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四国八十八霊場巡礼 目次へ 緒言

 四国巡礼を語るには、抑も日本に仏教が伝来した経緯を述べなければ成るまい。仏教は印度の地で誕生し、パキスタンを経由し、中華人民共和国新疆ウイグル自冶区の敦煌を経由し、朝鮮を経て日本に伝来した。

 印度からパキスタンを経て漢民族の地域に伝来したのだが、印度で誕生した経典は、パキスタンを経由すれば、パキスタンで解読できるように翻訳され、漢土に入るには、漢民族が解読出来るように翻譯されなければならない。

 日本人には漢民族の文章が辛うじて読めるので、漢民族が使用した経典は、其の儘の文体で日本にもたらされ、日本で使用する仏教経典となった。パキスタン経由の経典を漢語に翻訳した人物が「鳩摩羅什」で、仏教を語る上で最初に述べなければ成らないのは「鳩摩羅什」である。

 鳩摩羅什は西暦350頃〜409年、中国の南北朝時代初期に仏教経典を訳した僧で、インドの貴族の血を引く父と、亀茲国の王族の母との間に生れ、7歳のとき母と共に出家した。

 はじめ原始経典や阿毘達磨仏教を学んだが、大乗に転向し、主に、中観派の諸論書を研究し、384年、亀茲国を攻略した呂光の捕虜となり、以後18年間で涼州での生活を余儀なくされた。

 のち、401年に後秦の姚興に迎えられて長安に入り、以来、10年足らずの間に精力的に経論の翻訳を行うとともに、多くの門弟を育てた。

 東アジアの仏教は、鳩摩羅什によって基本的に性格づけられ方向づけられたと云ってよい。主な訳出経論に『坐禅三昧経』3巻、『阿弥陀経』1巻、『大品般若経』24巻、『妙法蓮華経』7巻、『維摩経』3巻、『大智度論』100巻、『中論』4巻などがあり、門弟は三千余人に上ったという。

尊像在廣齊寺 中國仏教会所在寺院

 大雁塔は、652年に唐の玄奘三蔵がインドから持ち帰った経典や仏像などを保存するため、高宗に申し出て建立した塔で、名は、菩薩の化身として雁の群れから地上に落ちて死んだ1羽を、塔を建てて埋葬したことに由来する。

 高さは7層64mで現在は、西安市の東南郊外にある大慈恩寺の境内に建っていて、玄奘の設計により、当初は5層で、各階に仏舎利がおさめられ、経典は上層部の石室に置かれた。

 玄奘自ら、造営に携わったと伝えられ、塔の南門には?遂良書の筆による碑が置かれ、当初は表面を磚に覆っただけで土によって作られていたために、老朽化してしまった。そのため、長安年間(701年 - 705年)、武則天の統治時代に、全て磚でつくられ、上まで登れるようになり、現在の7層に落ち着くという変遷を経ている。

 唐時代に進士試験の合格者がここで名を記したことから、「雁塔題名」の成語も生まれ、後に宰相になった場合、その名は朱色に書き換えられた。

 また、訪れるものに自分の名を書くものもあり、唐代の詩人、李商隠の名が残っている。また、日本から訪れた円仁も登ったことがあった。その後、熙寧年間1068年 - 1077年頃に火事に罹災し、1550年頃に重修されており、人民中国成立後にも修築されている。

 現在でも、最上層まで登ることが可能である。

【註】

 中國北京弘慈廣濟寺は、阜城門内の西四にある。仏教の著名な古刹の一つで、中国仏教協会がここに設置されている。1983年、国務院から漢族地区の仏教全国重点寺院に指定された。

 広済寺は最初、西劉村寺と名づけられた。宋代末年の建立。清代初年、恒明法師が律宗の道場に改め、戒壇を設けて戒めを伝えた。順治十三年(1656)、世祖愛新覚羅福臨が遊歴したことがある。清政府は広済寺に非常に関心を寄せ、何度も修復や拡張を行ったが、基本的には明代の再建時の配置を保持している。

 中華人民共和国建国後、人民政府は52年に資金を拠出して全面的な修復を実施。59年、中国仏教協会が北京に発足することになり、広済寺に設けられた。

 大雄宝殿には乾隆五十八年(1793)に鋳造された青銅製の宝鼎がある。高さは2メートル余り。文様の刻まれた石座に置かれ、本体には「仏教八供」(輪、螺、傘、蓋、花、瓶、魚、結)などの文様が鋳られている。造型は古風で質朴、上品で、技術力に優れた貴重な芸術作品である。

 広済寺は膨大な仏教経典を珍蔵している。図書室だけでも23種の文字、10万冊以上の経典、著作を収蔵。『大藏経』は版本だけで12種にのぼり、中国仏教の発生と発展、変遷の重要な史料、中国の伝統文化の重要な一部でもある。境内にはさらに、1721−1753年に甘粛臨潭県ツォニ寺が印刷したチベット語の『大藏経』がある。計231包み。仏教の希少な文書である。

 

 

四国巡礼の第一歩 竺和山霊山寺

 

 参拝を為し御朱印を戴くと、各寺院の“ご本尊お姿”が贈られる

 

 四国霊場の写しは日本の各地に有り、各一寺を充て、或いは無住を含め、或いは88体の仏像を配するなど枚挙に暇がない。

 弘法大師に私淑する民衆が大師講を組織し、四国詣でを為し或いは写し霊場を参拝する風習は、現代でも脈脈と受け継がれる。

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88番札所 医王山 大窪寺 此処で結願の記念写真に収まる

 

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比較と欲望と恐怖から逃れるには、感謝の情を身につければ良い

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第一章 概説 01−霊山寺 45−岩屋寺
1−始祖概略 02−極楽寺 46−浄瑠璃寺
1−4 印度での仏教 03−金泉寺 47−八坂寺
1−5 ネパールでの仏教 04−大日寺 48−西林寺
2− 簡単な用語解説 05−地蔵寺 49−浄土寺
2−4 戒律 06−安楽寺 50−繁多寺
2−6 植民地との関係 07−十楽寺 51−石手寺
2−7 教義 08−熊谷寺 52−太山寺
2−9 日本との関係 09−法輪寺 53−円明寺
2−12 発展の諸相 10−切幡寺 54−延命寺
2−13 伝播 11−藤井寺 55−南光坊
2−14 大乗仏教での釈迦 12−焼山寺 56−泰山寺
2−15 顕教 13−大日寺 57−栄福寺
2−16 密教 14−常楽寺 58−遊仙寺
3− 日本での仏教 15−国分寺 59−国分寺
3−2 日本仏教の系譜と宗派 16−観音寺 60−横峰寺
3−3 日本仏教の系統 17−井戸寺 61−香園寺
3−3−1−1 法相宗 18−恩山寺 62−宝寿寺
3−3−1−2 律宗 19−立江寺 63−吉祥寺
3−3−1−3 華厳宗 20−鶴林寺 64−前神寺
3−3−5 浄土宗 21−大龍寺 65−三角寺
3−3−5−4 時宗 22−平等寺 66−雲邊寺
3−3−6−1 臨済宗 23−薬王寺 67−大興寺
3−3−6−2 曹洞宗 24−最御崎寺 68−神恵院
3−3−6−3 黄檗宗 25−津照寺 69−観音寺
4− 空海 26−金剛頂寺 70−本山寺
4−1 中国の天台宗 27−神峰寺 71−弥谷寺
4−2 日本の天台宗 28−大日寺 72−曼荼羅寺
4−3 最澄 29−国分寺 73−出釈迦寺
4−4 天台密教 30−善楽寺 74−甲山寺
4−7 東寺と高野山 31−竹林寺 75−善通寺
5− 空海 32−禅師峰寺 76−金倉寺
5−4 入唐求法 33−雲蹊寺 77−道隆寺
6− 四国霊場 34−種間寺 78−郷照寺
6−2 変遷 35−清滝寺 79−天皇寺
6−3 民衆との拘わり 36−青龍寺 80−国分寺
6−4 明治以降 37−岩本寺 81−白峯寺
6−5 遍路の観光化 38−金剛福寺 82−根香寺
6−7 色々な巡礼手段 39−延光寺 83−一宮寺
7− 全札所寺院 40−観自在寺 84−屋島寺
8− 遍路諸事 41−龍光寺 85−八栗寺
8−1 順番の固定化 42−仏木寺 86−志度寺
8−16 四国霊場の写し 43−明石寺 87−長尾寺
第二章 般若心経 44−大宝寺 88−大久保寺
第三章 御詠歌と御真言

高野山 金剛峰寺

  

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 人生も耳順(六十而耳順)を過ぎると長年の垢がこびり付いて、何とはなしに四国巡礼でもしてみるかなあ!・・・・・・と思ったりもする。かと謂って、第一歩を踏み出したか?と問われれば、其れはただ漠然とした曖昧な願望で、自分から踏み出すことは無かった。

 曖昧な願望を具現化して呉れたのは、同じ町内で弘法大師に私淑する星野翁が、私と妻の二人を四国88ヶ寺巡礼団に誘って呉れたからである。

 四国巡礼に際して私共は、白い運動靴、白い靴下、白いズボン、白いシャツ、白い上っ張り(笈摺)、輪袈裟、般若心経の印刷物など諸々な小道具を身に付けた。此ですっかり、内面は兎も角、身形だけは一端の信者に成った。

 其れはその筈、警官の服装をすると警官に、看護婦さんの服装をすると看護婦さんに見えるのと同じで、内面は兎も角、紛れもないお遍路さんに成った。

 かく言う私共は、前巻でも白状したが、四国巡礼を経験した今でも、世間並みな神仏崇拝はするが、それ以上でもそれ以下でもない日常である。

 89ヶ寺も参拝し、般若心経を数百回も唱えたのに、何も変わらなかったのか?と問われれば・・・・、強ちそうとも言い切れないかもしれないが、自分自身のことでハッキリはしない!と、今は此だけしか謂えない。何しろ自分にも解らないのだから!

 

 装束を纏うのも杖を携えるのも、般若心経を唱えるのも、群れて歩くのも、私には何から何まで初めての経験で、戸惑い、吃驚し、他人様の後に付いて歩くのが精一杯であった。

 自宅近くの集合場所からバスに乗り、羽田空港で飛行機に乗換え、朝一番の飛行機で高松空港に到着した。

 何も解らず小型バスに乗り換え、第一番・霊山寺で降ろされた。寺には売店が設えられ、何だか分からないが同行が買っている様子を見て、取り敢えず真似をして買った。

 その後はずっと、朱印帳を添乗員に預け、只管先達の後に続いた。先達が読経すれば読経し、先達が移動すれば移動した。先達が売店に立ち寄れば、売店に立ち寄り、朝昼晩食を為し、寺の開門に合わせて、朝の6時頃から7時頃に出立した

 其れでも二日目には少しは様子が分かり、三日目には次に何をするのかが解ってきた。あれこれしている中に、88ヶ寺大窪寺で結願の記念写真に収まった。

 88ヶ寺で終わりかと思ったら、次いで高野山へ詣でた。帰宅後数日して沙払いをして、私の四国霊場巡拝は総て終わった。

 明後年、亦四国霊場巡拝に誘われたが、妻は遠慮して私だけが参加した。今度は二度目なので様子は殆ど分かっていて、般若心経も暗唱して、差ほど迷うことなく日時を消化できた。

 ただ参ったことがあった!到着した日から帰途に就くまで、毎日が雨天で、風邪を引かなかったのが精々の慰めだった。

 二度も参拝し、読経も沢山したのだから、少しは功徳が有ったかな? 少しは人柄が変わったかな? 何も変わらなかったのかな?

 自分自身のことでなので猶更ハッキリしないが、何も変わらなかった気がする!と・・・・・・、何しろ自分にも解らないのだから!今は此だけしか謂えない。

 あれから数年経つが、今では般若心経もすっかり忘れて、最初の一句も思い出せない。

 二度目に参拝したときは、少しは馴れて余裕も出来たので、行く先先を写真に収めたが、未だ未整理で、ただ数だけはある。

 ただ困ったことに、どれも此もお寺の写真では、どれがどのお寺か、サッパリ解らぬ。嫌でも記憶を遡らねば成るまい。

 老躬雑話の秩父篇、坂東編を脱稿すれば、次は四国篇である。筆を執るまでは私論(虚説)も片方の柱にしようと目論んでいたが、いざ筆を執ってみると、仏教より先に儒教や老荘や韓非子(著者は殊に韓非子の論旨に共感した)を学んで居たので、互に錯綜して仕舞った。

 茲に色即是空の四字を見れば、恐らく般若心経の基幹は唯識思想で有ろう事は、多少とも哲学に興味のある者には、想像が付くが、唯識思想がどうして、宗教と結びつくのか凡夫には解らない。

 思考は更に錯綜して一点に決しきれず、結局のところ何も書けない!と謂うのが偽らざる處である。依って見聞きしたこと(実説)丈になってしまった。

 さて私と仏教との拘わりは40歳代に遡る。決して宗教に興味を抱いた訳ではないが、私は若い頃から漢民族古典文化に興味を抱き、論語・孟子・中庸・荘子・老子・・・・・・・などを読み漁った。

 文字情報の次には現実に触れてみたい!とは、向学心に燃える者にとって当然の成行である。

 かと謂って文化大革命の最中では到底無理なので、革命の終熄を待ち、比較的早くから交流を開始した僧侶の団体に頼み込んで幾次か同行させて貰った。

 私には宗教知識は無いが、老荘思想を摘み食いして居た御陰で、図らずも漢土の僧侶と幾許かの対応を為すことは出来た。

 更にその都度名刺交換を怠らなかった。

 その後私は漢詩詞を橋梁に、日中文化交流を為す活動を開始し、中国全土の文化人との漢詩詞に依る紐帯を為し、席を同じくした文化人の中には、嘗ての面識有る宗教家も居た。

 幾度目かは定かでないが、中國北京で行った短詩詞研究討論会の席上、中國仏教会会長趙撲初師から日本の友人に贈る事を託されたとして、交流の証として中國仏教会上梓の《妙法蓮華経観世音菩薩普門品》が、日本側代表の著者に贈られた。

 

 著者は老躬漫歩として、秩父・坂東・四国・寺社の四巻を上梓した。これらの巻は、寺社を参拝して朱印を戴く・・・・、半ば観光案内の様なものだが、其れだけでは面白くもない。

 稿を起こすに必要な情報を探っている中に、宗教に無関心な著者には、無関心な人なりの情報が集まった。

 集まった資料を、一つの趣旨の下に案配した。

 秩父巡礼では、ただ寺を廻っただけ・・・・・・・・・・・・・

 坂東巡礼では、仏教が渡来してからの変遷・・・・・・・

 四国巡礼では、仏教各派の思想を掻い摘む・・・・・・

 寺社奉拝では、神道と仏教の比較と本質・・・・・・・・・

 この四巻を通読すれば、宗教とは・・・・・信仰とは・・・・・が、客観的に、考察することが出来、而も信仰の有無に拘わらず、重厚多彩にして幽玄な日本文化の恩恵を知るであろう。

 

 

 

 下記の書冊は、中日詩詞研究討論会席上、日中友好交流の証として、中國仏教会会長趙撲初師から、文化交流団日本側代表の著者に贈られた書冊の一部である。

 

 

 

贈送結縁 嚴禁售賣

 

 仏教は印度から中国を経て日本に伝えられた。

 経文は中國で翻訳され日本に伝えられた。

 弘法大師は中國で仏教を学んだ!

 この書は中國仏教会会長、趙撲初老師の紀念集で、中國仏教会から著者に贈られた中の一冊。

 

於北京

 中國作家協会屠岸先生・中國毛沢東詩詞研究会顧問紀鵬先生・中國外交部 文化部部長劉徳有先生・中華詩詞学会会長孫轍青先生・野草詩社社長周克玉先生・前列中央中山逍雀

 

秩父三十四観音板東三十三観音漢詩四国八十八霊場七福神もとへ戻る八百万の神々仏教填詞神道キリスト教ユダヤ教イスラム教

平成22年8月30日掲載