第二章 般若心経

 

注;中國では日本で謂うところの“中国語”のことを、“漢語”と謂うのだが、日本では一般に“漢語”のことを“中国語”と謂っている。然し此の書冊では日本の習慣に倣って、漢語のことを中国語、古典漢語のことを古典中国語と書いた。

 私は世間一般の方々と同じ?で、新年には神社へお参りし、お盆やお彼岸には寺参りもする。習慣として、香を焚き飯を供え、手を合わせたり、柏手を打ったり、沢山のお願い事もする。

 此が宗教行為と謂われれば、そうかも知れぬが、そうでないかも知れない。劉邦の様なことはしないのだから、嫌いではない事だけは確かだ!

 松戸には200年以上も続くと謂われる、“東葛(郡)印旛(郡)大師(弘法大師)組合”と謂う講があり、毎年5月1日から5月5日までの5日間を掛けて、域内に祀られた四国霊場の写しを巡拝する。

 連休中、何処にも出掛ける当てのない老生に取っては、恰好の行事で、毎年参加させて貰っている。

 般若心経は、古典中国語で書かれているので、文字面だけなら何が書かれているのかは概ね読める。

 ただ経文と成ると大分扱いが違う。老生は訳も分からず何度も何度も唱えた!

 日本人が経文を唱える場合、古典中国語で書かれているのだから、差し当たり中国語発音で読むものだと思っていたが、日本での現実は、日本語発音で読むのである。

 斯くの如く意味不明(漢語でも日本語でもない)の経文を唱えるという行為が、果たして宗教教育を受けたことのない私の如き凡夫に、如何ほどの修養を齎のか聊か疑問を感じていた。

 疑問を感じているばかりでは能がない!其処で経文をどの様に唱えるかを、先ず中国語読みで併音を付けてみた。

 だが此では日本で通常耳にする読経には、程遠い響きに成って仕舞った。其れならばと、古典中国語を日本語読みで読む(此は中国語でも日本語でもない宗教家の専門語)ように振り仮名を付けてみた。此で日常耳にする読経とほぼ同じになった。

 次いで何が書かれているのか日訳したのだが、結果として宗教とは程遠い内容に成ってしまった。宗教素養のない著者には、宗教者の意図するするところの翻譯を付けることは不可能なので、宗教解説書の文言を丸写にした。

 これら試行錯誤の行為が、果たして書冊を漁りキーボードを打つ作業だけで終わって仕舞ったのか?・・・・・・というと、漠然とはして居るが、そうでも無さそうである。

 

 

仏説摩訶般若波羅密多心経

これは人智を越えた般若波羅密多に付いての心経である。

 

般若心経 (三蔵法師玄奘訳)

 

観自在菩薩

観音菩薩が、

 

行深般若波羅蜜多時

深遠な知恵を完成するための実践をされている時、

 

照見五蘊皆空

人間の心身を構成している五つの要素がいずれも本質的なものではないと見極めて、

 

度一切苦厄

すべての苦しみを取り除かれたのである。

 

舎利子

そして舎利子に向かい、次のように述べた。舎利子よ、

 

色不異空

形あるものは実体がないことと同じことであり、

 

空不異色

実体がないからこそ一時的な形あるものとして存在するものである。

 

色即是空

したがって、形あるものはそのままで実体なきものであり、

 

空即是色

実体がないことがそのまま形あるものとなっているのだ。

 

受想行識

残りの、心の四つの働きの場合も、

 

亦復如是

まったく同じことなのである。

 

舎利子

舎利子よ、

 

是諸法空想

この世の中のあらゆる存在や現象には、実体がない、という性質があるから、

 

不生不滅

もともと、生じたということもなく、滅したということもなく、

 

不垢不浄

よごれたものでもなく、浄らかなものでもなく、

 

不増不減

増えることもなく、減ることもないのである。

 

是故空中無色

したがって、実体がないということの中には、形あるものはなく、

 

無受想行識

感覚も念想も意志も知識もないし、

 

無限耳鼻舌身意

眼・耳・鼻・舌・身体・心といった感覚器官もないし、

 

無色声香味触法

形・音・香・味・触覚・心の対象、といったそれぞれの器官に対する対象もないし、

 

無限界乃至無意識界

それらを受けとめる、眼識から意識までのあらゆる分野もないのである。

 

無無明

さらに、悟りに対する無知もないし、

 

亦無無明尽

無知がなくなることもない、

 

乃至無老死

ということからはじまって、ついには老と死もなく

 

亦無老死尽

老と死がなくなることもないことになる。

 

むくしゅうめつどう

無苦集滅道

苦しみも、その原因も、それをなくすことも、そしてその方法もない。

 

無知亦無得

知ることもなければ、得ることもない。

 

以無所得故

かくて、得ることもないのだから、

 

菩提薩垂

悟りを求めている者は、

 

依般若波羅蜜多

知恵の完成に住する。

 

故心無圭礙

かくて心には何のさまたげもなく、

 

無圭礙故無有恐怖

さまたげがないから恐れがなく、

 

遠離一切転倒夢想

あらゆる誤った考え方から遠く離れているので、

 

 

究境涅槃

永遠にしずかな境地に安住しているのである。

 

三世諸仏

過去・現在・未来にわたる”正しく目覚めたものたち”は

 

依般若波羅蜜多故

知恵を完成することによっているので、

 

得阿耨多羅三藐三菩提

この上なき悟りを得るのである。

 

故知

したがって次のように知るがよい。

 

般若波羅蜜多

知恵の完成こそが

 

是大神呪

偉大な真言であり、

 

是大明呪

悟りのための真言であり、

 

是無上呪

この上なき真言であり、

 

是無等等呪

比較するものがない真言なのである。

 

能除一切苦

これこそが、あらゆる苦しみを除き、

 

真実不虚

真実そのものであって虚妄ではないのである、と。

 

故説般若波羅蜜多呪

そこで最後に、知恵の完成の真言を述べよう。

 

即説呪曰

すなわち次のような真言である。

 

羯帝羯帝波羅羯帝 (漢語ではない)

往き往きて、彼岸に往き、

 

波羅僧羯帝 (漢語ではない)

完全に彼岸に到達した者こそ、

 

菩提 (漢語ではない)

悟りそのものである。

 

僧莎訶   (漢語ではない)

めでたし。

 

般若心経

知恵の完成についてのもっとも肝要なものを説ける経典。

 

 

《【補解】

 意訳般若心経 台湾省 蔡志忠

 自我があるから善悪、好悪、美醜といった比較が生じる。自我があるから、自分と異なる他者、つまり自分の外界という概念も生じる。

 人間は自分の感覚器官「眼、耳、鼻、舌、身体、意(心)」を通じて外界の情報「色(形)、声、香、味、触、法(概念)」をとりこむ。 

受;この情報は大脳で分析比較される。

想;そして、すでにインプットされている自分の情報と合わせられ、情報分析の結果意志を生ずる。

(意志とか印象など);その結果、認識したり行動することになる。

(意識作用);五蘊とは、外界の色+内界の受・想・行・識をあわせたものを謂う。

 如何なる時でも、如何なる場所でも、自我に執着せず外界と一体なれば、心は安らかになる。

 コップ一杯入った水に塩を加えたとき、塩の形は消えるが、塩は無数の分子となって、拡散し水は塩からくなる。

 このように悟りを開いた人間は、自分と外界との区別はなくなり無我の境地となる。

 即ちこれが空ということで、殊更に自我を主張しなくなり、自我に執着しなくなる。

 この世のあらゆる物事は、本来どんな意味もなく、それぞれあるがままに存在している。

 それを人間は色眼鏡で見て、良いとか悪いとか、好きだとか嫌いだとか評価している。(見る人間のフィルターを通して見ている)

 ここに「美女」がいるとしよう。がしかし、そもそも「美女」というのが間違いである。何故なら美女の定義は時代によって、国によって、あるいは世代によって違うものなので、抑も男の見る美女と、女の判断する美女とは異なる。

 「色」とは心が作り出したもの。 本来の物事に実体はなく、「空」なのだ。

 この世のすべての事柄は、それを見る人によって捉え方が違い、同じものを見ても聞いても、その感じ方はその人次第。極端にいえば、その時の気分次第だ。

 風鈴の音を聞いても、これを「五月蝿い」と思ってイライラするか、「ああ夏だ」と夏の風情を感じるかは、それはその人の心次第。

 釈尊は舎利子に言われた。

 「舎利子よ、この世に存在する物質や現象には実体がないのだ。

お前も、お前の心も、お前の心にうかぶ意志も、みなつかのまの現象であり実体がないのだ」

 「このようなこの世の存在を空と呼ぼう」

 「そしてお前が見聞きする対象物すべてを色と呼ぼう」

 「感覚、知覚、判断、意識、観念というお前の精神活動も、すべて空なのだ」

 「禍福美醜善悪などは、お前自身の見方に過ぎない」

 「自分の狭いものの見方にとらわれず物事を見よ」

 「そうすれば、もはや自分などない。時間も空間もない」

 「水に入れた砂糖のように、形は消えるが水は甘くなる。水と砂糖の区別はなくなる」

 「偏った見方をしなければ、物事を区別する心も生まれない」

 「無明(真理に暗いこと)もないし」

 「無明によって生ずる苦悩もない」

 「生の意義は自我を捨てて生きることにある」

 「そうすれば、老いや死を思い煩うこともなくなる」

 「小乗仏教では言う、人生は苦しい。苦の原因を探せ。その原因を除けば苦は滅する。

 そのためには修業がある」

 「この四段階の真理を、苦・集・滅・道という」

 「だが、生は絶対なものではなく、生死はめぐるものなのだということを理解したなら、生老病死を悩むこともない」

 「そうしたら、苦集滅道も、もはや問題ではなくなる」(これが大乗仏教なのだ)

 「このような真理を悟った者を智慧者だと思うか?」

 「だが悟りや智慧さえも存在しないものなのだ」

 「そのようなものに対する執着すら智慧者にはあってはならないのだ」

 「もし有ったなら、そのようなものはまだ智慧者とは呼べぬからなのだ」

 「或いは、この真理に届けば、得るところ大だと思うかもしれない」

 「だが、利己心がないので得るということもないのだ」

 「何ものにも執着しない者は、すべてをありのままに受け入れ、心が安らかなので妄想もなく、自我がないから偏見もない」

 「恐怖も欲望も幻想もない。物事を逆さや斜めに捉えることもない」

 「過去、現在、未来の三世におられる諸仏は、このような智慧の完成により、最高の悟りを開かれたものである」

 「智慧の完成こそが偉大であり大いなる悟りである」

 「智慧の完成は執着から生まれたあらゆる妄想や苦しみを除くものである。

 これこそが真実であり誰もが実践できることである」

 「彼岸に渡ろうとしている人を励まそう」

 「往く者よ、彼岸に往く者よ!」

 「彼岸に渡れ、彼岸に渡れ!」

 「彼岸にいたれば幸多し!」

 釈迦は話し上手だったから、あちこちで仏教の考え方を相手にあわせて臨機応変に説いてまわった。

 その結果、聞き手によって仏教のとらえ方がまちまちであった。もっとも、同じ話を聞いても、聞く者によってとらえ方が違うからしかたのないことだ。そこで釈迦の死後、高弟たちが集まって仏教の教えを一本化した。

 然し、時間がたつにつれ解釈の違いが表面化して、仏教集団は保守派の「上座部」(小乗仏教)と革新派の「大衆部」(大乗仏教)の二派に分裂した。

 それらの分裂はさらに進み、20近くの学派ができた。

 その結果、仏教は学問的にはなったが、一般の人から遠くなってしまった。

 難しい用語を用いて文献的に整理されていったから。

 さて、布教活動において、大乗仏教が一般人をとりこむため、一般人が家族を養い生活を楽しむことを認めなければならなかった。

 そこで、小乗仏教の四諦(苦集滅道)はないと般若心経で言ってのけたのである。

 欲望にとらわれてはいけない。欲望の奴隷になってはいけない。

 しかし、人間が欲を捨てさることはできない。

 むしろ、とらわれない程度の欲望をもって生活するのは我々に平安をもたらすのだ。

 キリスト教が、市民階級が商売に励んだり日常の家族生活を大切にすることを認めたように、信者獲得のためには、僧侶と在家信者の存在をそれぞれ認めたのであろう。

 その民族がすべて聖職者になれば、農業も手工業も商業もする者がなくなり、生産活動はストップしてしまう。

 みな僧侶のように独身をつらぬけば民族は滅んでしまう。

 ゆえに、釈迦の教義の精神を守りつつ、民族の活力維持も考慮して、般若心経が生まれたのであろう。

 オリンピックもノーベル賞も、みな努力して目標に達成する喜びがあるからあり続け、人間のそういう努力はよい面もある。

 新たな技術も人間の願いや欲望や探求心に支えられ、例えば名誉欲、向上心、自己実現、これらを否定することはできない。

 それにとらわれなければ、人間の積極性を受け入れながら生きるのがよい。そう解釈して大乗仏教は般若心経を作った。

 

 

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