第一章 概説

 四国巡礼はその出で立ちからして、同行二人と書かれた菅笠や、“南無大師遍照金剛”と書かれた白衣や杖など・・・・・・・何から何まで弘法大師尽くめである。此は取りも直さず弘法大師の足跡を踏襲する旅であろう。

 今まで秩父巡礼記では宗教の実態については何も語らず、ただ凡夫の漫歩を書いただけだが、坂東巡礼記では日本に於ける仏教の変遷を書いた。

 だが何れも外殻迄で、それ以上に立ち入ることはしなかった。然し四国巡礼は、弘法大師の足跡を辿る行程なれば、弘法大師について少しは語らねば成るまい。

 

 これから先は、《老躬雑話之二 坂東巡礼記》の“はじめに”の続きですから、前もって《老躬雑話之二坂東巡礼記》の“はじめに”をお読み下さい。

 

 宗教の根源は思想である。即ち宗教家の布教活動は、自己が堅持する思想の宣撫行為である。身体的苦痛や精神的苦痛、或いは険阻な山川踏破などの行為は、自己鍛錬と宣撫方法を取得する爲の行為である。

 自己の思想を完遂するには二通り有る。

 その一つは自己は自己の域を出ずに、自己のみで完結する。

 次いで、自己の思想を他者(複数の共感者)にも分かち与えようとする行為で、此が即ち布教活動であり、教団である。

 思想を構築した者は創始者であり、複数の共感者を集めたときには、教団となり教祖とも呼ばれる。複数の共感者、即ち教団が成立すると、創始者が他界しても、思想は次代に継承され、順次代を重ねて延延と継続する。

 然し如何に緻密に構築された思想と雖も、万象を総て網羅することは不可能である。歳月を経れば、時と共に周囲の状況も変容し、思考も一層廣く深きに及び、茲に個別の思想を構築して異論を唱える者が現れる。

 創始の思想を根幹に、個々の思想を併合して分派を名乗る事は当然の成行で、即ち此の胎動こそ、当該思想を一層緻密に一層深く構築させ、創始者の思想が常に生長している証拠である。

 

仏教概略から空海へ

 

1−始祖概略

 仏教の始祖から布教活動・・・・・・概略を述べる。

 

 

1−1 釈迦

 仏教の創始者は一般に釈尊と謂われ、釈迦(梵形:シャーキャ、 [zaakya]、紀元前463年? - 紀元前383年?)は、本名(俗名)は、ゴータマ・シッダッタ(Gotama Siddhattha)またはサンスクリット語形 ガウタマ・シッダールタ( [Gautama Siddh?rtha])、漢訳では瞿曇 悉達多と伝えられる。

 

 

 

1−2 布教

 釈迦がどの様にしてどの様な思想を構築したか?は、著者の及ぶ處ではないので割愛するが、以下に思想を構築し布教活動について簡単に述べる。

 釈迦がどのように伝道生活を送ったかは充分には明らかではないが、経典をたどると、・・・・・

 先ず出身地を訪れた。

 先ず故国カピラヴァストゥの訪問で、釈迦族の王子や子弟たち、四名(ラーフラ、アーナンダ、アニルッダ、デーヴァダッタ )と、シュードラの出身のウパーリが弟子となった。

 ラーフラ・アーナンダ・アニルッダ・デーヴァダッタ・ウパーリの五名は、諸王子を差し置いて上首となるなど、釈迦族から仏弟子となる者が続出した。この事は、先ずは身内が釈迦の思想に共感したと、書き記されている。

 或いは、コーサラ国を訪ね、ガンジス河を遡って西方地域へも足を延ばし、或いは又、クル国 (kuru) のカンマーサダンマ (kammaasadamma) や、ヴァンサ国 (vaMsa) のコーサンビー (kosaambii)へも布教を為し、成道(思想を確立した)後、14年目の安居はコーサラ国のシュラーヴァスティーの祇園精舎て有ったとされる。

 このように釈迦が教化・伝道した地域をみると、殆どガンジス中流地域の、アンガ (aGga)、マガダ (magadha)、ヴァッジ (vajji)、マトゥラー (mathuraa)、コーサラ (kosala)、クル (kuru)、パンチャーラー (paJcaalaa)、ヴァンサ (vaMsa) などの諸国に及んでいる。

 

 

 

1−3 仏滅(死亡)

 釈迦の伝記の中で最も克明に記録として残されているのは、入滅前 1年間の事歴である。漢訳の『長阿含経』の中の「遊行経」と、それらの異訳、またパーリ所伝の『大般涅槃経』などの記録である。

 其の一項を載せれば、釈迦は説法の途次、激しい腹痛を訴えた。カクッター河で沐浴して、最後の歩みをクシナーラー (kusinaara) に向け、その近くのヒランニャバッティ河のほとりに行き、マッラ (malla)(マッラ国)のサーラの林に横たわり、そこで入滅した。

 時に紀元前386年2月15日のことであった。これを仏滅という。腹痛の原因はスーカラマッタヴァという料理で、豚肉、あるいは豚が探すトリュフのようなキノコであったという説もあるが定かではない。

 

 仏陀入滅の後、その遺骸はマッラ族の手によって火葬され、当時、釈迦に帰依していた八大国の王たちは、仏陀の遺骨仏舎利を得ようとマッラ族に遺骨の分与を乞うたが、これを拒否された。

 そのため、遺骨の分配について争いが起きたが、ドーナ(dona、香姓)バラモンの調停を得て舎利は八分され、遅れて来たマウリヤ族の代表は灰を得て灰塔を建てた。

 因みに、その八大国とは、クシナーラーのマッラ族 マガダ国のアジャタシャトゥル王 ベーシャーリーのリッチャビ族 カビラヴァストフのシャーキャ族 アッラカッパのプリ族 ラーマ村のコーリャ族 ヴェータデーバのバラモン バーヴァーのマッラ族 である。

 入減後、弟子たちは亡き釈迦を慕い、残された教えと戒律に従って跡を歩もうとし、説かれた法と律とを結集し、その後幾多の変遷を経て、今日の経典や律典として維持されてきたのである。

 

 

 

1−4 印度での仏教

 釈迦の入滅後、仏教はインドで大いに栄えたが、大乗仏教の教義がヒンドゥー教に取り込まれると、その活力を失っていった。

 身分差別を否定しないヒンドゥー教は、平等無碍を説く仏教を弾圧の対象とし、貶めるために釈迦に新たな解釈を与えた。

 その解釈とは斯くの如し・・・・・釈迦は、ヴィシュヌの化身として地上に現れたとされ、偉大なるヴェーダ聖典を悪人から遠ざけるために、敢えて偽の宗教である仏教を広めて人々を混乱させるために出現したとされ、誹謗の対象になった。

 ただ視点を換えれば、逆に大乗仏教の教義をヒンドゥー教が取り込んだため、ヒンドゥー教も仏教の影響を受けていた・・・と捉えることもできる。

 更にインドがイスラム教徒に征服されると、仏教はイスラム教からも弾圧を受け衰退の一途をたどり、イスラムに征服された後のインドでは、カーストの固定化がさらに進んだ。

 このなかでジャイナ教徒は、信者をヒンドゥー社会の一つのカーストと位置づけその存続を可能にしたが、仏教はカースト制度を否定したため、その社会的基盤が消滅する結果となった。

 元々インド仏教はその存在を僧伽(修行者の集まり)に依存しており、ムスリムによって僧伽が破壊されたことによってその宗教的基盤を失い消滅した。

【補解】

 ムスリム:イスラム教信者

 インドで仏教が認められるようになったのは、インドがイギリス領になった19世紀以降で、現在はインド北東部の一部で細々と僧伽が存続する。

 

 

 

1−5 ネパールでの仏教

 釈迦の聖地のある、ネパールでも釈迦は崇拝の対象で、ネパールではヒンドゥー教徒が80.6%、仏教徒が10.7%となっている(2001年国勢調査による)

 ネパールでも仏教は少数派でしかないが、ネパールの仏教徒は聖地ルンビニへ(ネパール南部にある、釈尊の生まれたとされる村)の巡礼は絶やさず行っている。なお、ルンビニは1997年にユネスコの世界遺産に登録された。

 また、ネパールでは王制時代にはヒンドゥー教を国教としていたが、2008年の共和制移行後は国教自体が廃止されたため、ヒンドゥー教は国教ではなくなった。

 

 

 

1−6 仏教の発展

 仏教は仏滅後100年、上座部と大衆部に分かれ、これを根本分裂という。その後西暦100年頃には20部前後の部派仏教が成立し、これを枝末分裂という(ただし大衆部が大乗仏教の元となったかどうかはさだかではなく、上座部の影響も指摘されている)。

【補解】

 部派仏教或いはアルダルバ仏教とは、印度を中心に釈迦の死後100年から数百年の間に、分裂成立した20の部派の総称を云う。

 そして、部派仏教と大乗仏教とでは、釈迦に対する評価自体も変わっていった。部派仏教では、釈迦は現世における唯一の仏とみなされていて、最高の悟りを得た仏弟子は阿羅漢と呼ばれ、仏である釈迦の教法によって解脱した聖者と位置づけられた。

 一方、大乗仏教では、釈迦は十方(東南西北とその中間である四隅の八方と上下)三世(過去、未来、現在)の無量の諸仏の一仏で、現在の娑婆の仏である・・・等と拡張解釈された。

 また、後の三身説では応身として、仏が現世の人々の前に現れた姿であるとされている。とくに大乗で強調される仏性の思想は、上座部仏教には無かったことが知られている。

 

 

 

 

2−簡単な用語解説

 宗教の根源は思想である。即ち宗教家の布教活動は、自己が堅持する思想の宣撫行為である。

 思想には観念語と固有の用語が多く、観念語の解説は無理にしても、固有用語が分からないと、読み進むことが出来ない。因って簡単な用語の解説を載せた。

 

 

 

2−1 大乗仏教と上座部仏教

 釈迦の没後、約500年を経て仏教的な考えにより、大乗仏教と上座部仏教に分かれ、また、教えの学び方により、密教と顕教とに分かれた。

 

 

 

2−2 上座部仏教

 上座部仏教、(Theravada Buddhism)或いは、テーラワーダ仏教、テーラヴァーダ仏教、南伝仏教、小乗仏教とも呼ばれる。

 小乗仏教の「乗」とは、教えの事で、乗り物に喩えられ、小乗とは小さな乗り物を指し、出家して厳しい修行を積んだ僧侶だけが、悟を開き救われるのである。

 したがって、修行をした僅かな人だけが救われ、一般の人々は救われないこととなる。

 この思想は釈迦の没後の長い間に、定着したのである。

【補解】

 小乗仏教(小さな乗り物)という名称は、大乗仏教からつけた差別語なので、最近では「上座部仏教」といわれている。

(漢語で“小”は、小さいと云う意味ばかりではなく、“劣る”と謂う意味に使われることが多い)

 

 

 

2−3 地域性

 仏教を二つに大別すると、スリランカやタイ、ミャンマー等の地域に伝わった南伝の上座部仏教と、中国やチベット、日本等の地域に伝わった北伝の大乗仏教に分類される。

 初期仏教教団の根本分裂によって生じた上座部と大衆部のうち、上座部系の分別説部の流れを汲んでいると言われるものが、現在の上座部仏教である。

 ただし分別説部は分岐に諸説あって、上座部の異端として扱われたり、そもそも上座部系では無いと言う指摘もあり、また代表的な部派仏教とされる北伝20部派や南伝18部派には含まれない。

 

 

 

2−4 戒律

 釈迦生存の仏教においては、出家者に対する戒律は多岐にわたって定められていたが、釈迦の死後、仏教が伝播すると当初の戒律を守ることが難しい地域などが発生した。

 仏教がインド北部に伝播すると、食慣習の違いから、正午以前に托鉢を済ませることが困難で、午前中に托鉢・食事を済ませることは戒律の一つであったが、正午以降に昼食を取るものや、金銭を受け取って食べ物を買い正午までに昼食を済ませる出家者が現れた。

 戒律の変更に関して、釈迦は生前、重要でない戒律はサンガの同意によって改めることを許していたが、どの戒律を変更可能な戒律として認定するかという点や、戒律の解釈についても意見が分かれた。

 また、その他幾つかの戒律についても、変更を支持する者と反対する者にわかれた。

 この問題を収拾するために、会議(結集、第二結集)が持たれ、この時点では議題に上った問題に関して戒律の変更を認めない(金銭の授受等の議題に上った案件は戒律違反との)決定がなされたが、あくまで戒律の修正を支持するグループによって大衆部(現在の大乗仏教を含む)が発生した。

 大衆部と、戒律遵守の上座部との根本分裂を経て枝葉分裂が起こり、部派仏教の時代に入ることとなった。

 厳密ではないが、おおよそ戒律遵守を支持したグループが現在の上座部仏教に相当する。

 

 

 

2−5 勢力

 その後、部派仏教の時代に、上座部からさらに分派した“説一切有部”が大きな勢力を誇ったが、新興の大乗仏教が主な論敵としたのはこの“説一切有部”である。

 大乗仏教側は説一切有部を論難するに際して、(自己の修行により自己一人のみが救われる)小乗(ヒーナヤーナ、hiinayaana)仏教と呼んだとされる。大乗仏教は北インドから東アジアに広がった。

 上座部仏教はマウリア朝アショーカ王の時代にインドから主に南方のスリランカ(セイロン島)、ビルマ、タイなど東南アジア方面に伝播した。南伝仏教という呼称はこの背景に由来する。

 現在では、スリランカ、タイ、ミャンマー(ビルマ)、ラオス、カンボジアの各国で多数宗教を占める。またベトナム南部に多くの信徒を抱え、インド、バングラデシュ、マレーシア、インドネシアにも少数派のコミュニティが存在する。

 アジアの上座部仏教圏のほとんどは西欧列強の植民地支配を受けた。宗主国で、支配地の文化研究が、植民地政策の補助として奨励されたため、仏教、ヒンドゥー教、イスラム教の経典・教典の文献学的研究はイギリス(スリランカとミャンマーの旧宗主国)を中心に欧州で早くから進んだ。

 

 

 

2−6 植民地との関係

 ロンドンのパーリ・テキスト協会から刊行されたパーリ三蔵は過去の仏教研究者のもっとも重要な地位を占めた。

 その後イギリスは植民地の宗主国としての地位を喪失し、大学でも日本のようなインド哲学科が設置されることはなく、サンスクリット語研究はオックスフォード大学で細々と行われている。

 一方で欧米人の中から上座部仏教の比丘になる者や、またスリランカでは大学を卒業し英語の堪能なスリランカ出身の比丘が中心となり(公用語はシンハラ語とタミル語。連結語として英語も憲法上認められている)、大学という枠組みの外でパーリ三蔵の翻訳が活発である。

 一方で、イギリスの旧植民地のスリランカやビルマ、タイから移民や難民がアングロサクソン系のイギリス、カナダ、アメリカ、オーストラリアに大規模に流入した関係で、欧米への布教伝道も旺盛に行われている。

 欧米にはチベット密教系や東アジアの禅宗系と並んで、あるいはそれ以上に数多くの、上座部仏教の寺院や団体がある。

 上座部仏教では具足戒(出家者の戒律)を守る比丘サンガと彼らを支える在家信徒の努力によって初期仏教教団、つまり釈迦の教えを純粋な形で保存してきたとされる。

 しかし、各部派の異同を等価に捉え、漢訳・チベット語訳三蔵に収録された部派仏教の教えや、さらに近年パキスタンで発見された部派仏教系の教典と上座部のパーリ教典を比較研究する仏教学者の立場からは、上座部は部派仏教時代の教義と実践を現在に伝える唯一の宗派であると評価されるに留まる。

 

 

 

2−7 教義

 教義では、次のようにされている。限りない輪廻を繰り返す生は苦しみ (dukkha)」である。この苦しみの原因は、こころの執着(貪瞋癡)である。そして、こころの執着を断ち輪廻を解脱するための最も効果的な方法は、経典の学習、戒律の厳守、瞑想の修行であるとする。

 大乗仏教では部派仏教の形式主義を批判し、釈尊の真精神を発揮するとの立場から、幾多の如来・諸菩薩が活躍する大乗経典を生み出し、中観・唯識に代表される思想的展開が図られていった。

 それに対して上座部仏教では、釈迦によって定められた戒律と教え、悟りへ至る智慧と慈悲の実践を純粋に守り伝える姿勢を根幹に据えてきた。

 古代インドの俗語起源のパーリ語で記録された共通の三蔵 (tipitaka) に依拠し、教義面でもスリランカ大寺派の系統に統一されている点など、大乗仏教の多様性と比して特徴的なことは確かである。

 

 

 

2−8 変遷

 また、上座部においては古代スリランカにおける戦乱の時代に、比丘と比丘尼(尼僧)サンガ(無執着な集団)が両方とも滅亡した。 比丘(男性)のサンガはビルマに伝播していたために復興が適ったが、比丘尼(女性)のサンガはこれによって消滅した。

 チベットにはインドから比丘尼のサンガが伝播せず、その後にインド仏教が滅んだため、仏教で比丘尼のサンガが存在するのは中国系の仏教だけという状態であった。

 上座部で尼僧というと、比丘でも戒律を授けることができる見習比丘尼をさす。正式な比丘尼の戒律を授けるには複数の比丘尼が必要となるからである。

 だが近年、台湾に残存する、中国仏教の比丘尼の系統を使って上座部の比丘尼のサンガの復興がはかられているが、その地位は、上座部が大乗を異端と見做して居ると云う事とも相俟って、教義的に問題視されている。

 タイではメーチー (mae chi)、ミャンマーではティラシン (thila shin) と呼ばれている正式な僧とは言えないものの、ほぼ尼僧に近いような生活をしている女性たちがいる。

 

 

 

2−9 日本との関係

 中国仏教では部派仏教全体を指して小乗仏教と呼び、日本もそれを受け継いだが、「小乗」とは「大乗」に対して「劣った教え」という意味でつけられた蔑称であり、上座部仏教側が自称することはない。

 世界仏教徒の交流が深まった近代以降には相互尊重の立場から批判が強まり、小乗と云う言葉は、徐々に使われなくなった。

 1950年6月、世界仏教徒連盟の主催する第一回世界仏教徒会議がコロンボで開催された際、小乗仏教という呼称は使わないことが決議されている。

 仏教伝来以来、長く大乗相応の地とされてきた日本では、明治時代にスリランカに留学した日本人僧である釈興然(グナラタナ)によって、上座部仏教の移植が試みられた。

 また日本は明治以降欧米に留学した仏教学者によって、北伝仏教の国としてはもっとも早く「南伝大蔵経」の翻訳と研究が進められた国である。

 しかし伝統的な大乗仏教勢力が大勢を占めるなかで、上座部仏教の社会的認知度は低かった。

 上座部仏教に由来する瞑想法である現代ヴィパッサナー瞑想が、1970年代頃から世界的に広まったが、この時期には日本では普及しなかった。

 1990年代から、アルボムッレ・スマナサーラの布教活動を中心にして、上座部仏教は、ヴィパッサナー瞑想とともに日本に浸透しつつある。

 現在はタイ、ミャンマー、スリランカ出身の僧侶を中心とした複数の寺院や団体を通じて布教伝道活動がなされているほか、戒壇が作られたこともあって日本人出家者(比丘)も誕生している。

 

 

 

2−10 小乗仏教での釈迦のあり方

 小乗仏教では、釈迦の一生の中、さとりを開いた35歳以上の釈迦を崇拝する。

 

 

 

2−11 大乗仏教

 伝統的に、ユーラシア大陸の中央部から東部にかけて信仰されてきた仏教の分派のひとつで、自身の成仏を求めるにあたって、まず苦の中にある全ての生き物たち(一切衆生)を救いたいという心を確認し、つまり大乗の観点で限定された菩提心を起こすことを条件として、この「利他行」精神の有無を、大乗仏教と部派仏教とを区別する指標であるとする。

 大乗とは偉大な乗り物という語は、『般若経』で初めて見られ、摩訶衍と音写され、一般に大乗仏教運動は『般若経』を編纂護持する教団が中心となって興起したものと考えられている。

 般若経典の内容から、声聞の教え、すなわち部派仏教の中でも当時勢力を誇った“説一切有部”を指して大乗仏教側から小乗仏教と呼んだと考えられているが、必ずしもはっきりしたことは分かっていない。

 なお思想的には、大乗の教えは釈迦死去の約700年後に龍樹らによって理論付けされたとされる。

 一方、釈迦の教えを忠実に実行し、涅槃(輪廻からの解脱)に到ることを旨とした上座部仏教に対し、それが究極に於いて自らは、何処までも釈迦の教えの信奉者というに留まるもので、自身が「ブッダ」として真理を認識できる境地に到達できないのではないかという、批判的見地から起こった仏教における一大思想運動という側面もある。

 釈迦が前世において生きとし生けるものすべて(一切衆生)の苦しみを救おうと難行(菩薩行)を続けて来たというジャータカ伝説に基づき、自分たちもこの釈尊の精神(菩提心)にならって善根を積んで行くことにより、遠い未来において自分たちにもブッダとして道を成じる生が訪れる(三劫成仏)という説を唱えた。

 この傾向は『般若経』には希薄だが、明確に打ち出した経典として『法華経』や『涅槃経』などがある。

 自分の解脱よりも他者の救済を優先する利他行とは、大乗以前の仏教界で行われていたものではない。

 紀元前後の仏教界は、釈迦の教えの研究に没頭するあまり、民衆の望みに応えることが出来なく成ってきたとされるが、出家者ではない俗世間の凡夫でも、この利他行を続けてさえいけば、誰でも未来の世において成仏できる!(ブッダに成れる)と宣言したのが大乗仏教運動の特色である。

 声聞や縁覚は、人間的な生活を否定して涅槃を得てはいるが、自身はブッダとして新しい教えを告げ、衆生の悩みを救える、というわけではない。

 然し、大乗の求道者は俗世間で生活しながらしかも、最終的にはブッダに成れると主張し、自らを菩薩摩訶薩と呼んで、自らの新しい思想を伝える大乗経典を、しばしば芸術的表現を用いて創りだしていった。

 小乗仏教では修行をしたわずかな人しか救われず、一般の人々は救われないが、釈迦はすべての人々を救いたかったはずである!という思想のもとに誕生したのが大乗仏教である。

 大きな乗り物で、総ての人々を救う事を目的とし、日本に伝えられた仏教は、すべてがこの大乗仏教を基本にしている。

 大乗仏教は、教えの違いにより「顕教」と「密教」とに分かれている。

 

 

 

2−12 発展の諸相

 ブッダとは歴史上にあらわれた釈迦だけに限らず、過去にもあらわれたことがあるし、未来にもあらわれるだろうとの考えは、すでに大乗以前から出てきていた。

 然し大乗仏教ではこれまでに無数の菩薩たちが成道し、娑婆世界とは、時空間を別にしたそれぞれの世界で、それぞれのブッダとして存在していると考えた。

 この多くのブッダの中に、西方極楽浄土の阿弥陀如来や、東方浄瑠璃世界の薬師如来などがある。

 また、歴史的存在、肉体を持った存在であった釈迦の教えが、ただそのまま伝わるのではなく、大乗仏教として、種々に発展を遂げ、さまざまな宗派を生み出したと、大乗仏教では云う。

 この思想運動が、古代から続くタントリズムと結びつき、ブッダとは非歴史的な「物自爾」ともいうべき存在(法身)の自己表現であるという視点が生まれ、その存在を大日如来と想定した。

 それ以前の、歴史としておもてに表れた部分(顕教)の背後に視座を置くことから、この仏教を顕教から区別して「密教」という。

 密教の経典は釈迦ではなく大日如来の説いたものとされ、心で仏を想い、口に真言を唱え、手で印を結ぶ三密加持を行じ、みずからこの非歴史的存在を象徴することで、成道できるとする「即身成仏」を唱えた。

 そのほか、釈迦が入滅してから1500年が経過すると、仏教はその有効性を失うとする末法思想を背景に、末法の世において娑婆世界で成道すること(自力聖道門)の困難を主張し、それを放棄することで、いったん阿弥陀仏の極楽浄土へ往生してから、成道すること(他力浄土門)を提唱する浄土教も起こった。

 上座部仏教と大乗仏教、顕教と密教、自力門と他力門など、互いに相容れないように見える教義が、ひとつの宗教にあることは不思議なようである。

 然しながら、すべての宗派に共通しているのは、仏教の証しとされる三法印である。

【補解】

 法印とは「仏法の旗印」というような意味で、仏教(内道)か仏教ではない教え(外道)かを判断する目安となる仏教の根本原理をいう。

【諸行無常】

 この世に生起するあらゆる現象は、常に変化し、流転してやむことなく、刹那の単位で移り変わっていくということである。(行とは因と縁によってつくられたもの、現象している一切のもの)

【諸法無我】

 如何なる存在も、永遠不変の実体などはないのだという意味である。(諸法とはここでは存在、我とは恒常で変化しない実体の意)

 例えば、「わたし」と思い込んでいるこのわたしも、「わたし」として捉えられるような実体は存在しない。この「わたし」を含め、世の中のすべてのものは、ただ一つで存在するものはなく、縁に依って仮に和合した姿であり(縁起)、実体を伴ってあるように見えるが、実際には一刹那ごとに生まれたり滅したりを繰り返していて(刹那無常)、我がとか、我がもの、というけれど、そんなものは何一つないと教えるのが「諸法無我」である。

【涅槃寂静】寂滅為楽

 涅槃とは煩悩の炎が吹き消された状態、安らぎ、悟りの境地をいい、「諸行無常」、「諸法無我」の教えによって、人間の心から貪りと怒りと愚痴がとり除かれた時、そこに初めて涅槃寂静の状態が生まれるとし、仏教は涅槃寂静に到達することを目標とする。

【註】三法印に、一切皆苦を加えて四法印とする場合もある。

 

 

 

2−13 伝播

 仏教は紀元前後より、アフガニスタンから中央アジアを経由して、中国・朝鮮・日本・ベトナムに伝わっている(北伝仏教)

 またチベットは8世紀より僧伽の設立や仏典の翻訳を国家事業として大々的に推進、同時期にインドに存在していた仏教の諸潮流を、数十年の短期間で一挙に導入、その後チベット人僧侶の布教によって、大乗仏教信仰はモンゴルや南シベリアにまで拡大されていった(チベット仏教)

 7世紀ごろベンガル地方で、ヒンドゥー教の神秘主義の一潮流であるタントラ教(Tantra または Tantrism)と深い関係を持った密教が盛んになった。

 この密教は、様々な土地の習俗や宗教を包含しながら、それらを“仏”を中心とした世界観の中に統一し、すべてを高度に象徴化して独自の修行体系を完成し、秘密の儀式によって究竟の境地に達することができ仏となること(即身成仏)ができるとする。

 密教は、インドからチベット・ブータンへ、さらに中国・韓国・日本にも伝わって、土地の習俗を包含しながら、それぞれの変容を繰り返している。

 考古学的には、スリランカ、そして東南アジアなど、現在の上座部仏教圏への伝播も確認されていて、スリランカでは東南部において遺跡が確認されており、上座部仏教と併存した後に、12世紀までには消滅したようである。

 また、東南アジアではシュリーヴィジャヤなどが大乗仏教を受入れ、その遺跡は王国の領域であったタイ南部からスマトラ、ジャワなどに広がっている。

 インドネシアのシャイレーンドラ朝のボロブドゥール遺跡なども著名で、東南アジアにおいてはインドと不可分の歴史的経過を辿り、すなわちインド本土と同様にヒンドゥー教へと吸収されていった。

紀元前5世紀頃 : インドで仏教が開かれる(インドの仏教)

紀元前3世紀 : セイロン島(スリランカ)に伝わる(スリランカの仏教)

紀元後1世紀 : 中国に伝わる(中国の仏教)

4世紀 : 朝鮮半島に伝わる(朝鮮の仏教)

538年 : 日本に伝わる(日本の仏教)

7世紀前半 : チベットに伝わる(チベット仏教)

11世紀 : ビルマに伝わる(東南アジアの仏教)

13世紀 : タイに伝わる(東南アジアの仏教)

13-16世紀 : モンゴルに伝わる(チベット仏教)

17世紀 : カスピ海北岸に伝わる(チベット仏教)

18世紀 : 南シベリアに伝わる(チベット仏教)

 

 

 

2−14 大乗仏教での釈迦のあり方

 大乗仏教の仏とは、宇宙そのものであり、宇宙の真理とでもいうべき仏陀(宇宙仏)である。

 この仏陀が真理を説き、教えを説いたが、然し、宇宙仏は姿、形が無く、そのままでは教えを説く事は出来ないので、仏陀が人間である釈迦に姿を変えてこの世に登場した!との論理である。

 

 

 

2−15 顕教

 宇宙仏を毘盧遮那仏といい、この仏さまは姿、形が無く、言葉で教えを説かれる事が無いので、「沈黙の仏」といわれている。

 其処で人々に教えを説く為に人間である釈迦に仮借し、毘盧遮那仏の教え、つまり宇宙の真理を「如」といい、ここからやって来た者という意味で釈迦の事を「如来」という。

 「顕教」とは教えが言葉で顕されている事からこう呼ばれている。

 

 

 

2−16 密教

 宇宙仏を大日如来といい、この仏は、自ら教えを説かれる事から「雄弁の仏」といわれている。

 密教は、釈迦を通じてその教えを聞くのではなく、直接大日如来から聞こうとしたものだが、私達はその言葉を理解する事が出来ないのである。

 しかし、私達は、この言葉を聞く能力を、生まれたときから備えているのだが、その能力が煩悩の埃で汚れている為、教えを聞く事が出来ないのである。

 埃を払い、心を清めて研ぎ澄ませば、教えを聞く事が出来るとしたのが密教である。

 「密教」とは、なかなか聞く事の出来ない秘密の教えという意味である。

 

 

 

 

3−日本での仏教

3−1 概略

 日本は統計的にみて約9600万人が仏教徒であり、全世界で3億数千万人程度が仏教徒とされていることを考慮しても、やはり一大仏教国である。

 約7万5000の寺院、30万体以上あるといわれる仏像は、他の仏教国と比べても桁違いに多く、世界最古の木造寺院法隆寺があり、最古の仏典古文書も日本にある。

 文化庁が編纂している「宗教年鑑」などの統計によると、現在の日本の仏教徒の大半はいわゆる鎌倉仏教に属してい。そして浄土宗系(浄土真宗)の宗派と日蓮宗系の宗派が特に大きな割合を占めており、大乗仏教が特に多いと言える。

 

 

 

3−2 日本仏教の系譜と宗派

 古来より、様々な宗派の仏教が日本に伝来してきた。その中からさらに多種多様な宗派が生まれ、そのほとんどが現在まで継承されている。

 

下記は日本の代表的な13宗派である

系統

宗派名

開祖

別名

生年-没年

奈良仏教 法相宗  
  律 宗  
  華厳宗  
密教系 真言宗 空海 弘法大師 774-835
密教・法華 天台宗 最澄 伝教大師 767-822
法華系 日蓮宗 日蓮 立正大師 1222-1282
浄土系 浄土宗 源空 円光大師 1133-1212 法然
  浄土真宗 親鸞 見真大師 1173-1262
  融通念仏宗 良忍 聖應大師 1072-1132
  時 宗 智真 証誠大師 1239-1289 一遍
禅 系 臨済宗 栄西 千光法師 1141-1215
  曹洞宗 道元 承陽大師 1200-1253
黄檗宗 隠元 真空大師 1592-1673

 

 

【補解】

 仏教は悟りを得て仏になる教えだが、創始者である釈尊は、その人その人に合った説き方をすれば良いというスタンスをとった。(これを対機説法という)

 そのため仏教には夥しい数の経典があり、どの経典に依るかによって、多くの宗派が存在する要素があり、またどの経典、あるいは宗派が正しいと云うこともない。

 例えれば、富士山の頂上へ行くにも、その人に応じて、山梨県側から登るのか、静岡県側から登るのか、全て歩いて登るのか、途中まで車で登るのか、あるいは直接ヘリコプターで頂上に降りるのか、と様々な方途があるのと同じことである。

 ○○宗の○○寺と言うように現在は一寺一宗だが、奈良時代まではひとつの寺にいろいろな考えの僧侶がいた。同じ分野を学ぶ僧侶たちが一つの集団を作り、これを衆と呼んでいた。各衆には大学頭や小学頭と呼ばれる人がいて、勉強する僧侶を指導した。今の総合大学のような感じである。

 これが平安時代になると、一つの衆だけで一つの寺(学問所)を使用するようになり、衆より○○を宗とする派閥、つまり宗派の存在が大きくなり、一寺一宗となった。

 

 

 

2−3 日本仏教の系統

3−3−1 奈良仏教系

3−3−1−1 法相宗

 大本山・・・興福寺、薬師寺

 中国の基(慈恩大師)を祖とする。

 インドの唯識瑜伽行派の系譜を引く。

 唯識学は、あらゆる物事は心の奥深くにある阿頼耶識より生じると考える。

 法相宗は「唯識三年倶舎八年」と言って難解な思想を持つ。無常のこの世で迷える自分自身の心を深く究明してゆく。密教のような即身成仏ではなく、長い時間をかけ段階を経て修行を重ねて成仏すると考える。

 また、ひたすら念仏や題目を唱えるとか坐禅をするなど、ひとつの行に専念するのではなく、さまざまな行を勧める。

 本尊は唯識曼荼羅。弥勒菩薩を本尊とする事も出来る。

【補解】

 姓は尉遅氏で、字は洪道、大慈恩寺に住したので、慈恩大師と尊称される。京兆府長安(陝西省西安市)の出身である。父は唐の功臣・尉遅敬徳であり、母は裴氏。

 17歳で出家し、玄奘三蔵に師事して、彼の訳場に列して漢語(中国語)の点検をした。また、顕慶4年(659年)に訳した『成唯識論』を注釈して『成唯識論述記』『成唯識論掌中枢要』を著し、『唯識三十頌釈』中の護法の釈論を中心に据えて、真諦訳を中心としたそれまでの唯識説を批判し、新唯識説を打ち立てた。

 龍朔元年(661年)の『弁中辺論』『唯識二十論』と、翌年の『異部宗輪論』、翌々年の『界具足論』の漢訳では、筆受をつとめた。

 また、五台山に遊方した経験があり、道宣との交際もあった。多くの著書を持ち「百本の疏主、百本の論師」と称され、その著書中の『法苑義林章』と『成唯識論述記』から法相宗の宗義が形成され、基を宗祖とするに至った。そこから、法相宗を慈恩宗とも称した。

 

 

 

3−3−1−2 律宗

 総本山・・・唐招提寺

 鑑真和上を祖とする。

 それまで日本では正式な受戒が不可能であったため、唐から鑑真和上を招き、四分律という戒律を伝えた。

【註】奈良仏教系は学問宗であり、基本的に檀家を持たず葬式もしない。

 律宗は鑑真和上が有名 本山=唐招提寺

 経・律・論の内、律を中心とする。戒・定・慧の三学でも定慧は戒に含まれると考える。戒律と言えば一般的には戒より律の方が念頭に置かれるが、律宗では戒に集約される(戒は自己規制=自発的。律は集団のルール=他律的)

 スリランカ等の南方仏教の戒とは異なるが、天台宗系統とはまた異なる戒の系譜で、空海の影響で灌頂もある。

【補解】

灌頂とは、主に密教で行う、頭頂に水を灌いで緒仏や曼荼羅と縁を結び、種々の戒律や資格を授けて正統な継承者とする為の儀式。

 

 教典は四分律、梵網経、法華経が中心で、本尊は盧舎那仏、最澄と空海は同じ密教系でも奈良仏教系との拘わり方が異なる。

 空海は協調的で、奈良仏教系の寺に密教の影響を残しているが、最澄は戒のあり方で対立することが多かった。そのため奈良県には天台宗の寺が少ない。

 

 

 

3−3−1−3 華厳宗

 大本山・・・東大寺

 中国の杜順を祖とする。

 華厳経の考究を旨とする宗である。

 この経典には「一即一切、一切即一」、「無尽縁起」などの思想について述べられ、あらゆる物事とあらゆる物事の結びつきが、壮大なスケールで説かれている。

 華厳宗は「一がそのまま多であり、多がそのまま一である」という相反するものを一つに統括しようとする考え方を持つ。哲学的な雰囲気が濃厚で宇宙的でもある。

 空海が東大寺の別当になったことがある為、作法や行事に真言宗的なところがある。教典は大方広仏華厳経が中心。

 本尊は毘盧舎那仏で、太陽のように光明を放つ仏で、この光明によって迷っている人々を浄土である華厳世界に導く。

 

 

 

3−3−2 密教系 真言宗

 高野山真言宗総本山・・・高野山金剛峰寺

 東寺真言宗総本山・・・・・教王護国寺(東寺)

 真言宗智山派総本山・・・智積院

 真言宗豊山派総本山・・・長谷寺

などに分かれる。

 宗祖・・・空海(弘法大師)

 最澄と同時に中国にわたった空海が伝えた。

 大日如来を本尊とし、所依の経典は大日経、金剛頂経等の密教経典であり、即身成仏を目指す。

 真言宗は曼荼羅的な思想が中心で、十住心思想といって、人の心のあり方、価値観、宗教などを10段階に分け、最終段階は大日如来と同レベルに達することを説く。

 大日如来がすべての根本であって、万物は大日如来と深いかかわり合いを持っていると考える。

 また真言密教以外の教(思想)えは顕教とし、それは真言密教の一部であり、密教に到達するまでの過程とした。教典は大日経と金剛頂経が中心で、本尊は大日如来。

 真言宗と天台宗とでは、密教の取り扱い方が異なる。真言宗の密教は東密と呼ばれ、天台宗の密教は台密と呼ばれる。天台宗では顕密一致といって密教と顕教を同格に扱う。

 

 

 

3−3−3 密教・法華 (平安仏教系) 天台宗

 天台宗総本山・・・比叡山延暦寺

 天台寺門宗総本山・・・園城寺(三井寺)などに分かれる。

 宗祖・・・最澄(伝教大師)

 遣唐船に乗り中国に渡った最澄が日本に伝えた。

 法華経を所依の経典とするが、密教をも併せ持ち、また、禅(禅定)・円(法華)・密(密教)・戒(戒律)の四宗融合ともいわれる。そのため比叡山から後代に鎌倉仏教の祖師を多く輩出した。

 中国の天台宗は、隋の天台智者大師、智(538年-597年)を実質的な開祖とする大乗仏教の宗派である。

 天台宗はどの宗派とも違いが少ないのが特徴の一つで、また天台で学んで宗祖になった人が多いのも特徴である。円、密、禅、戒、どれも大切にする(四宗融合)。人それぞれ縁に応じてどの分野から入っても良いとする。

 修行も四種三昧といって四通りの方法があり、四種三昧のひとつ常行三昧の発展した回峯行も特徴である。教典は法華経中心であるが朝題目夕念仏といい、朝は法華経中心、夕方は阿弥陀経中心で勤める。本尊は定め無し。

 本尊をしいてあげれば法華経が中心なのでお釈迦様。または本山の根本中堂の本尊が薬師如来なので薬師如来。

 

 

 

3−3−4 鎌倉仏教 法華系 日蓮宗

 日蓮宗総本山・・・久遠寺

 法華宗本門流大本山・・・本能寺など

などに分かれる。

 宗祖・・・日蓮聖人

 『法華経』を最高、最終の経典とし、永遠の生命を持った「久遠実成の本仏」が姿を表したのが釈尊であるとする。

 南無妙法蓮華経と唱える唱題行を行う。

 日蓮宗は江戸時代までは法華宗または日蓮法華宗といった。現在でも法華宗を名乗る一派もある。

 法華経中心を徹底し、法華経と人の生き方と一体化させようとし、特に第16章の如来寿量品をよく読む。法華経の中で未来に登場するとされた上行菩薩は自分だと日蓮は考えた。

 南無妙法蓮華経の7文字に法華経の功徳がすべて込められていて、お題目を唱えることは、法華経を読む、奉持する、他人に説く、書写する、などと同等の価値があると考える。本尊はお釈迦様、大曼荼羅、日蓮聖人。

 日蓮が学んだ天台宗も法華経を中心にすえているが、天台宗は多面性を持ち、法華経とは哲学的な関わり方をしている。日蓮は法華経を身体で読んだとも言われる。

【補解】

 日蓮宗は開祖の名前である。宗派の名称を開祖の名前にした宗派は珍しい。

 

 

 

3−3−5 浄土系 鎌倉仏教系

3−3−5−1 浄土宗

 浄土宗総本山・・・知恩院

 西山浄土宗総本山・・・粟生光明寺

などに分かれる。

 宗祖・・・法然上人

 本尊は阿弥陀如来とし、所依の経典は浄土三部経(無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経)で、浄土往生のために称名念仏(南無阿弥陀仏と称える)を行うことが阿弥陀仏の本願にかなうとする。

 浄土宗は当初は善導宗とも呼ばれていた。

 修行による成仏は否定し、修行の価値を認めない。念仏を唱えることは行として勧める。唱えることで極楽往生するとし、念仏を唱えることを重視している。成仏と往生は区別して居り、極楽往生の後、極楽浄土で修行し成仏すると考える。

 教典は浄土三部経のうち観無量寿経に重きを置き、本尊は阿弥陀様である。向かって右に観音様、左に勢至菩薩を祀るのが基本とする(弥陀三尊の形式)

 浄土三部経は無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経の三つを云う。

【補解】

 法然長承2年(1133年) - 建暦2年(1212年)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の僧で、はじめ山門(比叡山)で天台宗の教学を学び、承安5年(1175年)、専ら阿弥陀仏の誓いを信じ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できるという専修念仏の教えを説き、のちに浄土宗の開祖と仰がれた。

 法然は房号で、諱は源空。幼名を勢至丸。通称は黒谷上人・吉水上人とも云う。

 『選択本願念仏集』(『選択集』)を著すなど、念仏を体系化したことにより、日本における称名念仏の元祖と称され、浄土宗では、善導を高祖とし、法然を元祖と崇めている。

 浄土真宗では、法然を七高僧の第七祖とし、法然上人・源空上人と称し、元祖と位置付ける。親鸞は、『正信念仏偈』や『高僧和讃』などにおいて、法然を「本師源空」や「源空聖人」と称し、師事できたことを生涯の喜びとした。

 

 

 

3−3−5−2 浄土真宗

 浄土真宗本願寺派本山・・・西本願寺

 真宗大谷派本山・・・ 東本願寺

などに分かれる。

 宗祖・・・親鸞聖人

 本尊、所依の経典は浄土宗に同じ。

 親鸞聖人は法然上人の門弟で、自らは開宗の考えはなかったものの、歴史的に別の宗となる。

 信心を強調し、信心を得ることにより浄土往生が定まると説く。

 日本仏教界では最大の宗である。

 浄土真宗は人が求めなくとも仏が救って下さるという考え(他力回向の理論)。いずれ仏になることが約束されているから、改めて修行する必要はない。「阿弥陀様が救って下さる」と信じることで往生できる。

 それ以降は感謝の行ないとして念仏を唱える。教典は浄土三部経のうち無量寿経に重きを置く。

 本尊は阿弥陀様。理論的には「南無阿弥陀仏」という言葉(名号) 【註】漢語で号の繁体字は號で、叫ぶ!と謂う意味

浄土真宗では弥陀三尊の形式はとらない。救い主は阿弥陀様のみ。阿弥陀様が人の苦悩をじっとして見ていられない事を表わすため坐像ではなく立像。他力は阿弥陀様の力を指す。

【補解】

 三蔵法師とは、仏教の経蔵・律蔵・論蔵の三蔵に精通した僧侶(法師)のことを云い、また転じて訳経僧を指して云うようになり、単に「三蔵」と呼ぶこともある。

 日本では中国の伝奇小説「西遊記」に登場する人物「三蔵法師」は特に有名だが、三蔵法師というのは一般名詞であり、尊称であって、固有名詞ではない。

 西遊記の三蔵法師(玄奘三蔵)は数ある三蔵法師のうちのひとりで、四大訳経家に数えられる鳩摩羅什や、真諦、不空金剛なども、多くの経典の漢訳を手がけており、「三蔵法師」と呼ばれる。

 史上、日本人僧の中で唯一「三蔵」の称号を与えられたのが、近江出身の興福寺僧・霊仙である。

 霊仙は804年、最澄や空海と同じ遣唐使の一行として唐に渡り、長安で仏典の訳経に従事し、その功績を認められ、憲宗皇帝より「三蔵」の称号を賜っている。霊仙が関わった『大乗本生心地観経』は石山寺に現存する。

 

 

 

3−3−5−3 融通念仏宗

 総本山・・・大念仏寺 大阪市平野区

 宗祖・・・良忍上人

 一人の念仏がすべての人に融通し、すべての人の念仏は一人に融通するという融通念仏思想に基づく。

 一宗として独立するのは後代であるが、良忍上人が平安時代の人物であり、また所依の経典は浄土経典ではなく華厳経と法華経であるためここに分類した。

 融通念仏宗は「一人の祈りがすべての人の為になり、すべての人の祈りは自分のためにもなっている」同じように一行の念仏はすべての経文と同様になり「一と多」は互いに融通する関係となる。

 毎日百遍の念仏を唱えること(日課念仏)が修行の根幹。阿弥陀様の存在の仕方が他の浄土系と異なり、密教系の大日如来的な存在である。

 教典は華厳経と法華経が中心で、浄土系であるが浄土三部経は二義的で、本尊は十一尊天得如来とする。

 十一尊天得如来は、中央に阿弥陀様を祀り、周囲に10体の菩薩が囲む曼荼羅があり、「一が多、多が一」の考えは、華厳経の特徴でもある。

 

 

 

3−3−5−4 時宗

 総本山・・・清浄光寺

 宗祖・・・一遍上人

 本尊、所依の経典は浄土宗に同じで、一遍上人は踊念仏によって教えを広めたと云う。

 すでに極楽往生は定まっていると考える点が、教えの特徴である。時宗は、念仏を唱える時には、唱える心構えや、その結果がどうなるか、などと言うようなことを心配する必要はないと云う。ただ心のままに、何も期待せずに念仏を唱えることだと説く。

 日々の生活の中で、一瞬一瞬を臨終と考えで、念仏を唱えて往生するのではなく、念仏が即ち往生であると云う。

 教典は阿弥陀経が中心で、本尊は阿弥陀様または南無阿弥陀仏の書である。

 

 

 

3−3−6 禪系 鎌倉仏教系

3−3−6−1 臨済宗

 臨済宗妙心寺派本山・・・妙心寺

 臨済宗円覚寺派本山・・・円覚寺

などに分かれる。

 中国の臨済義玄禅師を祖とする。

 日本には栄西禅師等が伝えたが、現在の法流は、関山慧玄禅師(室町時代)から白隠慧鶴禅師(江戸時代)に連なる流れである。

 同じ禅の曹洞宗に比し、公案(師匠から弟子への問題、いわゆる禅問答)を解くことを重視し、看話禅といわれる。

 臨済宗は教典や教えに依存せず相手の心に直接働きかけ、その本質を悟らせる。あらゆる生命と共存していることに感謝するため、色々な仏様や神様を祀る。

 すべてのものに仏性を見て礼拝する。1700余りの祖師の言葉を体得することが悟りの基本。そして日常の中に真理を具体的なモノとしていくことが求められる。

 坐禅の座り方は対面形式で行う。教典は特に定めない。本尊も定めなし。普通お釈迦様が多い。

 本来の禅宗様式は本尊を祀らず、その場所には椅子をひとつ置く。椅子に座って法を説く人が本尊に相当する。また、この場合お堂は法堂と呼ばれる。仏像を祀るお堂は仏殿と呼ぶ。

 

 

 

3−3−6−2 曹洞宗

 総本山・・・永平寺、総持寺

 宗祖・・・道元禅師

 道元禅師が中国に渡り、天童山の如浄禅師の下に参禅して、日本に伝えた。

 「只管打坐」といい、ひたすら坐禅することを重視し、黙照禅といわれる。

【補解】

 現代漢語構文で 只管は、只○○する 打は動詞 坐は座る

 曹洞宗は坐禅を修行の基本として、修行の威儀作法を重視し、悟りを求めない修行によって悟りを得られると考える。悟りを目的とする修行は打算的であり打算的な悟りを生む。

 悟るまで修行することは、悟ったら修行しなくて良いことになるが、悟りへのこだわりはいらない。坐禅の座り方は中国以来の面壁。教典は道元が書いた正法眼蔵が中心で、その道元は法華経を大事にした由。本尊はお釈迦様。

 

 

 

3−3−6−3 黄檗宗

 本山・・・万福寺 京都市宇治

 中国の隠元禅師が伝えた思想で、おおまかにいえば臨済系の禅宗であるが、念仏禅を特徴とし、黄檗宗は明治9年 臨済宗黄檗派から黄檗宗として正式に禅宗の一宗として独立することとなった。

 修行形態は臨済宗と同様。儀式の形式や使われる言葉は明時代の様式。教典は特に定めない。陀羅尼や阿弥陀経も読む。念仏を唱えるが浄土系とはかなり捕らえ方が異なる。南無阿弥陀仏を「ナムオミトフ」と読む。般若心経は唐音で読むのが特徴「ポゼポロミトシンキン。カンツサイプサ、ヘンシンポゼポゼポロミトス」となる。

 最近では他宗と同様に漢音(現代の漢音ではない)で読む事もある。本尊はお釈迦様である。

 日本では、江戸時代初期の1654年(承応3年)に明末清初の中国から招聘された中国臨済宗の隠元隆gにより始まり、1740年(元文5年)に第14代住持に和僧の龍統元棟が晋山するまでは伝統的に中国から住職を招聘してきた。

 当初、正統派の臨済禅を伝えるという意味で「臨済正宗」や「臨済禅宗黄檗派」を名乗っていたが、宗風は、明時代の中国禅の特色である華厳、天台、浄土等の諸宗を反映したいわゆる混淆禅の姿を伝えている。

 幕府の外護を背景として、大名達の支援を得て、鉄眼道光らに代表される社会事業などを通じて民間の教化にも努めたため、次第に教勢が拡大した。

 萬福寺の塔頭は33ヵ院に及び、1745年の「末寺帳」には、1043もの末寺が書き上げられている。

 

 

 

 

4− 空海へ

 四国巡礼が弘法大師の足跡を踏襲する霊場巡りの観点から、天台宗から密教へと稿を進める。

 

 

4−1 中國の天台宗

 中国の天台宗は、隋の天台智者大師、智(538年-597年)を実質的な開祖とする大乗仏教の宗派である。

 初祖は北斉の慧文、第二祖は南岳慧思(515年-577年)であり、慧思の弟子が智である(龍樹を初祖とし慧文を第二、慧思を第三、智を第四祖とする場合もある)。

 慧文は、龍樹による大智度論と中論に依って「一心三観」の仏理を無師独悟したとされる。それが、慧思を介して智に継承され、智は、鳩摩羅什訳の法華経・摩訶般若波羅蜜経・大智度論、そして涅槃経に基づいて教義を組み立て、法華経を最高位に置いた五時八教という教相判釈(経典成立論)を説き、止観によって仏となることを説いた学僧である。

 しかしながら、鳩摩羅什の訳した法華経は、現存するサンスクリット本とかなり相違があり、特に天台宗の重んじる方便品第二は羅什自身の教義で改変されている」という説がある。

 羅什が法華経・摩訶般若波羅蜜経・大智度論を重要視していたことを考えると、天台教学設立の契機は羅什にあるといえなくもない。

【補解】

 鳩摩羅什(344年 - 413年、一説に350年 - 409年とも)、亀茲国(新疆ウイグル自治区クチャ県)の西域僧、後秦の時代に長安に来て約300巻の仏典を漢訳し、仏教普及に貢献した訳経僧である。

 最初の三蔵法師で、のちに玄奘など、多くの三蔵が現れ、時にのちの玄奘と共に二大訳聖と言われる。また、真諦と不空金剛を含めて四大訳経家とも呼ばれる。三論宗・成実宗の基礎を築く。

 

 天台山に宗派の礎ができた後、涅槃宗を吸収し天台宗が確立し、主に智の法華玄義、法華文句、摩訶止観の三大部を天台宗の要諦としている。

 これらの智の著作を記録し編集したのが、第四祖章安灌頂(561年-632年)である。灌頂の弟子に智威(?-680年)があり、その弟子に慧威(634年-713年)が出て、その後に左渓玄朗(672年-753年)が出る。灌頂以後の天台宗の宗勢は振るわなかったため、玄朗が第五祖に擬せられている。

 玄朗の弟子に、天台宗の中興の祖とされる第六祖、荊渓湛然(711年-782年)が現れ、三大部をはじめとした多数の天台典籍に関する論書を著した。その門下に道邃と行満が出て、彼等が最澄に天台教学を伝えた。

 智の著作である天台小止観、摩訶止観、次第禅門などの著作は禅の解説書としても依用されるが、もともとは、法華経の教理にもとづく悟りの法門であり、特に摩訶止観の第七章は、円頓止観といって、究極の悟りを述べたものとされる。

 止観とは静と動の意味であり、漸次、不定、円頓の三止観を説き、のちに現れた頓悟(ただ座ることにより仏性を自覚すること)を重視し、華厳宗の如来蔵の考えに基づく中国の五家七宗(臨済宗、黄龍派、楊岐派、?仰宗、雲門宗、曹洞宗、法眼宗)の禅宗とは別物である。

 智の著作の座禅に関する解説がこの中で一番古く(6世紀初頭)、中国や日本の禅宗に座禅の教科書として影響を与えた。 このため、禅宗では、摩訶止観を重んじ、歴史的に架空人物である達磨大師が実は、天台大師ではなかったかという天台大師達磨大師説も唱えられている。

 

 

 

4−2 日本の天台宗

 日本の天台宗正式名称は天台法華円宗であり、法華円宗、天台法華宗、あるいは、単に法華宗などとも称する。但し、最後の呼び名は日蓮教学の法華宗と混乱を招く場合があるために用いないことが多い。

 初め、律宗と天台宗兼学の僧、鑑真和上が来日し天台宗関連の典籍が日本に入り、次いで、伝教大師最澄(767年-822年)が延暦24年(805年)唐に渡り天台山にのぼり、天台教学を受けて翌年(806年)帰国し伝えたのが日本に於ける天台宗の始まりである。

 最澄は特に飲酒に厳しい態度を取っており、飲酒するものは私の弟子ではなく、仏弟子でもないから、ただちに追放するよう述べている。

 この時代、すでに日本には法相宗や華厳宗など南都六宗が伝えられていたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派で、最澄は日本へ帰国後、比叡山延暦寺に戻り、後年円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)等多くの僧侶を輩出した。

 最澄はすべての衆生は成仏できるという法華一乗の立場を説き、奈良仏教と論争が起こり、特に法相宗の徳一との三一権実諍論は有名である。

 また、鑑真和上が招来した小乗戒を授ける戒壇院を独占する奈良仏教に対して、大乗戒壇を設立し、大乗戒を受戒した者を天台宗の僧侶と認め、菩薩僧として12年間比叡山に籠山して学問・修行を修めるという革新的な最澄の構想は、既得権益となっていた奈良仏教と対立を深めた。

 当時大乗戒は俗人の戒とされ、僧侶の戒律とは考えられておらず(現在でもスリランカ上座部など南方仏教では大乗戒は戒律として認められていないのは当然であるが)、南都の学僧が反論したことは当時朝廷は奈良仏教に飽きており、法相などの旧仏教の束縛を断ち切り、新しい平安の仏教としての新興仏教を求めていたことが底流にあった。

 論争の末、最澄の没後に大乗戒壇の勅許が下り、名実ともに天台宗が独立した宗派として確立した。

 清和天皇の貞観8年(866)7月、円仁に「慈覚」、最澄に「伝教」の大師号が贈られた。

 真言宗の密教を東密と呼ぶのに対し、天台宗の密教は台密と呼ばれ、当初、中国の天台宗の祖といわれる智(天台大師)が、法華経の教義によって仏教全体を体系化した五時八教の教相判釈(略して教判という)を唱えるも、その時代はまだ密教は伝来しておらず、その教判の中には含まれていなかった。因って中国天台宗は、密教を導入も包含もしていなかった。

 しかし日本天台宗の宗祖・最澄(伝教大師)が唐に渡った時代になると、当時最新の仏教である中期密教が中国に伝えられていて、最澄は、まだ雑密しかなかった当時の日本では密教が不備であることを憂い、密教を含めた仏教のすべてを体系化しようと考え、順暁から密教の灌頂を受け持ち帰った。

【補解】

 南都六宗とは、奈良時代の六つの宗派、三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗・律宗・華厳宗をいう。南都とは、後に京都(平安京)を北部といったのに対して、奈良(平城京)を指したものである。

 日本にはじめて仏教が伝来したのは六世紀の欽明天皇の時代であるが、聖徳太子の時代に至って本格的に招来された。

 聖徳太子は、仏教思想をもととした、国家社会の構築を目指し、推古15年(607)、最初の遣隋使として小野妹子を派遣したのをはじめとし、その後も、多くの留学生や留学僧を隋に派遣して、積極的に大陸文化の摂取に努めた。

 さらに太子自らも四天王寺を建立し、敬田・悲田・施薬・療院の四院を設置して貧民救済事業を興し、飛鳥寺・中宮寺・法隆寺等を建立して仏教思想にもとづく政治を行い、飛鳥時代の繁栄を築いた。

 聖徳太子没後、まもなく三論宗が伝わり、次いで法相宗が伝わり、この両宗に付随して成実宗・倶舎宗が伝えられたが、二宗は三論・法相の両教学を学ぶための補助的な学問宗派にすぎず、奈良時代になって華厳宗と律宗が伝えられた。

 これら南都六宗は独自に宗派を形成したものではなく、寺院も原則的には官立であり、国家の庇護のもと、鎮護国家の祈願所としての役割を担うと同時に、仏教教理を研究する場所でもあった。

 聖武天皇は、国家の安康と五穀豊穣を祈るため全国に国分寺(金光明四天王護国之寺)と国分尼寺(法華滅罪之寺)を建立し、さらにこれらを統括する総国分寺として東大寺を建立した。

 また、全国的に律令体制が確立されるに伴い僧尼令等が布かれ、仏教も国の統治機構の中に組み入れられていった

 平安時代に入ると伝教大師と南都六宗との間で幾多の論争が起き、延暦21年(802)、高尾山神護寺において、伝教大師は南都六宗七大寺の高僧等に対し、天台の三大部を講じて法華一乗思想を宣揚した。

 南都六宗は伝教大師の講説に反駁することができず、伝教大師を讃歎する旨の書状を桓武天皇に提出し、以後、南都六宗の教勢は次第に衰えていった。

 律宗とは、梵網経の盧舎那仏を本尊とし、「四分律」「梵網経」「法華経」と道宣の著述を所依とし、戒律を持つことによって悟りを得ようとする宗旨である。

 律宗は、中国の唐の時代に道宣(596〜667)が四分律南山宗を創唱したことにはじまり、日本には道宣の孫弟子である鑑真によって伝えられた。

 天平勝宝6年(754)、鑑真は聖武天皇の勅請をうけて来朝し、東大寺に戒壇院を設け、聖武天皇をはじめとする多くの人に戒を授けた。

 日本には戒律を授ける正式な戒壇がなかったが、以後、この戒壇院において公式の授戒が行なわれるようになった。

 天平宝字三年(759)、鑑真は朝廷より新田部親王の旧宅を賜り、そこに唐招提寺を建立して止住した。以後、唐招提寺は朝廷から保護され、戒律の根本道場として栄えていった。

 また、天平宝字五年(761)には、筑紫(福岡県)観世音寺、下野(栃木県)薬師寺にも戒壇が設けられた。

 東大寺を含む戒壇は日本三戒壇と称され、以後、僧尼の受戒はすべてこの三箇所で行なわれるようになった。

 平安時代になると、伝教大師最澄が天台宗を弘め、法華一乗の教えに基づいた大乗戒を主張して、これまでの戒を小乗の戒律として退けた。

 そして最澄滅後、比叡山に円頓戒壇が建立され、さらには空海の真言宗が興隆したことも加わって、次第に律宗の勢力は衰えていった。

 しかし平安末期には、唐招提寺の実範、鎌倉時代には覚盛や西大寺の叡尊等が出て律宗の復興が計られた。

 これら東大寺戒壇院、唐招提寺、西大寺を中心とする奈良の律宗を南京律(南部律)に対し、鎌倉時代の俊?が中国宋代の南山宗を学んで、京都に創建した泉涌寺を北京律と呼ぶ。

 

 

 

4−3 最澄

 しかし最澄が帰国して一年後に空海(弘法大師)が唐から帰国すると、自身が唐で順暁から学んだ密教は傍系のものだと気づき、空海に礼を尽くして弟子となり密教を学ぼうとするも、次第に両者の仏教観の違いが顕れ決別した。

 これにより日本の天台教学における完全な密教の編入は一旦ストップした。

 とはいえ、最澄自身が法華経を基盤とした戒律や禅、念仏、そして密教の融合による総合仏教としての教義確立を目指していたのは紛れもない事実で、円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)などの弟子たちは最澄自身の意志を引き継ぎ密教を学び直して、最澄の悲願である天台教学を中心にした総合仏教の確立に貢献した。

 

 

 

4−4 天台密教

 したがって天台密教の系譜は、円仁・円珍に始まるのではなく、最澄が源流である。また円珍は、空海の「十住心論」を五つの欠点があると指摘し「天台と真言には優劣はない」と反論もしている。

 なお真言密教(東密)と天台密教(台密)の違いは、東密は大日如来を本尊とする教義を展開しているのに対し、台密はあくまで法華一乗の立場を取り、法華経の本尊である久遠実成の釈迦如来としていることである。

 

 

 

4−5 真言宗

 真言宗は、空海(弘法大師)によって9世紀(平安時代)初頭に開かれた日本の仏教の宗派で、真言陀羅尼宗、曼荼羅宗、秘密宗とも称し、空海が中国(唐時代)の長安に渡り、青龍寺で恵果から学んだ密教を基盤としている。

 同時期に最澄によって開かれた日本の天台宗が法華経学、密教、戒律、禅を兼修するのに対し、空海は著作『秘密曼荼羅十住心論』『秘蔵宝鑰』で、空海が執筆していた当時に伝来していた仏教各派の教学に一応の評価を与えつつ、真言宗を最上位に置くことによって十段階の思想体系の中に組み込んだ。

 最終的には顕教と比べて、密教(真言密教)の優位性、顕教の思想・経典も真言密教に摂包されることを説いた。

 天台密教を「台密」と称するのに対し、真言密教を「東密」と称し、真言宗の密教は東寺を基盤としたので「東密」と呼ばれた。

 

 

 

4−6 空海

 空海は、弘仁7年(816年)に高野山金剛峯寺を修禅の道場として開創し、弘仁14年(823年)に嵯峨天皇より勅賜された教王護国寺を真言宗の根本道場として宗団を確立した。

 空海は入定(生きたままミイラに成る)に際して、住持していた寺院を弟子に付嘱した。

 教王護国寺は実慧、金剛峯寺は真然、神護寺は真済、安祥寺を恵運、寛平法皇(宇多天皇)が開基した仁和寺、醍醐寺は聖宝、円成寺は益信などがあり、これらの寺院に年分度者(国家公認の僧侶の養成)を許可され、それぞれの寺院が独立した傾向を持っていった。

 

 

 

4−7 東寺と高野山

 観賢は東寺長者と高野山金剛峯寺座主を兼ね、東寺を本寺、高野山金剛峯寺を末寺とする本末制度を確立して、東寺長者が真言宗を統括することになり、金剛峯寺は、東寺の末寺と成った。

 また高野山金剛峯寺は落雷により伽藍・諸堂を焼失し、更に国司による押妨などにより衰微し、無人の状態になるまでに至った。

 この状態が平安時代中期まで続くが、藤原道長が高野山に登山(山上の寺社に参詣すること)したことにより復興が進み、皇族・摂関家・公家が高野山への登山が続いた。

 因ってその後、皇族・摂関家・公家などによる経済的な支援もあり、高野山は財政においても安定した。

 

 

 

 

5− 空海

 四国巡礼は、空海の足取りを踏襲する旅なので、以後は空海に的を絞って稿を進める。

 

 

5−1 空海

 空海(宝亀5年774年) - 承和2年3月21日 (旧暦)(835年4月22日))は、平安時代初期の僧。弘法大師の諡号(921年、醍醐天皇による)で知られる真言宗の開祖である。

 俗名は佐伯 眞魚。日本天台宗の開祖最澄(伝教大師)と共に、日本仏教の大勢が、今日称される奈良仏教から平安仏教へと、転換していく流れの劈頭に位置し、中国より真言密教をもたらし、能書家としても知られ、嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられる。

 

 

 

5−2 生涯

 佐伯真魚は宝亀5年(774年)、讃岐国多度郡屏風浦(現:香川県善通寺市)で生まれた。父は郡司・佐伯直田公、母は阿刀大足の娘(あるいは妹)、幼名は真魚。真言宗の伝承では空海の誕生日を6月15日とするが、これは中国密教の大成者である不空三蔵の入滅の日であり、空海が不空の生まれ変わりとする伝承によるもので、正確な誕生日は不明である。

 延暦7年(788年)、平城京に上り、上京後は、中央佐伯氏の佐伯今毛人が建てた氏寺の佐伯院に滞在した。(真魚は讃岐佐伯氏)

 延暦8年(789年)、15歳で桓武天皇の皇子伊予親王の家庭教師であった母方の舅である阿刀大足について論語、孝経、史伝、文章などを学んだ。

 延暦11年(792年)、18歳で京の大学寮に入った。大学での専攻は明経道で、春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学んだと伝えられる。

 

以下の3と4項は宗教関連書転記

5−3 仏道修行

 延暦12年(793年)、大学での勉学に飽き足らず、19歳を過ぎた頃から山林での修行に入ったという。24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある『聾瞽指帰』を著して俗世の教えが真実でないことを示した。この時期より入唐までの空海の足取りは資料が少なく断片的で不明な点が多い。

 しかし吉野の金峰山や四国の石鎚山などで山林修行を重ねると共に、幅広く仏教思想を学んだことは想像に難くない。

 『大日経』を初めとする密教経典に出会ったのもこの頃と考えられている。さらに中国語(中国語とは日本語で、中國では漢語と云う)や梵字・悉曇などにも手を伸ばした形跡もある。

 ところでこの時期、一沙門より「虚空蔵求聞持法」を授かったことはよく知られるところである。『三教指帰』の序文には、空海が阿波の大瀧岳(現在の太竜寺山付近)や土佐の室戸岬などで求聞持法を修めたことが記され、とくに室戸岬の御厨人窟で修行をしているとき、口に明星が飛び込んできたと記されている。

 このとき空海は悟りを開いたといわれ、当時の御厨人窟は海岸線が今よりも上にあり、洞窟の中で空海が目にしていたのは空と海だけであったため、空海と名乗ったと伝わっている。

 求聞持法を空海に伝えた一沙門とは、旧来の通説では勤操とされていたが、現在では大安寺の戒明ではないかといわれている。戒明は空海と同じ讃岐の出身で、その後空海が重要視した『釈摩訶衍論』の請来者である。

 空海の得度に関しては、延暦12年(793年)に、20歳にして勤操を師とし和泉国槇尾山寺で出家したという説と、25歳出家説が古くから云われていたが、現在では、延暦23年(804年)、遣唐使が遭難し来年も遣唐使が派遣されることを知った、入唐直前31歳の年に東大寺戒壇院で得度受戒したという説が有力視されている。

 空海という名をいつから名乗っていたのかは定かではないが、無空や教海と名乗った時期があるとする文献もある。

 

 

 

5−4 入唐求法

 延暦23年(804年)、正規の遣唐使の留学僧(留学期間20年の予定)として唐に渡る。入唐直前まで一私度僧であった空海が突然留学僧として浮上する過程は、今日なお謎を残していて、伊予親王や奈良仏教界との関係を指摘するむきもあるが定説はない。

 第16次(20回説では18次)遣唐使一行には、最澄や橘逸勢、後に中国で三蔵法師の称号を贈られる霊仙がいた。最澄はこの時期すでに天皇の護持僧である内供奉十禅師の一人に任命されており、当時の仏教界に確固たる地位を築いていたが、空海はまったく無名の一沙門だった。

 同年5月12日、難波津を出航、博多を経由し7月6日、肥前国松浦郡田浦から入唐の途についた。空海と橘逸勢が乗船したのは遣唐大使の乗る第1船、最澄は第2船である。

 この入唐船団の第3船、第4船は遭難し、唐にたどり着いたのは第1船と第2船のみであった。

 空海の乗った船は、途中で嵐にあい大きく航路を逸れて貞元20年(延暦23年、804年)8月10日、福州長渓県赤岸鎮に漂着。海賊の嫌疑をかけられ、疑いが晴れるまで約50日間待機させられる。

 このとき遣唐大使に代わり、空海が福州の長官へ嘆願書を代筆している。同年11月3日に長安入りを許され、12月23日に長安に入った。

 永貞元年(延暦24年、805年)2月、西明寺に入り滞在し、空海の長安での住居となった。

 長安で空海が師事したのは、まず醴泉寺の印度僧般若三蔵。密教を学ぶために必須の梵語に磨きをかけたものと考えられている。空海はこの般若三蔵から梵語の経本や新訳経典を与えられている。

 5月になると空海は、密教の第七祖である唐長安青龍寺の恵果和尚を訪ね、以降約半年にわたって師事することになる。6月13日に大悲胎蔵の学法灌頂、7月に金剛界の灌頂を受ける。

 ちなみに胎蔵界・金剛界のいずれの灌頂においても彼の投じた花は敷き曼荼羅の大日如来の上へ落ち、両部(両界)の大日如来と結縁した、と伝えられている。

 8月10日には伝法阿闍梨位の灌頂を受け、「この世の一切を遍く照らす最上の者」(=大日如来)を意味する遍照金剛の灌頂名を与えられた。

 この名は後世、空海を尊崇するご宝号として唱えられるようになったる。このとき空海は、青龍寺や不空三蔵ゆかりの大興善寺から500人にものぼる人々を招いて食事の接待をし、感謝の気持ちを表している。

 8月中旬以降になると、大勢の人たちが関わって曼荼羅や密教法具の製作、経典の書写が行われた。恵果和尚からは阿闍梨付嘱物を授けられた。伝法の印信である。阿闍梨付嘱物とは、金剛智 - 不空金剛 - 恵果と伝えられてきた仏舎利、刻白檀仏菩薩金剛尊像(高野山に現存)など8点、恵果和尚から与えられた健陀穀糸袈裟(東寺に現存)や供養具など5点の計13点である。

 対して空海は伝法への感謝を込め、恵果和尚に袈裟と柄香炉を献上している。

 同年12月15日、恵果和尚が60歳で入寂。元和元年(延暦25年、806年)1月17日、空海は全弟子を代表して和尚を顕彰する碑文を起草した。

 そして、3月に長安を出発し、4月には越州に到り4か月滞在した。ここでも土木技術や薬学をはじめ多分野を学び、経典などを収集した。

 折しも遭難した第4船に乗船していて生還し、その後遅れて唐に再渡海していた遣唐使判官の高階遠成の帰国に便乗する形で、8月に明州を出航して、帰国の途についた。

 途中暴風雨に遭遇し、五島列島福江島玉之浦の大宝港に寄港、そこで真言密教を開宗し、以来、大宝寺を西の高野山というようになった。

 福江に本尊虚空菩薩を安置してあると知った空海は参籠、満願の朝に明星の奇光と瑞兆を拝し、異国で修行し真言密教が日本の鎮護に効果をもたらす証しであると信じ、寺の名を明星院と名づけたという。

 

 

 

 

6−四国霊場

 弘法大師没後○○年と云う現代に遷り、日本中彼方此方に、弘法大師を見掛けると云うほど、弘法大師の業績は日本国内に充ちている。

 四国霊場は有名だが、日本各地に四国霊場の写しが有る。四国までは参拝出来ないが、写しでも参拝し大師の高徳に触れたいと云う庶民心情の現れであろう。

 

 

6−1 概要

 江戸時代ごろから西国三十三所観音霊場、熊野詣、善光寺参りなど庶民の間に巡礼が流行するようになった。そのうちの一つが四国八十八ヵ所である。

 これを模して四国別格(番外)霊場や小豆島には小豆島八十八ヵ所霊場・江戸には御府内八十八ヵ所霊場など、全国各地に大小様々な巡礼地が作られた。此は「移し」または「写し」とも呼ばれ、四国遍路隆盛の証左ともいわれている。

 阿波国の霊場は「発心の道場」、土佐国の霊場は「修行の道場」、伊予国の霊場は「菩提の道場」、讃岐国の霊場は「涅槃の道場」と呼ばれる。

 他の巡礼地と異なり、四国八十八箇所を巡ることを特に遍路と言い、地元の人々は巡礼者をお遍路さんと呼ぶ。八十八箇所を通し打ちで巡礼した場合の全長は1100- 1400km程である。

 距離に幅があるのは遍路道は一種類のみではなく、選択する道で距離が変わるためである。

 一般的に、徒歩の場合は40日程度、観光バスや自動車を利用する場合は10日程度を要する。

【補解】“打ち”とは、昔は巡礼札を釘で打ち付けたので、言葉だけが残り、打つと云われる。

 遍路は順番どおり打たなければならないわけではなく、各人の居住地や都合により、移動手段や日程行程など様々である。1度の旅で八十八箇所のすべてを廻ることを「通し打ち」、何回かに分けて巡ることを「区切り打ち」といい、区切り打ちの打ちの場合は、阿波、土佐、伊予、讃岐の4つに分けて巡礼することを特に「一国参り」という。

 また、順番どおり廻るのを「順打ち」、逆に廻るのを「逆打ち」という。近年は順序を無視して打つことを「乱れ打ち」という人もあるらしいが、伝統的な慣用句ではない。

 なお、逆打ちは順打ちよりも御利益があるとされるが、これは一般的に順打ちを前提とした道案内などがなされていることから難易度が高くなることや、今もなお順打ちで巡拝しているとされるお大師さん(弘法大師)とすれ違う確率が高くなることなどが理由とされる。 なお、閏年に逆打ちを行うと倍の御利益があるとする考えがあることから、平年に較べ多くなるという印象をもつ人もいる。

 遍路(巡礼者)は札所に到着すると、本堂と大師堂に参り、およそ決められた手順(宗派によって多少異なる)に従い般若心経などの読経を行い、その証として納札を納める。

 境内にある納経所では、持参した納経帳または掛軸か白衣に、札番印、宝印、寺号印の計3種の朱印と、寺の名前や本尊の名前、本尊を表す梵字の種字などを墨書してもらう。

 この一連の所作を納経とも言う。朱印目当てに急ぎ巡る遍路は、判取り遍路またはスタンプラリーと揶揄されることもある。

 八十八箇所すべてを廻りきると「結願」(結願成就)となる。その後、高野山(奥の院)に詣でて「満願成就」とする考え方もあるが、これは特に定められたものではない。

 

 

 

6−2 変遷

 古代から、都から遠く離れた四国は辺地と呼ばれていた。平安時代頃には修験者の修行の道であり、讃岐国に生れた若き日の空海もその一人であったといわれている。

 空海の入定後、修行僧らが大師の足跡を辿って遍歴の旅を始めた。これが四国遍路の原型とされる。時代がたつにつれ、空海ゆかりの地に加え、修験道の修行地や足摺岬のような補陀洛渡海(補陀洛山寺、補陀洛渡海)の出発点となった地などが加わり、四国全体を修行の場とみなすような修行を、修行僧や修験者が実行した。

 また、西行の白峰御陵(白峰寺)の参拝、弘法大師遺蹟巡礼や、一遍の影響もあるといわれている。室町時代には僧侶の遍路が盛んになる。

【補解】

 入定とは、真言密教の究極的な修行のひとつで、原義としての「入定」(悟りを得ること)と区別するため、生入定という俗称もある。

 僧が、生死の境を超え弥勒出世の時まで衆生救済を目的とする行為で、後に、その肉体が即身仏となって現れるのである。

 明治期には法律で禁止され、また入定後に肉体が完全に即身仏としてミイラ化するには長い年月を要した為、時勢が変わり忘れ去られて、掘り出されずに埋まったままの即身仏も多数存在する。

 ただし、現在では自殺幇助罪に触れるため、事実上不可能になっている。

 即身仏に成るには、木食修行を行う。死後、腐敗しないよう肉体を整えねば成らない。米や麦などの穀類の食を断ち、水や木の実などで命を繋ぐ。(骨と皮だけになる)。

 次に、土中入定を行う。土中に石室を設け、そこに入る。竹筒で空気穴を設け、完全に埋める。僧は、石室の中で断食をしながら鐘を鳴らし読経するが、やがて音が聞こえなくなり、長い歳月と共に姿を現すとされる。

 確認され現存する即身仏は以下の如し

弘智 西生寺(新潟県)

弾誓 阿弥陀寺(京都府)

本明海 本明寺(山形県)

宥貞 貫秀寺(福島県)

舜義 妙法寺(茨城県)

全海 観音寺(新潟県)

阿南の行者 瑞光院(長野県)

忠海 海向寺(山形県)

秀快 真珠院(新潟県)

真如海 大日坊(山形県)

妙心 横蔵寺(岐阜県)

円明海 海向寺(山形県)

鉄門海 注連寺(山形県)

光明海 蔵高院(山形県)

明海 個人(山形県)

鉄竜海 南岳寺(山形県)

仏海 観音寺(新潟県)

 上記記載以外にも、存在すると云われては居るが、ミイラが確認されて居らず、若しくは時勢が変わり、掘り出されずに忘れ去られてしまった即身仏は多数有るのではないか?と謂われている。

【補解】

 空海の入定、835年空海は予言どおり「入定」(ここでは宗教的瞑想)に入った。弟子たちは入定した空海を現在の奥の院の「御廟」の地下にある石室に移して、生前と同じようにお仕えしたそうだ。

 空海は死んだのか?「空海は死んだ。しかし死んだのではなく入定したのだという事実もしくは思想が、高野山にはある。」(空海の風景より)

 言い伝えによれば空海の入定後、80年以上経った延喜年間、東寺の長者であった観賢が醍醐天皇から「弘法大師」の送り名が勅許されたことを空海に報告しようと奥の院を訪ねて行くと、突然奥の院の霧が晴れて空海が現れた。石室にいた空海の髪や口ひげが延びほうだいであったため、観賢は髪や口ひげを剃ってあげて、醍醐天皇から賜った御衣に着替えさせてあげた(高野大師行状図より)

しかし「今昔物語」によると、その後観賢が石室の扉を封印してしまったとの事・・・・

 そして現在。午前6時に御廟にいる空海に毎日食事が届けられる。それを先導するのは維那と呼ばれる空海の世話役を代々務める僧侶である。

 現在の御廟の中にいる空海の模様は、代々の維那で他言した人はおらず、そのために現在でも生前と同じ姿で座っているのか、代わりに木像があるのか、何もない神聖な空間に食事を届けたり、引いたりしているのか、この維那以外誰一人知らないといわれている。

 で、空海は本当に生きているのだろうか?

 弘法大師信仰を信ずる者なら、生きて今もなお奥の院の御廟の中で修行を続けていると信じたいし、現実的には「そんなことない」と思うのも一理。

 毎日、朝夕2回空海のもとに食事が届けられています。

 先頭を務めるのは維那。食事以外にも年に 1度空海の命日(入定日)に衣替えを運ぶのも維那の勤め。

【補解】

 日本の寺院制度では上古から中古に掛けて、大寺院の僧綱は、上座、寺主、都維那で構成されていた。維那は各宗派に於いて事務当局の責任を具体的に為すとされる。

 

 

 

6−3 民衆との拘わり

 江戸時代初期に「四国遍路」という言葉と概念が成立したとされ、この頃には僧侶だけでなく民衆が遍歴しはじめた。17世紀には真念という僧によって『四国遍路道指南』という今日でいうガイドブックが書かれている。

 手の形の矢印で順路を示した遍路道の石造の道しるべも篤志家によってこの時期に設置され始めたと言われる。

 修行僧や信仰目的の巡礼者以外にも、ハンセン病患者などの、故郷を追われた、もしくは捨てざるをえなかった者たちが四国遍路を終生行う職業遍路が存在した。

 また、犯罪やそれに類する行為で故郷を追われた者も同様に居たといわれている。もっともこれらの者たちも、信仰によって病気が治るのではないかという期待や、信仰による贖罪であったので、信仰が目的であったともいえる。

 また、信仰によって病気や身体の機能不全が治るのではないかと一縷の望みをかけ、現代でいう視聴覚障害者や身体障害者が巡礼することも始まった。

 その後、地区によっては一種の通過儀礼として村内の若衆が遍路に出るといったこともあったとされる。

 

 

 

6−4 明治以降

 神仏分離令およびそれをきっかけにおこった廃仏毀釈運動により、それまで札所だった神社から別当寺などへ霊場を移したり、神仏習合の寺が神社と分離独立したり、寺そのものが廃寺になるなど四国八十八箇所霊場の一部が大きく変わっていった。

 とくに影響を受けたのは高知県と愛媛県の東予地方で、のちに同じ場所に再興されたり別の寺が札所になるなど徐々に復興していったが、神仏分離から100年以上経った1993年に第三十番札所が確定したときに現代の霊場の形に落ち着いた。

 【補解】

影響を受けた札所

1−第十三番札所 一宮神社

2−第二十七番札所 神峯神社観音堂

   一旦廃寺となり寺格がない札所となったが、1912年(大正  元年)茨城県稲敷郡朝日村 竹林山地蔵院を移転し再興して、  神峯寺になる。

3−第二十八番札所 大日寺(再興)

4−第三十番札所 土佐一ノ宮高賀茂大明神(土佐神社)

   納経は神宮寺(別当寺)で行っていたが塔頭寺院の善楽寺  とともに廃寺となり、以降札所が安楽寺に移った。1929年(昭  和4年)善楽寺が復興され札所を名乗るようになり、以降第三  十番札所が2か所存在することになるが、1993年(平成5年)   元日から善楽寺が第三十番札所と定められた。

5−第三十三番札所 雪蹊寺(再興)

6−第三十七番札所 高岡神社 【補解】岩本寺を参照。

7−第四十一番札所 龍光寺

   創建当初から神仏習合の寺であったが、神仏分離により、旧  本堂が稲荷社になった。

8−第五十五番札所 別宮大山祇神社 別当寺・南光坊

   大通智勝如来を本尊とする独立した寺になった。

9−第五十七番札所 栄福寺(勝岡八幡宮と分離独立)

10−第六十番札所 横峰寺

   蔵王権現を祀る別当寺だったが廃寺になり、1909年(明治  42年)再興する。

11−第六十二番札所 宝寿寺(再興)

12−第六十四番札所 前神寺(再興)

13−第六十八番札所 琴弾八幡宮 神恵院を参照

14−第七十九番札所 摩尼珠院妙成就寺 天皇寺を参照

   妙成就寺が廃寺となり、末寺の高照院(天皇寺)が移転し  て札所となった。

 

 

 

6−5 近代における遍路の「観光化」

 弘法大師生誕地 善通寺昭和30年代頃までは「邊土」と呼ばれ、交通事情も悪く、決して今日のような手軽なものではなかった。

 今でこそ心理的抵抗は希薄になっているが、どこで倒れてもお大師のもとへ行けるようにと白地の死装束であり、その捉え方も明るいイメージではなかった。

 しかしながら、次第に観光化の道を歩み始め、近代以降、四国遍路はさまざまな場面で取り上げられることとなり、四国遍路は観光として見做された。

 

 

 

6−6 現代

 現代においては、従来の信仰に基づくものや、現世・来世利益を期待する巡礼者も引き続き大勢いるが、1990年代後半からは信仰的な発心よりも、いわゆる自分探し、癒しとしての巡礼者が増えたといわれている。

 一時期減ったといわれるすべての札所を徒歩で巡礼する歩き遍路も、同じころから増えた。徳島大学、今治明徳短期大学など、四国の大学・短期大学の中には歩き遍路を自分を見つめなおす機会ととらえ、教育課程に組み込んでいる学校もある。

 遍路をするにあたり、予約や届け出などをする必要がなく、いつどの札所から初めても終わっても自由で統計が取れないため人数は定かではないが、巡礼者数は年間30万人(うち歩き遍路が5000人)ともいわれている。

 

 

 

6−7 いろいろな巡礼手段

6−7−1 道しるべ

 伝統的には、四国遍路は「歩き」(歩き遍路と呼ばれる)で、1日30km歩いても約40日を要する。

 一時期は峠道や山道などの旧来の遍路道も廃れ、幹線道路になった遍路道は、車の排気ガスが充満するなど歩き遍路には、辛い状況になったが、排気ガス規制や、寺院や地元の人たち、遍路道保存協力会などによって、遍路道の整備や復興、道しるべの設置などが行なわれ、一時期よりは歩きやすくなった。

 国道55号などの遍路道と幹線道路とが一体化している道や、旧来の遍路道では、遍路装束の歩き遍路を目にすることができる。

 遍路の中には先を急ぐあまり夜間も歩こうとする者がいるが、街灯のない遍路道も多く、遍路道しるべを見逃して平成の現代においても遭難事故が発生している。

 歩き遍路は朝早くに出て、夕方までには宿に着くのが基本で、歩き遍路向けに、歩き遍路のルートを解説した書籍も何点か販売されている。

 また、全行程ではないが、いくつかの区間においてハイキングも兼ねたウォークガイド本も出ている。

 

 

 

6−7−2 公共交通機関の利用

 体力や身体的な理由などですべてを徒歩で巡礼するのは無理だが、できる限り歩きつつ公共交通機関を利用する巡礼者もいる。

 2006年から四国運輸局では、公共交通を利用した四国遍路のためのガイドリーフレットを作成、配布しているが、公共交通機関が無い区間や、電車やバスの本数が少なく不便な地域も多い。

 

 

 

6−7−3 バスによる団体巡礼

 昭和40年代からの四国内の道路事情の改善もあり、大型観光バスによるお四国巡りの団体巡礼が企画催行されている。何泊もしながら1回で回り切る本格的なもの、一国参りといって一つの県内を回るもの、原則日帰りで、1回で10か寺程度ずつお参りし、何回かのツアーに参加して結願となる手軽なものなど、さまざまである。

 地元の会社が主催する四国発着の団体巡礼もあるが、大手ツアー会社が主催する関西や中国地方からの団体巡礼も多く、近年では関東などからの団体巡礼も増えている。

 団体巡礼では本堂や大師堂での読経は先達や僧侶が先導してくれ、納経帳に判を貰うのは添乗員が代行してやってくれる。

 このようなツアー会社やバス会社主催の団体巡礼以外にも、札所や寺院、各地の参拝団(講)が主催する団体巡礼もある。

 小規模な団体や大型バスが通行できない札所への参拝は、マイクロバスやジャンボタクシー等も利用される。

 

 

 

6−7−4 自動車・オートバイでの巡礼

 マイカーやレンタカーなど、自動車やオートバイを利用して巡礼する人も多い。

 自分の休日を利用して少しずつ計画的に回る人もいる。今では、高速道路を利用すれば、四国の主要都市からほとんどの札所へ日帰りが可能である。

 ただし、山道など道路事情が良くない区間や札所も多い。また遍路道の中には車が通行できない区間もある。そのため遍路道から外れて整備された道路へ迂回しなければならないことも多い。

 

 

 

6−7−5 自転車での巡礼

 自転車を利用する巡礼者もいる。自転車を趣味とする人や、歩きでは時間的、体力的に無理でも、自分の力で巡礼をしたいという人が、自転車を利用している。

 自転車での巡礼では、ロードバイク・クロスバイク・マウンテンバイク・シクロクロス・ランドナーといった変速ギアのある長距離走行に向いた車種を使用することが多いが、シティサイクル(ママチャリ)や電動アシスト自転車、折りたたみ自転車等も使用されている。

 

 

 

 

7−全札所寺院

☆ 阿波(発心の道場)徳島県にある 1 - 23番までの寺院一覧。

1 竺和山 霊山寺

 高野山真言宗 釈迦如来

 鳴門市

2 日照山 極楽寺

 高野山真言宗 阿弥陀如来

 鳴門市

3 亀光山 金泉寺 高野山真言宗 釈迦如来

 板野郡板野町

4 黒巖山 大日寺 東寺真言宗 大日如来

 板野郡板野町

5 無尽山 地蔵寺 真言宗御室派 勝軍地蔵菩薩

 板野郡板野町

6 温泉山 安楽寺 高野山真言宗 薬師如来

 板野郡上板町

7 光明山 十楽寺 高野山真言宗 阿弥陀如来

 阿波市

8 普明山 熊谷寺 高野山真言宗 千手観世音菩薩

 阿波市

9 正覚山 法輪寺 高野山真言宗 涅槃釈迦如来

 阿波市

10 得度山 切幡寺 高野山真言宗 千手観世音菩薩

  阿波市

11 金剛山 藤井寺 臨済宗妙心寺派 薬師如来

吉野川市

12 摩盧山 焼山寺 高野山真言宗 虚空蔵菩薩

  名西郡神山町

13 大栗山 大日寺 真言宗大覚寺派 十一面観世音菩薩

  徳島市

14 盛寿山 常楽寺 高野山真言宗 弥勒菩薩

  徳島市

15 薬王山 国分寺 曹洞宗 薬師如来

  徳島市

16 光耀山 観音寺 高野山真言宗 千手観世音菩薩

  徳島市

17 瑠璃山 井戸寺 真言宗善通寺派 七仏薬師如来

  徳島市

18 母養山 恩山寺 高野山真言宗 薬師如来

  小松島市

19 橋池山 立江寺 高野山真言宗 延命地蔵菩薩

  小松島市

20 霊鷲山 鶴林寺 高野山真言宗 地蔵菩薩

  勝浦郡勝浦町

21 舎心山 太龍寺 高野山真言宗 虚空蔵菩薩

  阿南市

22 白水山 平等寺 高野山真言宗 薬師如来

  阿南市

23 医王山 薬王寺 高野山真言宗 薬師如来

  海部郡美波町

☆土佐 高知県にある24 - 39番までの寺院一覧。

24 室戸山 最御崎寺(東寺) 真言宗豊山派 虚空蔵菩薩

  室戸市

25 宝珠山 津照寺(津寺) 真言宗豊山派 延命地蔵菩薩

  室戸市

26 龍頭山 金剛頂寺(西寺) 真言宗豊山派 薬師如来

  室戸市

27 竹林山 神峯寺 真言宗豊山派 十一面観世音菩薩

  安芸郡安田町

28 法界山 大日寺 真言宗智山派 大日如来

  香南市

29 摩尼山 国分寺 真言宗智山派 千手観世音菩薩

  南国市

30 百々山 善楽寺 真言宗豊山派 阿弥陀如来

  高知市

31 五台山 竹林寺 真言宗智山派 文珠菩薩

  高知市

32 八葉山 禅師峰寺 真言宗豊山派 十一面観世音菩薩

  南国市

33 高福山 雪蹊寺 臨済宗妙心寺派 薬師如来

  高知市

34 本尾山 種間寺 真言宗豊山派 薬師如来

  高知市

35 醫王山 清瀧寺 真言宗豊山派 薬師如来

  土佐市

36 独鈷山 青龍寺 真言宗豊山派 波切不動明王

  土佐市

37 藤井山 岩本寺 真言宗智山派 阿弥陀如来観世音菩薩

  不動明王 薬師如来 地蔵菩薩

  高岡郡四万十町

38 蹉?山 金剛福寺 真言宗豊山派 三面千手観世音菩薩

  土佐清水市

39 赤亀山 延光寺 真言宗智山派 薬師如来

  宿毛市

☆伊予(菩提の道場)愛媛県にある40 - 65番までの寺院一覧。

40 平城山 観自在寺 真言宗大覚寺派 薬師如来

  南宇和郡愛南町

41 稲荷山 龍光寺 真言宗御室派 十一面観世音菩薩

  宇和島市

42 一果山 佛木寺 真言宗御室派 大日如来

  宇和島市

43 源光山 明石寺 天台寺門宗 千手観世音菩薩

  西予市

44 菅生山 大寶寺 真言宗豊山派 十一面観世音菩薩

  上浮穴郡久万高原町

45 海岸山 岩屋寺 真言宗豊山派 不動明王

  上浮穴郡久万高原町

46 医王山 浄瑠璃寺 真言宗豊山派 薬師如来

  松山市

47 熊野山 八坂寺 真言宗醍醐派 阿弥陀如来

  松山市

48 清滝山 西林寺 真言宗豊山派 十一面観世音菩薩

  松山市

49 西林山 浄土寺 真言宗豊山派 釈迦如来

  松山市

50 東山 繁多寺 真言宗豊山派 薬師如来

  松山市

51 熊野山 石手寺 真言宗豊山派 薬師如来

  松山市

52 瀧雲山 太山寺 真言宗智山派 十一面観世音菩薩

  松山市

53 須賀山 圓明寺 真言宗智山派 阿弥陀如来

  松山市

54 近見山 延命寺 真言宗豊山派 不動明王

  今治市

55 別宮山 南光坊 真言宗醍醐派 大通智勝如来

  今治市

56 金輪山 泰山寺 真言宗醍醐派 地蔵菩薩

  今治市

57 府頭山 栄福寺 高野山真言宗 阿弥陀如来

  今治市

58 作礼山 仙遊寺 高野山真言宗 千手観世音菩薩

  今治市

59 金光山 国分寺 真言律宗 薬師如来

  今治市

60 石?山 横峰寺 真言宗御室派 大日如来

  西条市

61 栴檀山 香園寺 真言宗御室派 大日如来

  西条市

62 天養山 宝寿寺 高野山真言宗 十一面観世音菩薩

  西条市

63 密教山 吉祥寺 真言宗東寺派 毘沙門天

  西条市

64 石?山 前神寺 真言宗石?派 阿弥陀如来

  西条市

65 由霊山 三角寺 高野山真言宗 十一面観世音菩薩

  四国中央市

☆讃岐(涅槃の道場)香川県にある66 - 88番までの寺院一覧。

 ただし、66番は香川県・徳島県境の徳島県側にある。

66 巨鼇山 雲辺寺 真言宗御室派 千手観世音菩薩

  三好市

67 小松尾山 大興寺(小松尾寺) 真言宗善通寺派 薬師如来

  三豊市

68 琴弾山 神恵院(琴弾八幡) 真言宗大覚寺派 阿弥陀如来

  観音寺市

69 七宝山 観音寺 真言宗大覚寺派 聖観世音菩薩

  観音寺市

70 七宝山 本山寺 高野山真言宗 馬頭観世音菩薩

  三豊市

71 剣五山 弥谷寺 真言宗善通寺派 千手観世音菩薩

  三豊市

72 我拝師山 曼荼羅寺 真言宗善通寺派 大日如来

  善通寺市

73 我拝師山 出釈迦寺 真言宗御室派 釈迦如来

  善通寺市

74 医王山 甲山寺 真言宗善通寺派 薬師如来

  善通寺市

75 五岳山 善通寺 真言宗善通寺派 薬師如来

  善通寺市

76 鶏足山 金倉寺 天台寺門宗 薬師如来

  善通寺市

77 桑多山 道隆寺 真言宗醍醐派 薬師如来

  仲多度郡多度津町

78 仏光山 郷照寺 時宗 阿弥陀如来

  綾歌郡宇多津町

79 金華山 天皇寺(高照院) 真言宗御室派 十一面観世音菩薩

  坂出市

80 白牛山 國分寺 真言宗御室派 十一面千手観世音菩薩

  高松市

81 綾松山 白峯寺 真言宗御室派 千手観世音菩薩

  坂出市

82 青峰山 根香寺 天台宗単立 千手観世音菩薩

  高松市

83 神毫山 一宮寺 真言宗御室派 聖観世音菩薩

  高松市

84 南面山 屋島寺 真言宗御室派 十一面千手観世音菩薩

  高松市

85 五剣山 八栗寺 真言宗大覚寺派 聖観世音菩薩

  高松市

86 補陀洛山 ふだらくざん 志度寺 しどじ 真言宗善通寺派 十一面観世音菩薩 さぬき市

87 補陀洛山 長尾寺 天台宗 聖観世音菩薩

  さぬき市

88 医王山 大窪寺 真言宗単立 薬師如来

  さぬき市

 

 

 

 

8−遍路諸事

 此まで大まかなことは書いたが、現実に足を踏み入れると、言葉では聞いているが朦朧としていた事柄も多い。

 

 

8−1 順番の固定化

 ここまで四国遍路が盛んになったのは、貞享4年(1687年)に刊行された『四国遍路指南』という新書版の本の刊行による。

 この本を著したのは眞念という僧であるが、そこには宿泊所情報なども盛り込まれており、遍路をしたい人にとって重要なガイドブックとなった。

 さらに、この本によって八十八箇所が固定化され、それまで順番などなかった札所の寺に順番が付けられたものと考えられる。現在は「へんろみち保存協会」編の『四国遍路ひとり歩き同行二人 地図編』が重要なガイドブックとなる。

 

 

 

8−2 同行二人

 仮に一人で四国八十八箇所をめぐっても、同行二人と言って常にお大師さん(弘法大師)と一緒にいる想いで巡礼している。

 「同行二人」は参拝の道具にも記されていて、同行二人の巡礼者と、もう一人は弘法大師以外でも、亡くなった家族や先祖、帰依する如来や菩薩などのことを想ってもよいとする教えもある。

 南無大師遍照金剛の意味は、 『南無』は「帰依する、信じる」という意味で、『遍照金剛』は、空海の師・恵果から授けられた空海の名である。

 

 

 

8−3 白衣

 白衣を笈摺とも呼び、巡礼者が着用する白い着衣で、四国八十八箇所の寺院や門前の店で購入すると、弘法大師を表す梵字と「南無大師遍照金剛」と背中に書かれたものが一般的である。

 袖があるものを白衣、袖無しのものを笈摺とする説明もあるが、はっきりと区別されているわけではない。宝印を受領するためだけで、実際には着衣しない白衣は判衣とも呼ばれる。

 巡礼の途中でいつ行き倒れてもいいように死装束として捉える説もあれば、巡礼といえども修行中なので、清浄な着衣として白を身につける、どんな身分でも仏の前では平等なのでみな白衣を着るとする説もある。

 

 

 

8−4 金剛杖

 木製の杖で空海が修行中に持っていた杖に由来する。巡礼者が持つ金剛杖は弘法大師の化身ともいわれるほどで、宿に着いたら杖の足先を清水で真っ先に洗い、部屋では上座や床の間に置くなどの扱いをするのがならわしである。

 巡礼中、行き倒れた巡礼者の卒塔婆として使用されたともいわれる。市販されているものは「同行二人」「南無大師遍照金剛」や頭部に『地』『水』『火』『風』『空』の五輪を表す梵字が書かれ、頭部の五輪は直接手で触れない様に金襴を巻いて持つ、般若心経が書かれているものもあり、橋の上ではついてはならない。

 

 

 

8−5 菅笠

 菅笠は日光や風雨から頭部を守り、笠には「迷故三界城」「悟故十方空」「本来無東西」「何処有南北」と「同行二人」と梵字が書かれている。

 梵字が前になるようにかぶるのが一般的で、遍路笠を身につけた巡礼者は、境内で笠を脱がないでお参りすることが許される。

 読みは『迷うが故に三界は城、悟が故に十方は空、本来は東西は無く、何処に南北有らん。』。

 

 

 

8−6 逆打ち

 四国を時計回りに札所の数字を昇順に巡礼するのを順打ちといい、反時計回りに降順に巡礼するのを逆打ちという。

 また、四国八十八ヶ所霊場会に依ると、お遍路は何番札所から始めても良く、88か所の寺院を巡礼することで結願したとされる。

 逆打ちは順打ちよりも困難な場合が多く、ご利益が順打ちよりも大きく、順打ち3回分のご利益があると言われている。

 また、逆打ちだと順廻りしているお大師さんと遭遇する確率が高いので、この理由でご利益があるとも言われている。

 

 

 

8−7 お接待

 歴史的な事例に因っての例を挙げれば、お接待を為す場所を茶堂と云い、その一例をあげると、四国村道中の茶堂(四国村。北宇和郡より移築)では、お遍路さんに対して、地元の人々から食べ物や飲み物、手ぬぐいや善根宿、ときには現金を渡す無償の提供がなされる伝統が有った。

 これに対し、遍路は持っている納札を「お接待」してくれた人に渡すことになっていて、こうした文化のおかげで、昔は比較的貧しい人でもお参りができたといわれる。

 今日でも四国西南部では、お接待の場ともなった「茶堂」が残っていて、「お接待」の心は、接待することによって功徳を積む、巡礼者もまた弘法大師の、ある種の化身であるという言い伝えからや、一種の代参のようなものなど様々である。

 観光振興や観光従事者の研修等では「もてなしの心」と拡大解釈されることがあるが、もともとは、関西で西国三十三所観音霊場の修行者、巡礼者に対して始まったとされるが、 観光化俗化したために、関西では早くに廃れたといわれている。

 四国以外の地域でも、接待講と呼ばれる講を組み、浄財を集め、四国で遍路にたいして接待をするということも行われた。

 また、どこに行けばお接待が受けられるなどの情報が流れると遍路が集まり、善意の気持ちで行われるお接待が義務化され、負担になってしまうことから、へんろみち保存協会では善根宿などのお接待の情報は、掲載せずに「縁をたずね歩いてほしい」と伝えている。

 

 

 

8−8 納札

 札所などにお参りし、納経した証に収める札。般若心経を写経したものを納めるのが正式とされているが、読経したのちに自分の名前を書いた納札を納めてもよい。衛門三郎が、自分が空海を探しているということを空海に知らせるために、空海が立ち寄ると思われる寺にお札を打ちつけたのが始まりとされる。

 かつては木製や金属製の納札を山門や本堂の柱などに釘で打ちつけていたことから、遍路自体や、札所に参拝したことを「打つ」とも言う。

 現在では、お寺の建築物の損傷を避け、持ち運びの利便性を考え、紙製の納札を納札箱に入れることになっている。

 また、接待をしてもらったら、その人にお礼の気持ちも込めて納札を渡すのが決まりである。結願した回数によってお札の色を変えてもよい。1〜 4回が白、5〜 7回が緑、8〜 24回が赤、25回以上で銀、50回以上で金、そして100回以上で錦の札となる。

 ただし、白より錦の札がよりよいとされるわけではない。100回以上回っても白の納札を使う人もいる。

 

 

 

8−9 善根宿

 善人宿とも呼ばれ、広義では自宅の前を通った遍路に「一晩泊っていきなさい」と一夜の宿を提供するのも善根宿といわれる。

 一般的には「お接待」の心で善意で用意された簡易宿泊施設で、施設を提供するのは個人や企業、地域ぐるみなど様々である。

 

 

 

8−10 通夜堂

 本来は寺院内で夜を徹して読経や真言を唱える修行をするための施設(お堂)だが、四国八十八箇所においては霊場が巡礼者にたいして用意した簡易宿泊施設という意味合いが強い。

 宿坊とは違い寝るだけの最低限の設備しかない(布団も基本的にはない)。かつては通夜堂を持つ霊場が多かったが、旅館などの宿泊施設が増えたことや、利用者のマナーなどの問題により減少し、現在では通夜堂を持つ霊場(小屋やガレージなどを一時的に利用してもよいとする霊場を含む)は2割程度である。

 

 

 

8−11 十夜ヶ橋

 現在の愛媛県大洲市付近で空海が一宿を求めたが、どの家からも断られ、仕方なく橋の下で寝ることとなった。寒さと旅人が杖で橋を突く音でまったく眠れず、一夜が十夜にも感じられた、という和歌が残っている。

 “ゆきなやむ

 浮世の人を 渡さねば

 一夜も十夜の 橋と 思ほゆ”

 このため巡礼者は、橋の下には空海がいるかもしれないから、橋をわたるときは杖を突いてはならないというならわしがある。すぐそば、国道に面して永徳寺(番外霊場)があり、お参りする人も多い。

 現在、その橋は「十夜ヶ橋」と呼ばれ、国道56号の一部となり、交通量の多いコンクリート橋になっているが、橋の下で空海を偲びつつ野宿することができる。雨期には冠水する場合もあり、夏季は蚊が多い。

 

 

 

8−12 地四国・島四国・新四国

 四国八十八箇所のことを略して「お四国参り」あるいは「お四国」「お大師さん」と呼ぶことがあるが、日本の各地には民衆信仰としての地四国、或いは「ミニ四国」「新四国」と呼ばれるものがある。

 離島では島を四国に見立てて、八十八箇所を再現した島四国も瀬戸内海を中心に存在する。

 また、愛知県を中心とする周辺(東海地方)では新四国に対して四国八十八箇所を「本四国」と呼ぶ。

 

 

 

8−13 先達

 四国八十八箇所霊場会では、昭和30年代に「公認先達」という認定制度を発足させ、ツアー会社の団体巡礼に同行する先達はほぼ「公認先達」である。

 徒歩による巡礼のガイドを引き受けてくれる先達もいて、公認先達は最低4周以上の巡拝経験が必要である。その上で研修を経て補任される。

 

 

 

8−14 中司茂兵衛

 中司茂兵衛が建立した、しるべ石と地蔵の一つ(大興寺門前)中司茂兵衛(大先達)

 弘化2年(1845年)周防国(現在の山口県)生まれ。四国八十八箇所巡礼を慶応2年(1866年)から大正11年(1922年)まで歩きで280回巡拝した。また、しるべ石を240基余りを建立した。

 

 

 

8−15 昔の巡礼

 江戸期の巡礼では河川や湾口の通行に渡し船を使うことがあり、吉野川、浦戸湾、須之内湾、四万十川などにあった。2005年末までは四万十川にも渡し船があったが、現在では浦戸湾の種崎・長浜間の渡し船(県営フェリー)が残るのみである。

 巡礼者が渡し船を使うと、多くの場合渡し賃が無料(接待)であったと伝えられている(現在の浦戸湾の渡し船は巡礼者でなくとも無料)

 歴史的な経緯から渡し船に乗った以外を徒歩で結願した場合は、全て徒歩で結願したとみなされる。

 歩行不可能、困難な巡礼者はかつて「いざり車」に乗って巡礼した。これは現代でいう車椅子にあたるもので、小さいものは台車のようなものだが、大きなものは小屋に両輪がついたようなもので、この中で寝泊りできたという。

 遍路では主に後者の小屋タイプが使われていて、村によってはいざり車をみかけると隣村まで押していく、という決まりごとがあったと伝えられている。

 気候温暖と地域住民の善意が却って禍して、不審者の流入が後を絶たず、江戸時代、土佐国(現高知県)では、不審者の流入を防ぐため、巡礼者の入国、出国は甲浦(現東洋町甲浦地区)と松尾峠(現宿毛市)の関所2か所のみとされた。

 入国してからも札所以外の立ち寄りは禁止など厳しい制限がかけられ、また遍路狩りのようなこともあったと言われている。

 また、四国で最も廃仏毀釈が激しかったのは土佐で、このようなことから、巡礼者の間では「鬼国土佐」などと呼ばれることもあった。

 といっても、入ってしまえば、草の根を分けてでも取り締まることは無理で、気候温暖で過ごしやすく、民衆の接待は他の国と同様であったため、冬には乞食遍路が集まってきて、犯罪も増えたといわれている。そのため晩秋のころからは遍路に対しては関所を閉じるということもあった。

 国や自治体では、四国八十八箇所やその他の史跡や自然を辿る道を「四国のみち」として、各種整備している。

 旧来の遍路道が「四国のみち」が重なっている場合などは、「四国のみち」として案内版や登山道の整備などがされているが、必ずしも「四国のみち」と旧来の遍路道は一体となっているわけではない。

【補解】

 札所間のルートで四国遍路とは関係がない史跡が組み込まれて遠回りになる場合があるので、遍路道を辿りたい場合には注意が必要である。

 

 

 

8−16 四国霊場の写し

 日本の彼方此方に、四国霊場の写しがある。大掛かりなものは各一寺を割り当て、或いは無住の寺院も混在し、或いは寺の境内に88体の石仏を配するなど、様態は様々である。

 巡礼地図に掲載された一例を挙げると

多摩八十八ヶ所

島四国八十八箇所

小豆島八十八ヶ所霊場

摂津国八十八箇所

篠栗四国八十八箇所

知多四国八十八箇所

三重四国八十八箇所

九州八十八箇所

関東八十八箇所

新四国曼荼羅霊場(四国に88か所ある)

台北四国八十八箇所(中国台湾省)

 

 地域習俗として四国霊場の写しは各所にある。著者の識る限り、近県にも幾つかの大師講は有ったが、昨今の住民構成と意識の多様化に伴い、歴史に培われた有為な習俗が、次々と消滅している。

 域内の真言宗寺院八十八ヶ寺を四国霊場の写しと見立て、農閑期に郷人が誘い合って巡拝するのである。

 著者の住む地域(千葉県松戸市)には、心ある有志の尽力により、二百余年の歴史有る“東葛印旛大師講”(千葉県東葛飾郡と千葉県印旛郡)が、今でも健全に活動している。此は行事の継続のみ成らず、精神の継承でもある。

東葛印旛大師講 平成25年5月1日 出立

 

 

 

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