日本紀』には、国司が八溝黄金神に祈願して金を発掘し、遣唐使の費用に充てた由が記されているなど、当時から金の産出で名高い山でもあり、全国湧水百選の金性水が、(大子町に栃原金鉱山があり、昭和年代には操業していた)近くから湧き出ている。日輪寺から更に3kmほど登ると、日本武尊が創建したとされる八溝嶺神社がある。

 

 

御詠歌

 迷う身が 今は八講へ 詣りきて

 仏のひかり 山もかがやく

 

 

 

【屁理屈】

 不摂生で病になるのは自業自得です。

 無過失なのに、病で苦しんでいる人も沢山居ます

 そういう人に保険を厚くして欲しいです

 不摂生の人は、少しは遠慮して欲しいです

 

 

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第22番 妙福山 佐竹寺(北向観音)

 第22番妙福山佐竹寺は茨城県常陸太田市に在って、笠間から常陸太田へ抜ける県道の左側にある。“水戸黄門”で馴染みの西山荘は佐竹寺の少し先に位置し、水戸家歴代の墓所は、更に其の北に位置する瑞龍町にある。

 県道沿いに数段の石段があり仁王門がある。仁王門を潜ると正面には、大きな萱葺の如何にも古い本堂がある。右手にはお住まいと朱印處が、左手には銀杏の大木が、そして大きな消防の放水銃が本堂を目掛けている。

 萱葺は燃えやすい!更に建物も古くて火が付きやすい!参拝者には火気を十二分に注意して貰いたい。

 

 

【由緒】

第22番 妙福山 明音院 佐竹寺

通称:北向観音佐竹寺

本尊:十一面観世音菩薩

宗派:真言宗豊山派

開基:硯僧徳一、或いは花山院、或いは元蜜上人

開基年:大同2(807)年、或いは寛和元(985)年

所在地:〒313-0049:茨城県常陸太田市天神林町2404

電話:0294-72-2078

 

 寺記によれば、大同2(807)年、硯僧徳一の開創とされるが、坂東霊場記では寛和元(985)年に板東巡礼中の花山法皇が、随行の元密上人に聖徳太子作の十一面観音像を与え、鶴ヶ池の北の洞崎の峰に堂を建立させたとされている。

 花山法皇が当地を訪れた際、多くの神々が現れ、「昔、日本武尊が東征の折、この地に天神七代の霊を祀って東国の安寧を祈願した。しかし、里人はそのことを忘れ、社頭は鳥獣のすみかとなっている。ぜひとも天神のため、この地に寺院を建立してほしい」と告げたといわれている。建立当時は観音寺と呼ばれていた。

 保延6(1140)年には、源義光の孫で佐竹氏の先祖となる源昌義公が、たまたま寺に詣でた折、二十尋に節が一つしかない奇竹があるのを見て、「これわが出世の瑞兆なり」と深く感動して、姓を佐竹と改め、当山を祈願寺と定めて佐竹寺と号したと伝えられている。

 当初この寺は、洞崎峰の観音山にあったが、その後天文12(1543)年に兵火で焼失したが、同15年に佐竹義昭が寺墓を現在の天神林に移して、佐竹城(太田城)の鬼門除けとして再建したといわれている。

 佐竹氏は、太田を中心に常陸一帯を支配し、後には前田・島津と並ぶ屈指の大藩といわれただけに、佐竹寺もそれに相応しく、最盛期には六支院と三ヶ坊を有し、桃山時代の先駆としての豪放雄大な建築様式であった。

 関ヶ原の合戦の後、佐竹氏が出羽に移封されたことにより衰退し、水戸義公が除地十七石を寄せて保護したが、寺の維持にはかなりの困難がともなった。

 それでも、江戸時代には坂東三十三観音霊場の二十二番札所としての賑わいがあり、延享年間(1744〜48年)には水戸藩三十三札所の第十一番札所にも指定された。明治時代に入っての廃仏毀釈より荒廃し、昭和24(1949)年まで無住の寺であった。

 本堂は重要文化財(明治39年:1906年指定)で、重層茅葺大唐破風造りで、主屋の周囲にこけら葺の裳階をめぐらし、正面に唐破風がつく。

 内陣は、五間四面の瓦敷、箔押しの来迎柱を建て、華麗な須弥檀が設けられ、聖徳太子作と伝えられる十一面観音像が安置されている。寺院には珍しく北向きにたてられている。

 仁王門は、昭和16(1940)年の再建だが、安置されている仁王像は宝永年間(1704〜11年)の作とされ、門の二階には山号を記した扁額が掛けられ、その上には五本骨に日の丸絵紋のついた佐竹氏の陣扇が掲げられている。

 庫裡には、90センチメートルほどの「一節の竹」が伝存する。

 境内 常陸太田市 案内板に依れば

 佐竹寺は妙福山明音院と号する真言宗豊山派の寺院で、寛和元年(985)に花山天皇の勅願により元密上人が開山したと伝えられ、創建当時は現在地から西北西に約700m離れた鶴ヶ池の洞崎の峰に建てられ、観音寺と称していた。

 佐竹氏初代昌義は、治承元年(1177)に同寺に寺領として300貫の土地を寄進し、六代長義は衰えていた寺堂を佐竹氏の祈願所として再興するなど、佐竹氏の隆盛とともに寺運も栄えた。

 しかし、天文十二年(1543)に兵火にかかって焼失してしまい、同十五年に十八代義昭によってこの地に再建された。

 

 明治三十九年(1906)に国指定重要文化財となった本堂は、茅葺屋根寄棟造で、主屋の周囲にこけら葺の裳階をめぐらし、正面中央に唐破風をあげている。

 元禄時代に内部の柱を取り除くなどの大改造が行われたが、正面の火頭窓や柱、外陣の繋ぎ梁の海老虹梁や組物などに桃山建築の先駆としての様式を残している。

 

 

 御詠歌

 ひとふしに 千代をこめたる 佐竹寺

 かすみがくれに 身ゆるむらまつ

 

 

 

 

【屁理屈】

 誰にでもそれぞれ各々の判断がある。

 誰でも思いの丈を述べているかというと、強ちそうではない

 自分に累が及ばないように述べている。

 依って、述べられたことが、その人の判断とは限らない。

 

 

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第23番 佐白山 観世音寺(佐白観音)

 笠間稲荷は有名だから誰でも識っている。佐白山観世音寺は笠間稲荷の近くで、近くには笠間城址もある。

 佐白山観世音寺の前には大きな広場があって、著者が参拝したとき広場には、祭りの櫓が組まれ山車が置かれていた。寺は広場の端から丸太を組んだ階段が、一直線に竹林を掻き分けるように登り、本殿の前に出る。

 朱印帳は本堂に上がり、堂内脇手で受け付けてくれた。

 

 

 

 

【由緒】

第23番 佐白山 観世音寺(佐白観音)

宗派:普門宗

本尊:十一面千手観世音菩薩

開基:粒浦氏

創立:白雉二年(651)

住所:茨城県笠間市笠間1056-1

電話:0296-72-1332

 

寺傳に依ると、

 白雉2年(651)の頃、この地に住む狩人粒浦氏が老翁の啓示によって殺生の前非を悔い、古木にて観音像を剣み、出家して草堂を営みたるが、この札所の開創なりとある。

 鎌倉初期には、百余坊をかぞえる巨刹となり、霊験日々に新らたかなりしが、藤原時朝によりて堂宇破却の難をうく。時朝その地に居城を築きしが、戦歿の亡霊に悩まされ、改心して宝前に懺悔を行ない、助命を願って観音堂を再営せしという。

 尓来、笠間氏を称して尊信を重ぬ。十一面四十二手の坐像は、鎌倉初期の「寄せ木造り」になる端正荘厳なる観音なり。」

 或いは

 当地に住む猟師の粒浦氏は、狩に出る前に鏡に自分の姿を映して、その日の猟を占っていた。ある日、いつものように鏡を見ると、白馬・白鹿・白雉が、霊木を守護しているところが映った。

 急いで山に入ると、白髪の老翁が現れて、粒浦氏を鏡に映ったのと同じ場所に導いた。粒浦氏は発心して猟をやめ、霊木の近くに草庵を建てた。

 それから七年の後、一人の仏師が草庵を訪れ、その仏師に白馬、白鹿、白雉の守る霊木で千手観音像を刻むことを依頼、尊像を安置するために堂宇を建立し、三白山と称した。

 孝徳天皇の勅願所となり正福寺と呼ばれ、鎌倉時代初期までは関東有数の霊場として栄えた。

 建保2年(1214)近隣の徳蔵寺との寺領争いがきっかけで、宇都宮頼綱の命により、宇都宮時朝が正福寺を滅ぼし、寺跡に城を築いて笠間氏を名乗った。

 時朝は僧侶の亡霊に悩まされ、忠円阿闍梨を招いて観音堂を再建。幕府から無断で兵を動かし、築城したことを咎められたが、観音さまの霊験によって助けられ「佐く」の文字を使って山号を佐白山と改め、信仰した。

以上寺傳

 

 天正18年(1590)笠間氏が滅ぶと、正福寺も衰退し、明治の廃仏毀釈で廃寺寸前と成るが、昭和5年現在地に移され、寺号も観世音寺と改められた。

 

  御詠歌

 夢の世に ねむりもさむる 佐白山

 たえなる法や ひびく松風

 

 

 

【屁理屈】

 欲望も一つではない

 色々な欲望を並べて見るのも興趣がある

 欲望を減らせば、働くことも減らせる。

 働くことを減らせば、

 もっと愉しいことを思いつくかも知れぬ!

 

 

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第24番 雨引山 楽法寺(雨引観音)

 雨引観音楽法寺は、旧筑波鉄道の沿線にある寺院で、既に廃線には成ったが、常磐線土浦から水戸線岩瀬までを繋ぐ筑波鉄道が有った。その後数十年を経て旧線路敷きは、自転車道やハイキングコースに成ったりして、今でも在りし日の面影を追認することは出来る。

 今では駅舎も無く駅名を知る人も少ないだろう。何事に依らず時の推移とはそんなものだ!先ず常磐線土浦駅から−土浦−虫掛−坂田−常陸藤沢−田土部−常陸小田−常陸北条−筑波−上大島−酒寄−紫尾−常陸桃山−眞壁−樺穂−東飯田−雨引−水戸線岩瀬

 道路は旧筑波鉄道線に沿って(県道に沿って鉄道線路がある)いるので、先ず常磐自動車道土浦北インターを降り、国道125号線を北条三叉路まで行き、右側の県道下館筑波線へ折れて、筑波山方面へ向かう。

 筑波山を越えたら次の三叉路を県道筑波益子線に折れ、眞壁へ進む。眞壁で道は紆余曲折しているが、兎も角県道筑波益子線を北上する。

 その先の左側に雨引小学校が在るので、その少し先を右に折れれば、そのまま雨引観音に到る。

 寺迄の道路も境内も伽藍も整備され、池には緋鯉や亀や、水鳥や、庭には孔雀が放たれていていて、何時参拝しても参拝客の絶えることのない寺院である。

 

 

 入り口は小さいが、石段を登ると寺域は広大で、壮麗な七堂伽藍が有る。(孔雀が放し飼いにされている。もう一方の入り口として、本堂前面に廣い石段がある)

仁王門

 

【由緒】

第24番 雨引山 楽法寺(雨引観音)

宗派:真言宗豊山派

本尊:延命観世音菩薩

開基:法輪独守居士

創立:用明天皇二年(587)

住所:茨城県桜川市本木 1

電話:0296-58-5009

 

寺傳に依れば

 雨引観音は用明天皇2年(587年)梁の国人の法輪独守居士によって開かれ、厄除延命安産子育の霊験あらたかな延命観世音菩薩(国指定重要文化財)を本尊佛として、おまつり申し上げる坂東観音霊場第二十四番 札所の名刹である。

 第三十三代推古天皇御病気とならせられるや、遙かに当山観世音菩薩に病気平癒を祈らせ玉い、ご本復遊ばされたので、当山を勅願のみ寺と定められた。

 天平年中(730)第四十五代聖武天皇ならびに、光明皇后は法華経を書写して 当山に奉納しご安産をご祈念あられたところ功験あらたかであったので、当山を 安産祈願の根本道場と定めて勅願寺となされ、三重塔を造建せられた。

 現在光明 皇后の紺紙金泥の法華経は什宝として保存せられている。嵯峨天皇の弘仁12年(821)夏、大旱魃が国中を見舞うや、天皇は親ら写経し給い、当山に納めて、 ひたすら降雨を祈らせられた。(天皇の御染筆は寺宝として現存)

 天皇の御願むなしからず国中は大雨に潤い五穀ために実ったので御感浅からず勅命によって当山の山号を雨引山と定め勅額をくだし賜り、雨引山楽法寺の山号寺名 はこの勅命によるのである。

 明治3年(1870)の神仏分離令(大政官布告)は全国寺院の大変革を要求した 律法であり事実それによって消滅した寺院も少くなかったが、当山は第二十七世 聖元、二十八世聖深、二十九世聖衡等の名僧が輩出しこの危期を見事乗り切ることが 出来た。

 これら諸師の努力により、旧幕時代に勝る「庶民の観音信仰」の 布及定着を計り各地に講社が出来、参詣者が増加したことは、特筆すべきことである。

 「一に安産 二に子育よ、三に桜の楽法寺」と俚謡に詠われているように、安産子育 祈願のみ寺として昭和の御代と共に庶民信仰の中に深く定着したのである。

 ことに近年雨引山楽法寺付近が国定公園地帯に指定され、自動車道が観音堂の真下 まで整備せられるに及んで、東京方面より雨引山楽法寺の四季を楽しむ行楽客が踵を接して訪れるようになり、加えて境内の一角に「センターあまびき」が開業する等、雨引山一円は信仰と行楽の地として一躍世の視聴をあつめるに至ったのである。

 春は桜・牡丹・つつじ。初夏萌え出る新緑。さみだれの6月には参道を埋めんばかりの三千株の 「あじさい」。秋は満山の紅葉等、汲めども尽きぬ雪月花のおもむきは雨引山 ならではの景観である。

 

 

  御詠歌

 へだてなき

 誓をたれも 仰ぐべし

 佛の路に 雨引の寺

 

 

 

【屁理屈】

 多くの人は宗教心云々は考えたこともないが、神社や仏閣を訪ねるのは好きだ!多くの歴史に培われた美術資料が有る事も挙げられるが、それらに興味の無い人でも、神社仏閣には訪れる。

 

 

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第25番 筑波山 大御堂

 筑波神社のご神体は筑波山だそうだ!筑波山は身近な山として、多くの親子連れが訪れる観光地でもある。以前は筑波鉄道でも来られたし、今では常磐線土浦から、或いは筑波エキスプレスで来るのも良かろう。

 何れも駅からバスが出ているので、近くまでバスで来られ、筑波山大御堂は、バス停の近くと云う好条件の處にある。

 筑波神社の鳥居を潜り、本殿へ向かう途次の左側に“坂東第二十五番札所 筑波山大御堂”の大きな石柱が立つ。僅かな坂を登ると右手に鐘楼を配す境内に出、本堂左手に朱印處がある。

 

 石標はバス通りにあり、寺宇は一段高いところにある。

 徒歩での参拝は石標脇の石段を登るが、自動車は石標裏の道を登る。

 

 こぢんまりとした寺だが、筑波山神社参道脇に在るので、参拝者は絶え間ない。

 

【由緒】

第25番 筑波山 大御堂

宗派:真言宗豊山派

本尊:千手観世音菩薩

開基:徳一法師

創立:延暦元年(782)

住所:茨城県つくば市筑波748

電話:029-866-0126

 

 関東平野に聳える筑波山は万葉集にも詠まれた名峰で、山頂は男体山と女体山の二峰に分かれ、イザナギ・イザナミ両神が祀られている。

 由緒は延暦年間(782年〜806年)徳一の開山により創建され、その後空海が入山し知足院中禅寺と号し、筑波山(筑波山神社)と神仏習合により信仰された。

 江戸時代には筑波山が鬼門の方角にあたることから徳川家光が崇敬し、多くの寺領を有し、寺は大いに栄えた。

 しかし、明治時代になると、神仏分離・廃仏毀釈によって伽藍は悉く破壊され、中禅寺は廃寺となりました。

 かろうじて難を逃れた本尊の千手観音像は仮堂に移されたが、昭和13年に発生した山崩れによってお堂ごと埋没した。然し、この時も観音像は奇跡的に無傷で土中から現われたということです。

 往時の境内には筑波山神社があり、かつての大御堂の跡地に立派な拝殿が建てられ、多くの参拝者を集めている。現在の大御堂(昭和36年建立)は神社の西隣にこじんまりとあり、東京都文京区大塚にある真言宗豊山派大本山護国寺の別院である。

 

 

御詠歌

 大御堂 鐘は筑波の 峰にたて

 かた夕暮れに くにぞこひしき

 

 

【屁理屈】

 多くの人が神社仏閣を訪ねるのが好きなのは、ご自分の“心”が求めるからであろう。生まれついての性悪は居るかも知れないが、殆どの人の心は、本来純真である。

 だが歳月と共に実社会で翻弄され、純真では居られない事も多い。

 神社仏閣は、小規模ながらも実社会から隔離された虚空間である。人の心は、失われた童子の心への郷愁から、無意識に神社仏閣へ足が向くのである!深山に分け入るのも、趣味に没頭するのも、失われた童子の心への郷愁が根底にある。

 

 

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第26番 南明山 清瀧寺

 南明山 清瀧寺は常磐自動車道土浦北インターを降りて、筑波山方向へ進み最初の交差点を右折れ(フルーツライン)し、坂道へ差し掛かる(畑地から山地へ)直前を左に入って間もなくの處にある。

 近年の町村合併で土浦市に編入されたが、数年前までは“茨城県新治郡新治村小野1151番地”で在った。

 なお“小野”の地名は、かの有名な小野小町縁の地と聞く。近くに小野小町終焉の墓碑がひっそりと祀られている。

 

著者は二十歳代の頃、“小野”に居た友人から、農家の裏山に得体の知れない墓石が有る、との話を聴いて見に行った。農家の主の話では、小野小町が旅の途次病に罹り、この家に逗留し死去した!その墓が裏山の墓石だそうだ!其れを示す古文書も見せて貰った。その時の話は其れでお終いとなった。

(写真は改修された姿)

 其れから数十年、村では歴史探訪と村おこしの一つとして、藪に埋もれていた墓石にも説明看板を立て、小径も作り、休憩のベンチも設えてた。

 話が逸れてしまったが、山裾には中型バスが通れる程の道があって、山裾を進めば簡単に行き着く。

 藪の中の小野小町の墓石を探しに行った頃は、一段低いところにある古い門は無事だったが、本堂は焼け落ちていた。朱印を戴きに行ったときには、本堂は再建されていて、近年五重の塔も再建されたそうだ。近くには、お正月に鏑流馬をする日枝神社がある。

 

 

 

【由緒】

第26番 南明山 清瀧寺

宗派:真言宗豊山派

本尊:聖観世音菩薩

開基:行基菩薩

創立:推古天皇十五年(607)

住所:茨城県土浦市大字小野1151

電話:029-862-4576

平成20年末 五重塔竣工。

 

 坂東33ヶ所霊場の26番札所で有名な清瀧観音は、推古帝15年(607年)に竜ヶ峯に創建され、大同年間(806〜810)徳一上人により古観音に移されたと伝えられる真言宗の寺である。

 七堂伽藍を備えた大きな寺は、天正年間(1573〜1592)小田氏・佐竹氏の兵火により焼失し、江戸時代に現在地へ再建されたと伝えられているが、昭和44年(1969)本堂、昭和48年(1973)仮堂が火災にあい、現在の本堂は昭和52年(1977)に再建され、江戸時代に建てられた山門が、昔日の面影を残している。

 「坂東霊場記」によれば、行基という僧侶が聖観音像を刻んでこの寺を開いたとあり、一説には、第二十五番札所の大御堂にも出てくる筑波山の二柱の神様(神道の神様は一人、二人ではなく一柱、二柱と数える)が、ここ小野山に来て天の鉾で地をつつくと、清水が南北二箇所から湧き出し、その後に行基は南の清明な湧き水に寺を建てた、とある。

 寺伝によれば、推古天皇十五年(607)に聖徳太子作の聖観音像を竜が峰の山頂に安置し、その後で参拝のしやすい山麓に移転したのが始まりとされている。

 しかし、その後の戦乱や廃仏毀釈、さらに不審火が追い討ちをかけて一時期は荒れ放題になったものの、地元の有志や信者による地道な努力により、徐々に再建されてきたのです。

 聖徳太子作とされた聖観音像も昭和四十四年の不審火で山門だけを残し、本堂もろとも焼失し、現在は昭和五十四年に新しく開眼された観音様が御本尊様として祀られている

 縁起に曰く、この地、昔天人降りて経典を誦し、観音の名号を称えて居りし所なりと。

 この聖地に行基菩薩来り、筑波二神の遊幸を得て、清水湧き出でし所に観音像を感得、奉安せるに創ると、または、徳一法師の開基とも伝う。

 はじめ竜ヶ峠(直ぐ上の山)の険阻な地に本堂は建立したが、衆庶との結縁に難ありと、麓の現在地に移された。山ノ荘の浄地これなり。(現在の山ノ荘は此処から2キロほど離れたところにある地名)

 鎌倉時代、在地の武将八田知家の帰依深く、13間4面の堂宇を構えしが、永禄、元亀の兵火により、歴世の寺宝と共に烏有に帰す。 清滝寺は1969年不審火で、仁王門を除く全焼の罹災に遭ったが、地元の人たちの努力により観音霊場として回復しつつある。

 

 

 

   御詠歌

 

 わが心 今より後は にごらじな

 清瀧寺へ 詣る身なれば

 

 

 

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第27番 飯沼山 円福寺(飯沼観音)

 第27番 飯沼山 円福寺(飯沼観音)から第33番 補陀洛山 那古寺(那古観音)迄の7ヶ寺は千葉県内の寺院である。

 円福寺は電車の便がよいのと、銚子電鉄に乗ってみたかったので、JRで銚子まで行き、銚子電鉄に乗り換えて“観音”まで行った。レトロ満載の電車で、JR銚子駅ホームから既に幼稚園生と小学生とお母さんが沢山居た。

 円福寺は駅から指させば見えるところであった。

 

 

【屁理屈】

 不労所得は人を怠惰にする。

 働く必要がないのだから無理からぬ事だ!

 

 

【由緒】

第27番 飯沼山 円福寺(飯沼観音)

宗派:真言宗

本尊:十一面観世音菩薩

開基:弘法大師

寺格:単立

創建年:弘仁年間(810年 - 824年)

創立:神亀五年(728)

住所:千葉県銚子市馬場町293

電話:0479-22-1741

 

 寺伝によれば、724年(神亀元年)漁師が十一面観世音菩薩を網ですくい上げ、その後、弘仁年間(810年 - 824年)この地を訪れた弘法大師空海が開眼したという。鎌倉時代以降はこの地を治めた海上氏の帰依を受け、寺運は興隆した。

 『飯治山観世音縁起絵巻』によれば、神亀元(724)年、漁師の清六が十一面観世音菩薩を網で掬い上げたことが縁起とされ、春頃、銚子の浦が荒れて漁をすることができなくなり、5月頃になると、毎夜、海上に光が放たれるようになった。

 浦の人々が不思議に思っていたところ、ある夜、清六の夢に観音様が現れ、光が輝いている場所で牛堀の漁師長蔵とともに漁をせよと告げた。

 そこで、翌朝沖に出ると、同じ霊夢を見た長蔵が対岸から来たため、二人で光輝いていた辺りに網を投じた。すると、御丈二尺余の十一面観音像が、瑪瑙石を左の脇にはさんで出現したといわれる。

 この時、天から降米の奇瑞があったといわれ、「飯沼」の地名はこれに由来するとも言われている。その後、清六と長蔵は出家し、それぞれ観清と音長と称して草庵を結んだ。

 二人は、観音像を安置して病人の病を癒したため、瘧除け法師と呼ばれたと伝えられる。

 天平年間(729〜749年)には、行基菩薩がこの奇瑞を聞き、この地を訪れて厨子を作り奉納した。このおり、尊像がやや大きくて厨子に入らなかったが、行基が祈願すると、尊像は首をたれて自ら厨子に入ったといわれる。

 さらにその後、大同年間(806〜810年)には、弘法大師がこの尊像を拝し、台座や光背を作って開眼供養を行った。そして、下総国の守護千葉氏の系統である海上長者が、尊像と大師に帰依し、壮大な伽藍を建立したといわれている。

 その後、海上氏一族の庇護によって、円福寺は発展していくことになる。海上氏は、千葉常胤の六男の胤頼がこの地にあって東氏を称し、その孫の胤方が海上の庄を与えられて海上氏を名乗ったことに端をなす。

 鎌倉時代のはじめには、坂東観音霊場の第27番札所に選定され、以来全国から巡礼が訪れるようになった。観音堂は、天正6(1578)年に海上氏によって八間四方のものが建立された。

 江戸時代には、朱印三十石、そして松平外記の保護の下、5600余坪の境内に、仁王門や鐘楼、薬師堂、多宝塔、大師堂(客殿)などが整備された。安永2(1773)年には、観音堂が十間四方の銅葺に改築されている。

 その後、太平洋戦争末期の昭和27年7月に、戦火のため本坊客殿を残して全てを焼失したが、昭和46年に観音堂が再建された。平成10年より伽藍の修改築工事が施されて寺容は一変し、多宝塔の再建のかわりに五重塔が建立されることになった。

 五重塔は、木造の和様で、総高33メートル、銅葺、総桧造り、総工費15億円といわれる。初重には、薬師如来、百体の薬師三尊などが納められている。

 天保水滸伝で知られた、侠客銚子の五郎蔵の墓がここにあり、本坊には五郎蔵の息子の勝五郎と飯岡の助五郎寄進の銅壺がある。

 寺宝も多く、天正墨書銘の戒躰函、建武・明徳・文安・天文年間書写の古文書、「竜神さま」と称される外国船首像などが保存されている。

 鐃は、国の重要文化財。奈良国立博物館に寄託。奈良時代に造られたと考えられている。

 梵鐘は、千葉県指定有形文化財(享徳11年在銘)

 

 『釈迦涅槃図 附 釈迦涅槃図由来書3巻』は、千葉県指定有形文化財。貞享年間刺繍。

 戦火を免れた本坊には、嘉永元(1847)年に建立された間口十二間、奥行き八間の瓦葺きの大師堂がある。こちらは、客殿、庫裡、内仏殿、涅槃殿(宝蔵庫)が連なっている。

 大仏は、銚子近在の人たちの喜捨で正徳4(1714)年に鋳造されたもの。

 

 御詠歌

 このほどは よろずのことを 飯沼に

 きくもならはむ 波の音かな

 

 

 

【屁理屈】

 鎖を解かれ、犬小屋を出ても、名札を付けている犬がいる。

 飼い主が付けた名前を後生大事にして、自分自身の名前はどうしたんだ!・・・・・・

 

 

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第28番 滑河山 龍正院(滑河観音)

 この寺は成田から佐原に通じる成田線沿線で、電車でも行ける便の處にある。今では住宅開発が為されたが、成田から先は少しの丘陵は有るが概ね低地で、殆どの市街地は低地にある。

 住居が建ち寺宇が建つ場所でも、水田より數メートル以上は高くはないが、粘土を含む砂地なので、地盤は思いの外強固である。

 滑河観音は成田線滑河駅から徒歩で行ける距離で、自動車なら県道161號と県道103號の交点近くを目安に、近くに成田市立滑河小学校が有るので直ぐに分かる。

 

 

 

 

 

【由緒】

第28番 滑河山 龍正院(滑河観音)

宗派:天台宗

本尊:十一面観世音菩薩

開基:慈覚大師

開基:伝・円仁

創立:承和五年(838)

住所:千葉県成田市滑川1196

電話:0476-96-0217

 この寺は承和5年(838年)滑河城主小田将治が発願し、慈覚大師円仁が開山したと伝えられる。本尊の体内に納められている1寸2分の観音像は、小田将治がであった老僧が小田川ですくいあげたものとされている。

 謂れに依るとこの寺は、承和5(838)年、滑河の城主小田宰相将治の発願により、慈覚大師が開基となっている。当時、この地は冷夏にみまわれた。領主であった小田宰相将治は、慈覚大師を導師として天候回復の法会をおこなった。

 その結願の日に朝日の前と名乗る少女が現れ、「我、今汝が志願を助けん」と言い、小田川の朝日が淵に案内して忽然と姿を消した。川には老僧が舟を浮かべており、竜宮で鋳造された一寸二分の閻浮檀金の観音像を川から掬いあげて将治に与え、「この淵より涌き出づる甘露の乳水を嘗めよ」と告げて立ち去った。

 将治が老僧の教えに従ったところ天候は回復し、作物が実るようになったと伝えられる。将治は尊像を安置する伽藍を建立、後に法橋定朝が一丈二尺の観音像を作り、閻浮檀金の尊像を胎内に納めた。

 建保4(1216)年には、暴風雨のため本堂や護摩堂、三重塔、鐘楼などを失い、江戸時代には、天海大僧正が東叡山寛永寺の末寺となるよう下知状(現存)を下した。

 観音堂は入母屋造で元禄9年(1696年)江戸幕府5代将軍徳川綱吉が大檀那となり、名主の根本太右衛門ら信徒一同によって再建され(県指定有形文化財)で、仁王門は文亀年間(1501年 - 1504年)に再建されたもの(国の重要文化財)で、昭和43年には大修理が完了した。

 堂塔は八脚四柱造りの國指定の重要文化財で、文亀年間(1501〜04年)の再建で、飛騨の大隈の作といわれ、仁王尊が安置されている。

 仁王尊は、享保年間(1716〜36年)に門前で火災があった時、本堂の屋根から大きな扇で炎を扇ぎ返し、このため本堂から下の集落は焼失をまぬがれたといわれる。

 それ以来、火伏せの仁王尊として篤く信仰され、下の集落の人々によって龍をかたどった大きなしめ縄が毎年正月八日に奉納されている。

 観音堂(千葉県指定有形文化財)は、五間四方一重入母屋造りの仏堂で、屋根は銅板瓦棒葺である。四周の切目録は、和様の高欄とし、柱は円柱。前面二間通りを外陣とするが、正面三間の入り口は当初から建具のない特殊な構造となっている。

 これは、庶民がいつでも観音の慈悲にすがれることを願っているといわれ、元禄9(1696)年に徳川綱吉の寄進により再建されたもので、内陣の大きな厨子には、定朝作と伝わる一丈二尺の本尊(示現像は胎内に納める)があり、不動・毘沙門の両像が脇に立ち、外陣は虹梁をを架して大きな空間がつくられている。

 

 御詠歌

 音にきく 滑河寺の 朝日ヶ淵

 あみ衣にて すくふなりけり

 

 

【屁理屈】

 身内の妬みは、甘えが加わるので、他人よりも酷い

 

 

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第29番 海上山 千葉寺

 千葉寺は電車の便は良く、京成電鉄千葉中央駅から、千原線(千葉から市原)に乗り“千葉寺駅”下車、徒歩10分の處にある。進行方向左側駅前から直進し、暫く行った交差点(千葉寺の案内が有る)を左折れすれば僅か先の右側に寺はある。

 一段低い道路から境内を覗くと、古木が茂り石は苔生し、街中の寺とはいえ、寺には寺の雰囲気がある。然し寺は古いけれど、駅から此処まで来る途次は、車道も広く歩道も完備しているので、此処数十年の間に開発された地域の様である。

 数段の石段の上には仁王門があり、門を潜ると境内には、乳房の沢山下がった大銀杏と、神社(瀧蔵神社)が祀られている。

 

 

 

 

【由緒】

第29番 海上山 千葉寺

宗派:真言宗豊山派

本尊:十一面観世音菩薩

開基:行基菩薩

創立:和銅二年(709)

住所:千葉市中央区千葉寺町161

電話:043-261-3723

 

 寺伝によれば、和銅2年(709年)この地を訪れた行基が十一面観音を安置したのに始まり、聖武天皇の命により千葉寺と称したという。永暦元年(1160年)に堂宇を焼失し、その後千葉氏の居城である千葉城(亥鼻城)に近いことから千葉氏の祈願所となった。

 境内には県指定天然記念物の大銀杏の古木があり、鋳銅梅竹文透釣灯籠は国の重要文化財で、千葉寺愛染堂 天文十九年」(1550年)の銘がある。

 この灯籠は明治43年(1910年)に千葉寺東南方の竹薮から発掘されたもので、発見者から東京国立博物館に寄贈され、同館に所蔵される。

 

 

御詠歌

 千葉寺へ 詣る吾が身も たのもしや

 岸うつ波に 船ぞうかぶる

 

 

 

 

【屁理屈】

 大言壮語を屡々謂うと、自分には能力があるのだと、

自分自身で勘違いするようになる

 

 

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第30番 平野山 高蔵寺(高倉観音)

 高蔵寺は千葉県木更津(国道16號)から、久留里へ行く県道の途中にある有る寺で、近くの道は度々仕事の都合で通っていた。

 地元の人から、元気になる寺があるからお参りして来なよ!と謂われ、行ったことがあった。記憶に依れば、駐車場から正門へ向かうと、道に面して入り口が二つある。

 一方は左側に一基だけ「熊野神社」と、もう一方は、右側に「坂東第三十番霊場」と左側に「平野山 高蔵寺」と石柱が二基立つ。

 神社は変わり映えのない普通の佇まいである。寺院の本殿床下には秘仏が有り、感想云々を問われると、返答に窮す。

左隣りの熊野神社

 

 

 

 

 

【由緒】

第30番 平野山 高蔵寺(高倉観音)

宗派:真言宗豊山派

本尊:正観世音菩薩

開基:徳義上人

開創:585〜587年

創立:不詳(用明天皇の代)

住所:千葉県木更津市矢那1245

電話:0438-52-2675

 

 千葉県木更津市の南東部丘陵地帯にある高蔵寺は、用明天皇の代(585〜587年)に徳義上人が、観音菩薩を祀ったのが始まりと伝えられ、650年には藤原鎌足が堂宇を創建したと伝承されているが、詳細は不詳である。

 謂れに依ると、用明天皇の御代(585〜587年)、この地で徳儀上人が観音の宝号を一日に数千遍唱える修行を行っていた。ある日、激しく雷鳴が轟き、里民は恐れをなしたが上人はこれを妙緑として一人山中に籠った。

 やがて、一人の老翁が現われ、「当山に草舎を結び、永く国土を守護し、衆生済度のため観音飛来し給えり」と阿薩婆の古木を指さして告げると、老翁は忽然と消えてしまった。

 上人がその梢をみると、そこに四寸ほどの観音像が光り輝いていたので、里民と共に堂宇を建立して祀ったと言われている。

 矢那郷の猪長官は、四十歳になっても子供ができないため、当寺に百日間籠って祈願をしたところ、一女を授けられた。長官は大いに喜び、子与観と名づけた。

 子与観は優しい娘に成長したが、器量が良くなかったために二十歳を過ぎても良縁に恵まれなかった。そこで再び当寺に祈願すると、「鹿島へ行きて日天を拝せよ」とのお告げがあり、そのとおりにして結婚、産れた男子が後の藤原鎌足だといわれる。

 この因縁により、白雉年間(650〜654年)に鎌足は、七間四面の本堂、五間四面の阿弥陀堂、三層の塔、輪蔵、鐘楼、仁王堂を建立して報謝し奉り、永代の寺領にしたといわれている。

 後に行基が巡錫し、一丈あまりの観音像を作り、徳義上人が感得した尊像を頭部に納めたとされている。貞観年間(859〜77年)には、慈覚大師が不動・毘沙門の両像を納めたといわれている。

 後に焼失し、再び建てられたのが現在の御堂で、室町時代の建物だが、大正の大震災で上層の屋根が崩れ、仮普請のままとなっている。

 高蔵寺の本堂は、高床式の特異な建物で、大永六(1526)年に藤原時重が建立。重層入母屋造りで、縦、横、高さがそれぞれ約20m、床の高さは1.8m、床をささえる柱の数が88本。床下の柱には古代文字が彫刻されている。

 また、それぞれ柱には、筏を組むに要する穿孔があるため、海上を流してきたものではないかと推察され、用材は出羽国から来たものだとの説もある。

 床下を人が立って歩くことができ、戦時中には軍馬の厩舎に利用されたと言われている。享保年間(1716〜36年)に大改修された。

 本堂は、一本の大木から造ったため柱に大小があるとされ、造り終りのころには「木足らず」となり、これが木更津の地名の由来ともいわれている。

 『郡誌』によれば、この地に阿娑婆(真言宗の大日如来の金胎と観世音を表現したもの)という大木があった。その枝葉が繁茂しすぎて日影となり、五穀が実らず大いに因っていたところ、夢告があり、この樹を伐って本堂が建てられたとも言われている。

  御詠歌

 はるばると 登りて拝む 高倉や

 富士にうつろう 阿娑婆なるらん

 

 

 

 

【注】

編集の都合で差し込みました。

金子みすゞの詩

   頁の続きです。

 

    海の魚はかわいそう。

 

    お米は人につくられる、

    牛は牧場で飼われてる、

    鯉もお池で麩(ふ)を貰(もら)う。

 

    けれども海のお魚は

    なんにも世話にならないし

    いたずら一つしないのに

    こうして私に食べられる。

 

    ほんとに魚はかわいそう。

 みすゞの詩のなかには、みずからを子どもの視点にすえて、「それからどうしたの。つぎはどうなったの……」とかぎりなく疑問を追求する知的好奇心の開花や、父や母にたいする深い思慕の情、絶大な信頼感を表現したものが多い。それは、幼少期へのたんなるノスタルジー(懐古趣味)ではなく、立ち止まったり後退したりせずにつねに前をむいて生きていこう、正しいことはどこまでも追求していこう、親や兄弟、仲間に深い愛情を持って生きていこう−−というもので、世間の流れに流されて真実が見えなくされている大人への、痛烈な批判であろう。

 

 

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