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1−人類と宗教

 この地球上に生息する生物の“種”は概ね870万種と言われ、人類は其の870万分の1の存在である。

 生命の誕生が40億年前、人類の誕生は400万年前と言われ、その間に幾多の経過を辿って現在に到っている。

 生物の本質は、個体の保持と種の継承にある。

 言い換えれば此処にある生物は40億年間、貴方も小生も共に生命が途切れなかった証で、人類に限れば400万年間に亘って個体の保持と継承が為され、“種”が途切れなかった証である。

 

 “個体の保持”と“種の継承”とは、870万分の1の存在である人類にも、40億年前から備わっている生命體の本質である。

 870万種の生命体は、常に個体の保持と種の継承か行われ、其れを維持する為に“弱肉強食”は常に行われている。

 然し弱肉強食は“同一種”が少ないときは異種との間で行われるが、同一種の数が多くなるに従って、“個体の保持”と“種の継承”を維持するには、同一種で有るが故の弊害も如実である。

 同一種は個体保持の要件も殆ど同じで、其の環境が其の個体の本質的要件を賄う余裕が乏しくなったとき、同一種の間でも必然的に奪い合いが発生し、弱肉強食となることは生物の本質である。

 

 言葉の発明

 “ひと”が食物連鎖の頂点に立つことが出来た要因の一つに、“人”が己の生存能力を地球の環境に対応させることが出来た事が挙げられる。

 其の次に言葉の発明が挙げられる。

 言葉が無ければ、単独一瞬の出来事はそれぞれの個体で経験として蓄積はされるが、其の経験は個体の崩壊と共に消滅する。

 然し“人”が言葉を発明したことによって、個体の中に蓄えられていた経験が、同種複数の個体に伝えることが出来て、各々の個体は複数の経験を保持出来るように成った。

 そして年齢差による伝達と個体の移動に依って、“ひと”の寿命や地域にかかわりなく、時間と地域を隔てて伝達することが出来る様に成ったが、何れも口伝に依ったので、情報量も少なく遅々していたことは否めない。

 何れにせよ、言葉の伝達には自ずと限界があり、詳細で多量な経験を広汎に短時間で伝達するには甚だ厳しいと言える。

 

 次いで文字の発明がある。

 “人”は文字の発明によって、口頭では伝達できなかった詳細で多量な情報を蓄積し、時間と地域を隔てて伝達することが可能と成った。

 次いでここ数十年はデジタル情報技術の発明によって、莫大な量の情報を蓄積し、時間と地域を隔てて迅速に伝達することが出来るように成った。

 然し文字にしろデジタルにしろ、其の根源は“人”か言葉を発明した事から派生した結果であり、若し言葉の発明が無かったら、“お猿さん”と余り隔たりが無かっただろう!

 

二−比較 欲望 恐怖

 さて“ひと”は地球環境への対応と言葉の発明によって、食物連鎖の頂点に立ったので、幾分かの安堵な生存環境が整ったのである。

 その安堵な生存環境を獲得した結果、今まで無かった、“個体の保持”と“種の継承”の外に、新たに“比較”と言う精神活動による感情が芽生えた。

 “個体の保持”と“種の継承”には、自ずと限界があり頂点があるのだが、困ったことに“比較と言う感情”には限界も無ければ頂点も無いのである。

 “比較”と言う感情が生まれると、其れを充足すべく新たに“欲望”と言う感情が生まれた。

 新たに“比較”と“欲望”と言う感情を生み出した結果、人類は際限の無い膨張社会に門戸を開いてしまった。

 なお比較と欲望にはそれぞれに反面があり、各々に“失う事への恐怖”が付き纏い、“比較”“欲望”“恐怖”は際限の無い膨張の世界に入り込んで仕舞ったのである。

 ただ、其の割合は分からないが、人類の全てが際限の無い膨張の世界に入り込んで仕舞った訳では無く、現実の社会では、際限の無い膨張の世界と、際限のある世界とが、互いに並行して存在し、互いに相手側を見て、双方各々自覚することが出来て居る。

 誰でも現実社会で生活する以上、幾許かの、“比較”“欲望”“恐怖”は付き纏うが、これを苦痛に感じるか否かは、個々人の其れ其れによる。

 

 ただ苦痛に感じる人々の為に、其の苦痛を解決する手段として、宗教が生まれたが、苦痛に感じない“人”には、所詮宗教は不要な存在である。

 然し苦痛に感じないと言っても、愉しく感じれば其れは有意義で、神道は苦痛の無い人々を更に愉しくする宗教でもある。

 

 人類の生活環境は、地域と生活に依って異なり、森林が多いか砂漠が多いか、海に近いか河川に近いか、狩猟に携わり動物を殺戮するか、農耕に携わり植物を育成するか、などに依って、“比較”“欲望”“恐怖”の様態は個々に異なり一様では無い。

 

三−ユダヤ教

 宗教もそれぞれ“民衆”の状況に合わせ、時宜に応じて産声を上げ、其の数は相当数に上ると聞く。

 思いつく儘に上げてみると、ユダヤから興った“ユダヤ教”、ユダヤ教から派生した“キリスト教”、キリスト教から派生した“イスラム教”があり、この三っの宗教は同一の根幹に属す一神教である。

 

 この三つの宗教は互いに、“同系と雖も妥協しない”と言う一神教の要素を確実に受け継ぎ、この状況は二千年を経た今日でも厳然としている。

 この宗教の「神」は地球上の万物を俯瞰する立場にあって、神の意志は万全で、万物に対して、「神」の意思として戒めと導きを為し、神の意志に対して、何者と雖も妥協の入り込む余地を与えない。

 相容れない一神教同士は、互に相容れないと云うことにもなる。

 

四−仏教

 仏教は“釈尊”を教祖とし、印度に端を発して、“比較”“欲望”“恐怖”の哲理を説き、個々に類例を上げて、其れを取り除く方法を説いた。

 仏教の手法は戒めや導きでは無く、“比較”“欲望”“恐怖”の哲理を説き、受難者の理解と納得に依って信者自らが“際限の無い循環の帯”から脱出し、平穏を取り戻すのである。

 世上に登場する“佛”の存在は、真理を説くための便法と理解すべきである。

 仏教の手法は、“諭し導く”のである。

 

五−儒教

 孔子は紀元前552年、春秋時代の中華大陸の思想家、哲学者で儒家の始祖である。

 実力主義が横行し身分制秩序が解体されつつあった周末、魯国に生まれ、周初への復古を理想として身分制秩序の再編と仁道政治を掲げた。孔子の弟子たちは孔子の思想を奉じて教団を作り、戦国時代、儒家となって諸子百家の一家をなした。孔子と弟子たちの語録は『論語』にまとめられた。

 3500人の弟子がおり、そのうち特に優れた高弟は孔門十哲と呼ばれ、その弟子には孔子の孫で『中庸』の作者とされる子思がいる。

 孔子の死後、儒家は八派に分かれ、孟子・荀子といった後継者を出したが、戦国から漢初期にかけてはあまり勢力が振るわなかった。しかし前漢・後漢を通じた中で徐々に勢力を伸ばしていき、国教化された。以後、時代により高下はあるものの儒教は中国思想の根幹たる存在となった。

 論語は日本にも多く普及し、殆どの日本人は一度は読んだことがあるだろう。

 “比較”“欲望”“恐怖”が混沌とした世の中で、如何に災いの種を消し、如何に災いを逃れ、如何に平穏を保つか・・・・という、その場、その場の事例を提示して、其の対応法と、物事の哲理を説いた。

 政治指導者への教義であって民衆には関わりないと言う者も居るが、指導者が乱れれば、庶民はの為に苦境に陥るので、矢張り民衆にも必要と言える。

 中華人民共和国政府でも、〈論語〉は民衆の教養教本である。

 

六−太陽信仰 神道

 自然環境がそれ程厳しくなく“比較”“欲望”“恐怖”に翻弄されることも少なく、心が安定した地域でも、自然環境に翻弄されることはある。

 太陽が自然環境を支配するのは今も昔も同じで、地上の万物は等しく太陽の恩恵を受けている。

 “人”は食物連鎖の頂点にあって其の恩恵に与り、太陽に感謝の念を奉ずる共に万物に対しても等しく感謝の念を奉ずる。

 この「感謝する」と言う行為は、群れとなって生活する“人”にとっては極めて大切な習慣である。

 太陽信仰には教祖は居らず、強いて言うならば信仰する民衆そのものであると言える。

 太陽信仰は“万物に感謝する”心を基本にする。

 

 神道は太陽信仰の一類と言えるかも知れないが、“人”に恩恵を与えているのは太陽だけでは無い。

 “人”に恩恵を与えるのは、山も川も海も犬もネズミも、像の有無を問わず、生物無生物を問わず、“人”が恩恵を受けていると思えば、「神」と成る資格はある

 “人”“民衆”が恩恵を受けたと思えば、其の感謝の標しとして、太陽に限らず犬でもネズミでも科学者でも「祭神」と為し、社を建立して廣く礼拝の対象とする。

 感謝する心を持ち続ければ、“比較”も“欲望”も“恐怖”も、それぞれに内在する感謝の要素が見いだされ、嫉みも不満も恐れも霧散し喜びの糧と成る。

 “神道”に教祖は居ない。強いて言うならば恩恵に感謝する心を持ち続ける民衆と言える。

 

七−拝金教

 在来の宗教と一緒に出来るかどうかはあるが、財貨が人生に幸福をもたらす!と信じている人は居る。この人達を“拝金教信者”と名付けよう。

 この人達は将に“比較”“欲望”“恐怖”の真っ只中に居て、自殺や家庭崩壊などのニュースも経済破綻の一件として片付けられて居るが、視点を移せば“拝金教信者”の破綻とみることも出来るのでは無いだろうか・・・・・・

 

八−これからの社会

 弱肉強食は大昔の話では無い。如何に物資が溢れていても、知識が如何に豊富に成っても、其れが却って“比較”と“欲望”と“恐怖”に拍車をかけるのである。

 知識の程度が高くなると、知識の差はそれに輪をかけて大きくなる。
 全体が100の知識量だったと仮定すれば、30の“人”と100の“ひと”では、其の差は70である。然し全体の知識量が1000に成れば、低い“ひと”が100に成ったとしても、其の差は900にも成る。

 知識の差は富の分配に繋がるので、ますます所得の差は大きくなる。
 知識が蓄えられれば、それだけ豊かに成るとは限らない。900の知識を獲得した“ひと”でも、3度の飯は3度しか食えず、美味しい食事も毎日では飽きるし、財物に囲まれても、均等に歳はとるし、病気にもなるし・・・・・・・高度な知識を駆使した社会や生活が、あながち人生を幸せにするとは限らない。
 ますます際限の無い“比較”と“欲望”と“恐怖”に陥ることとなる。

 物資もあり知識もあるのに、何故こんなにも理不尽で不幸な社会なのか?

 人々が大切に扱われ幸福に過ごすには、“比較”と“欲望”と“恐怖”に終止符が打たれない限り、弱肉強食は永遠に続くと言わなければならない。

 

 

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