第31番 大悲山  楠光院 笠森寺(笠森観音)

 笠森寺への道順は国道16號八幡宿から大多喜街道(国道297)へ進み、上総牛久から房総横断道(国道409)へ進むと、道を挟んで右側に笠森霊園が、左側に寺があるので直ぐに分かる。

 寺へ通ずる道は九十九折りで、而も境内と雖も起伏があって平地は少なく、諸堂宇も細々と建ち、本堂と雖も懸崖造りにするなど、可也厳しい處に建っている。

 寺域は清浄閑静で、凡人の著者は寺域に入ると何となくその気になる。道端に穴が有れば石仏を祀り、二本立ちの古木が有れば夫婦杉、三本なら・・・・・と、何とは無しに納得し、何とは無しに手を合わせて仕舞う。

寺への道は斯くの如し

 

珍しい樹木があると、注連縄を付けて、尤もらしい説明

漸く山門に到る

本堂は懸崖作り

 

【由緒】

第31番 大悲山 楠光院 笠森寺(笠森観音)

通称:笠森観音(十一面観世音菩薩)

本尊:十一面観世音菩薩

宗派:天台宗

開基:伝教大師

開基年:延暦3年(784)

所在:〒297-0125:千葉県長生郡長南町笠森302

電話:0475-46-0536

 

 謂れに依ると延暦3(784)年に伝教大師が東国巡錫をしている際、尾野上の山頂に霊光を拝した。そこで山に登ってみると、山上に宝形の岩があり、その上に十一面観音を感得した。

 近づくと楠の古木があったため、その木で七尺六寸の尊像を刻み、仮堂を建てて安置したといわれる。これは、「光明と楠との縁をとりて大悲山楠光院と題し給へり」と『縁起』に記されている。

 天慶年間(938〜947年)、獅子ヶ瀬と呼ばれるところに箕作りの貧しい民家があり、末娘の名前を於茂利といった。そのころ、上総国の国司に玉前明神の神託があり、府中市原で田植祭を催した。

 国中から乙女が呼ばれることになり、於茂利も府中に向った。その日は大雨で、尾野上の観音堂は雨漏りがし、濡れていた尊像を不憫に思った於茂利は、自分の笠を尊像に掛けたといわれる。

 祭に集った乙女の中で最も於茂利の器量がよかったため、国司は都に奏上、朱雀天皇の寵愛を得てついに后妃となった。後に於茂利は、尾野上に壮麗な観音堂を建立し、於茂利の笠ということから笠森と呼ばれるようになったといわれている。

 長元元(1028)年、後一条天皇の勅命で、飛騨の工匠一条康頼と堀川友成が棟梁となり、舞台造りの本堂を建て、法東山と称して勅願寺とした。

 現在の本堂は、文禄年間(1592〜95年)の墨書銘が見付かっており、その頃の再建ではないかといわれている。昭和32年から35年まで、全解体復原大修理が実施され、その昔の姿に復旧し、あわせて防火その他の防災施設も完備した。

 観音堂は、国の重要文化財で、笠森寺観音堂 1棟、四方懸造、桁行五間、梁間四間、一重、寄棟造、銅板葺、階段及び踊場を含み、岩山を背に、それぞれ高さの違う61本の柱で支えられた四方懸造で、日本唯一とされる特異な建築様式で、二代目広重の「諸国名所百景」の錦絵にも画かれている。

 参道には、子授楠との霊木があり、この巨木には大きな穴があり、これをくぐると子宝に恵まれると言われている。

 本尊は伝教大師が彫刻したと伝わるが、像の背面には応永33(1426)年仏師慶賛法眼が造立した旨の墨書がある。像高2.3mで、四臂を備えて右の二手には錫杖と数珠を、右の二手には蓮華と水瓶を持ち、岩坐に立っている。

 

 

 

 

 回廊からの入り口より一本の縄が渡されており、そこにはハンカチや手ぬぐいが折り重なって結ばれている。十一面観世音に願いがあるときには、ここに結ぶと必ず成就するといわれている。

 国の重要文化財としては鋳鋼唐草文釣燈籠があり、笠森寺自然林は、天然記念物と指定され、延暦年間の笠森寺草創当時より禁伐林として保護されてきたと伝えられる暖帯林の残存林である。

  御詠歌

 日はくるる 雨はふる野の 道すがら

 かかる旅路を たのむかさもり

 

 

 

【屁理屈】

 数千万円の借財で自殺する者はいる

 数億円の借財で自殺する者は居ない

 

 

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第32番 音羽山 清水寺(清水観音)

 清水寺への道順は国道16號八幡宿から大多喜街道(国道297)へ進み、大多喜町で左に別れて夷隅方面(国道465号線)へ向かう。因みに夷隅鉄道は国道465號線に沿って敷設されていて、 暫く行くと夷隅川に架かる橋があるので、橋を渡ったら、左側の県道154号線に入る。その先又夷隅川(下流)の近くを通るので、その少し先を右側に入る。細かに書くのはこれ位にしよう・・・・

 この辺りは平坦地なので、寺域も少しの高低差はあるがほぼ平坦地で有る。七堂伽藍と云うが、由緒ある寺なので建物も多い。

 

仁王門を潜ると

 

朱い門がある

朱い門を潜ると前方に本堂がある

【由緒】

第32番 音羽山 清水寺(清水観音)

所在地:〒299-4624:千葉県いすみ市岬町鴨根1270

電話:0470-87-3360

本尊:千手観世音菩薩

開基:慈覚大師

開基:大同二年(807年)

宗派:天台宗

 

 謂れに依ると延暦年間(782〜806年)、伝教大師が東国教化の旅に出ようとしていたとき、霊夢に行叡居士が立った。京都清水寺の地を延鎮上人に譲った後、観音応現の霊地を求めて上総国に下ったことを告げ、居士は雲に乗り東へと去ったという。

 やがて旅に出た大師は、諸国を巡って上総国に至ったとき、広野で夜をむかえたがそこに一人の樵が現れ、家に招いて歓待した。朝になると樵の家はなく、熊野権現の社のみがある。

 周辺の風景が京の音羽山に似ているところから、行叡居士が霊夢で語った霊地に違いないと思い、堂舎を建立すべく、神社のそばに庵を結んでいた。

 夜ごとに金沢谷から放光の奇瑞があり、そこから観音像を感得したが、勅命によって帰洛し、志を遂げることはできなかった。

 大同2(807)年、慈覚大師が師の志を継ぎ庵に住み、楠をもって千手観音像を刻んだ。

 『坂東霊場記』には、「上総国夷隅郡鴨根村、音羽山清水寺、熊野権現垂跡の所、円通大士影向の山なり、本尊の彫造、道場の開基は伝教大師の発願、慈覚大師の勲功なり」と記されている。

 さらに、坂上田村麻呂が東征の途中で堂宇を建立し、十一面観世音を奥の院へ、千手観世音を本堂に納めたといわれている。

 文明13(1841)年に堂塔は全焼、本尊の千手観音は下部を焼失したが、十一面観世音は難を免れた。その後、文化10(1813)年の火災で、仁王門を残して全てを焼失したが、両観世音は無事であった。

 このお寺は、京都の清水寺・兵庫の清水寺とともに、清水三観音としても有名で、“音羽山・清水寺”という名前が京都の清水寺と同じなのは、京都のそれと地形が似通っていることや、夏でもかれることなく水をたたえる“千尋の池”(夏でも涸れることのない本堂前の千尋の池が、寺号の由来とされる。)がある事、また、坂上田村麻呂ゆかりのお寺である事など、共通点が多い事から由来して居ると云い、この寺には、珍しい赤穂四十七士の彫刻がある。

 四天門は入母屋造の楼門で、「音羽山」の扁額を掲げる。本堂とともに文化14(1817)年に再建されたもので、本堂は、八間四面、江戸期の建築様式がふんだんに取り入れられ、文化14(1817)年の建立である。

 その外に境内には、坂東33箇所、西国33箇所、秩父34箇所の計百観音が安置されている。

 木造十一面観音立像は、県指定有形文化財で、奥の院に安置されていて、1mあまりの檜素材の寄せ木造りで、玉眼と白毫には水晶が使われ、手には錫杖と宝瓶を持ち、鎌倉時代の作といわれている。なお境内の芭蕉句碑には 「木枯に岩吹き光る杉間哉」 と刻まれている。

   御詠歌

 濁るとも 千尋の底は 澄みにけり

 清水寺に 結ぶあかおけ

 

 

 

 

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第33番 補陀洛山 那古寺(那古観音)

 千葉県で一番暖かい處は千倉辺りで、一番の先端地域は館山である。館山には、検察庁や裁判所や県庁などの出先機関が有り、千葉県南部の重要な都市である。

 土地は起伏に富み平地が少なく、差ほど高くない山が海岸近くに迫り、半農半漁の地域である。

 殆どの山は砂岩と云われる強度の少ない岩盤で、建築資材としての強度は不足である。因って鋸山などの一部を除いては、石材としての活用は為されていない。

 寺は山際に有り寺域は平地だが背山が迫る處にある。この寺は、坂東33観音33番札所結願寺那古寺(那古観音)と云うが、この近く、目と鼻の先に、那古寺那古観音と云うお寺があるので、知っておく必要がある。

 嘗て館山で仕事をしていた事があり、市内なので何度も訪れたことがある。然しその当時は坂東観音札所の事など知る由もなかったので、ただ景物を楽しむ爲に訪れたに過ぎなかった。

 だが茲に観音巡礼記を起稿し、少しは巡礼の云々を知ると、どういう訳か・・・・なんだか・・・・少しは心に、何かが蓄積された様な気分になった。

 

【屁理屈】

 長い目で見れば、“他人”に厚意を為した分だけしか、“他人”から厚意は寄せられない。

 

 寺域は町並みと同じ地盤の処と、石段数十段の高さの処と、二段構えで、町並みと同じ地盤の処にある大きなお堂がある。朱印所も備わっている

 

【屁理屈】

 人に限らずこの宇宙の総ては、互の拘わりの中に有る。天体でも山河でも構造物でも、動物でも植物でも、・・・・・・・

 天と地、神と人、動植物と人、僕と君・・・・・・など、そんなに簡単な拘わりではない。

 実体のあるもの、実態のないもの・・・・・・・

 過去も、現在も、未來も・・・・・・

 ありとあらゆるものが、お互いに関わり合っているのだ!

 此が現実の有様だ!

 

 

 一旦道路に出て、右側の石段を登ると、仁王門がある。

 

 

 

【由緒】

第33番 補陀洛山 那古寺(那古観音)

所在地:〒294-0055 千葉県館山市那古1125

電話:0470-27-2444

本尊:千手観世音菩薩

開基:行基菩薩

創立:養老元年(717年)

宗派:真言宗豊山派

 

 謂れに因ると、元正天皇は、養老5(721)年の9月に突然の病に臥した。行基が勅命によって千手観音に祈願していると、本尊が壇上に現れ、安房国那古の浦にて日本の補陀落を祈るよう告げた。

 行基は安房国に向ったが、那古の浦の沖に大船が出現して妙音を奏でるとのことを耳にした。浦で行基が迎請の印を結ぶと、船は浜辺に近づき、中から毘沙門天が現れて香木を行基に与えたという。

 行基はその木で尊像を刻み、安置したところ、たちどころに天皇の病が平癒したため、勅願によって伽藍を建立したと伝えられている。

 現在、山上に古屋敷と呼ばれているところがあり、この遺跡だと考えられている。後に、慈覚大師が止住して練行し、さらに正治年間(1199〜1201年)には秀円上人によって真言密教の霊場となった。

 源頼朝が帰依して七堂伽藍を建立、また足利尊氏や里見義実も篤く信仰した。

 特に当山第二十一代の別当は里見義秀であり、二十三代は里見の熊石丸であるなど里見氏との深い関係で寺勢は大いに伸張した。

 徳川家康の頃には、鶴谷八幡宮の別当を兼ね、末寺十五寺、駕籠側八人衆、280石を領する大寺となった。しかし、元禄16(1703)年の大震災で堂塔が全壊し、かつては山上にあったが、幕府は岡本兵衛を奉行とし、宝暦9(1759)年に場所を現在地である中腹に移して再建した。

 明治維新の変革では寺領を失ったが、大正11年に一府二県より浄財を募り、本堂の修理が完了したものの、同12年の大震災で半壊し、大正13年に信徒の努力で復旧し、現在に至っている。

 本堂は、朱塗り本瓦葺きで、八間の奥行き。那古寺観音堂 附:厨子1基とし、千葉県指定有形文化財である。

 中には、国から重要文化財に指定されている銅造千手観音立像が納められていて、像高105cmで、鎌倉時代の作である。

 阿弥陀堂には、藤原期の作と伝えられる木造阿弥陀如来の座像が祀られている。木造阿弥陀如来坐像は、千葉県指定有形文化財である。

 多宝塔は、宝暦11(1761)年、住僧憲長が伊勢屋甚右衛門らと力を合わせ、万人講を組織勧進して建てたもの。下層四面に切目棟をめぐらせ、和様勾欄を配ている。那古寺多宝塔 附:木造宝塔1基とし、千葉県指定有形文化財である。

 絹本著色僧形八幡神像は、千葉県指定有形文化財で、繍字法華経普門品は、千葉県指定有形文化財である。なお那古寺には和泉式部の供養塚がある。

 

 

御詠歌

 補陀洛は

 よそにはあらじ 那古の寺

 岸うつ波を 見るにつけても

 

 

 

 

 

平成二十年十一月二十二日 板東三十三観音霊場巡礼結願致しました

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編輯後記

本冊は寺院巡礼案内の域を出ていない。言い換えれば極力寺院巡礼案内の域を逸脱しないように、注意した積もりである。何故なら寺院巡礼案内の域を出るには、宗教の本質を理解して居なければならない事は、承知して居た積もりである。

 かと謂って寺院巡礼記事を書くには、宗教の本質を理解することは無理としても、簡単な枝葉の言葉ぐらいは知っておく必要があろうと紙面を割いた。

 即ち「形而上者謂之道,形而下者謂之器(易経繋辞上)」と「色即是空」と「神仏習合」と「本地垂迹」と「一神教と多神教」の、簡単な解釈を書いた。

 次いで著者が目的地に赴いたときの交通の便と、その当時の周囲の様子を記載し、巡拝記としての体裁を繕った。

 

宗教の基本概念はこちらこちらに掲載されています

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