【由緒】

第六番 向陽山卜雲寺

埼玉県秩父郡横瀬町大字横瀬1430

宗派=曹洞宗

札所本尊=聖観音

開山=行基菩薩

開創年代=不詳

 

 武甲山は秩父の象徴である。日本武尊が甲を納めたことに由来するといわれ、三峰山、両神山とともに秩父三山の一つとして信仰されている。

 山頂に熊野権現社を有する修験の山で、かつては多くの修験者が住んでいた。秩父を巡礼していると、各所で武甲山が眺められるが、荻野堂からの景観が最も素晴らしく、高台にある本堂から正面に、雄々しい姿を望むことができる。

 天明元年(1781)『武州秩父郡札所第六番荻野堂本尊並開基縁起』によると、本尊聖観音は武甲山熊野権現社に祀られていた。行基菩薩が当地に巡錫した時、武甲山に住む山姥を、熊野権現の験力で捕まえて、松の木に藤蔓でしばった。

 しかし、これを哀れんで、山から退くことを条件に解き放った。山姥は起請のために、歯を三本抜いて差し出したので、行基は本尊を刻み安置したという。この時の山姥の歯は、『荻野堂縁起絵巻』一巻とともに、寺宝として現存している。

 後に、とが池の大蛇を退散させるため、村人が祈願したところ、霊験があり、大蛇は現れなくなった。そこで、池を埋め立てて武甲山の観音を移し、草堂を建立して荻野堂と称するようになった。

 武甲山に安置された観音は、長享二年(1488)当時、山を下りて、とが池に祀られ、第三十番札所となった。江戸時代に入ると、宝暦十年(1760)に上苅米の別当寺境内に移された。

 別当の卜雲寺は、江戸時代初期に、越生郷龍隠寺の撫州春道が、地元の島田与左衛門を開基として開創した。本尊には、薬師如来を安置している。

和讃

 

 

はつあきに

かぜふきむすぶ

おぎのどう

やどかりのよに

ゆめぞさめける

御朱印

 

 

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途次

 年寄りの意固地で、来た道を戻り七番法長寺へ向かう。来るときは矢鱈と遠かったが、戻ってみるとそれ程の道程は無い。五番小川山長興寺のご住職が教えてくれた道程を納得した。思ったより早く七番法長寺近くに辿り着く!

 

 寺への入り口は狭いが、門の前には小型と中型の駐車場があり、門を潜ると端正な佇まいで、正面に荘厳な本堂、左側手前には朱印處が在る。

 門の近くに少し道幅の広いところがあり、大型バスが止まり白装束の一団がゾロゾロと出て来る。バスの中での読経が未だ終わっていなかったのか、各々がブツブツ言っている。

 いつの間にか著者は、一団に違和感なく混じって仕舞って、そのまま、道路左側の石柱を通り、真っ正面に本堂に向かう。

 本堂前で先達に倣って読経が始まった。大勢の納経に巻き込まれては大変なので、南無観世音菩薩!と一言唱えて、早々に納経處へ向かう。

 (団体の場合は、案内人が予めバスの中で納経帳を取り纏め、一括して納経所へ持ち込むので混乱は少ない。ただ数か多いのでその分時間を要す)

青苔山法長

 

 

【由緒】

第七番 青苔山法長寺

埼玉県秩父郡横瀬町大字横瀬1508

宗派=曹洞宗

札所本尊=十一面観音

開山=行基菩薩

開創年代=不詳

 

 簡素な山門を入ると、平賀源内の原図によって設計されたという本堂があり、内陣の欄間には同じく源内の原図による讃岐志度寺縁起の彫刻が掲げられている。間口十間、奥行き八間、秩父札所のなかで、最も大きな本堂である。

法長寺欄間

 別当の法長寺は、天正二十年(1592)釈迦如来を本尊として涼室寒清が開いた。牛伏観音は、現在地から横瀬川を隔てた、牛伏と通称されている地区にあったと考えられ、長享二年(1488)当時は第三十二番札所だった。天明二年(1782)に焼失して、仮に別当寺の本堂に移したが、観音堂は再建されることはなかった。

 縁起によると、行基菩薩が自刻の観音像を有縁の地に安置しようと、背負って巡錫していた。当地まで来ると、石のように重くなったため、安置して旅立って行った。

 年月を経て、数人の牧童がこの山で草を刈っていると、一頭の牛が突然現れて、伏して動かなくなった。その夜のこと、観音が現れて「これより坤の方の林のなかに庵を結び我を安ぜば、必ず罪悪の衆生を済度すべし」と告げた。翌朝、牧童たちが草のなかを探すと、十一面観音が立っていたので、草堂を造り祀ったという。

 また一説には、承平二年(932)花園左衛門の家来某が、平将門の乱で戦い、敗れて当地で没した。しかし、悪心をもって将門と戦ったため、牛に生まれ変わってしまった。それを知った妻が観音に祈願したところ、夫は苦しみから逃れることができたという。本堂の前には、縁起にもとづいて、うずくまった牛の石像がある。

 

和讃

 

 

ろくどうを

かねてめぐりて

おがむべし

またのちのよを

きくもうしぶし

 

御朱印

 

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途次

 納経帳をリュックに仕舞い、此で今日のノルマは完了と思った途端に、腹の虫が泣き出した。

 寺門を出て一丁、突き当たりを右折れし、国道までは四丁程の距離で、左側一丁ほどの處にコンビニが見える。

 お握りかサンドイッチで間に合わせようか・・・・・とも思ったが、今まで我慢したのだから、もう少し辛抱して、食堂を探そう。

 右側に折れて坂を下る。五丁ほど緩やかな坂(天狗坂)を下ると、橋(横瀬橋)のたもとにに食堂の看板が見える!

 「準備中」の下げ札の無いことを祈る。

 「営業中」だ!嬉しい!暖簾を潜り、昼食出来ますか?・・・・・・

 

 食堂の女将さんは話し好きのようだ!

 お客さんどこから来たの?

 千葉県の松戸です!

 丁度その時、店のテレビで秩父に猪が出た!と映していた。

 秩父に猪が出るんですか?

 猪だって熊だって出るよ!

 松戸には猪や熊は出ますか?

 猪や熊は居ないけど、泥棒と引ったくりは、沢山出るよ!

 そりゃは大変だねえ!・・・・・・

 猪や熊は見れば分かるけど、泥棒や引ったくりは、チョット見ただけでは分からないね・・・・・・

 

 お腹一杯になって元気が出た!駅まで差ほど遠く無さそうだから、さあ急いで帰ろう!

 店を出た途端に急な雨!急いで店に引き返し、タクシーを呼んで貰った。タクシーに乗って五分もしたら雨は上がった。

 運転手さん!秩父駅まで何キロほど有るの?四キロぐらいかなあ・・・・・・。秩父駅の物産店でお茶を買った。

 

 

【屁理屈】

 商売に厳しい友人が死んだ!心に何も残らなかった!

第四日

平成24年11月30日(金)

今にも雨が降りそうな曇天で、とても寒い

 

第八番札所 清泰山西善寺

第九番札所  明星山明智寺

第十番札所  萬松山大慈寺

第十一番札所 南石山常楽寺

 

 今回は四回目だ!一二三と大分ドジを踏んだけど、少しは学習しただろう・・・・・・・。交通の便は秩父鉄道でお花畑まで行き、西武鉄道の西武秩父駅に乗り換えて、横瀬で下車する。九番の明智寺を通り越して八番西善寺へ行く。 と謂う予定だった!

 だが予定通りには成らないのが世の常だ!

 先方の都合を確かめない予定は、予定ではない。

 寝言に過ぎない!

途次

 

 改札を通って西武秩父駅の方角に出たが、駅前にしては随分と狭い。反対側に広い駅前が有ったのかな?

 

 お花畑駅から西武秩父駅までは徒歩五分

 西武秩父駅構内?に来たら土産物店が軒を連ねる。

 土産物店に気をとられて、モタモタしていて、改札口に辿り着いたときには、電車は出てしまった。

 次の電車まで四〇分ほど有りそうだ!

 案内地図で見ると、横瀬駅まで老躬でも四十分で行けそうだ!

 次の電車を待たずに歩こう!・・・・・・・・・

 此処を年寄りの意固地と笑わないでくれ!

 若い頃は、折り合いばかりで、意固地は出来なかったから・・・・・・・・・・。この位の意固地は自分への慰めだよ!・・・・・・・

 先ずは駅構内の商店街で、昼食弁当を調達した。

 今のところに四十年も住んでいるが、秩父へ来ると多少田舎っぽさが残っていて、何となく郷愁に駆られる。

【屁理屈】生家の地には台地はあるが山はなかった。差ほどの田舎ではなかったが、生家には幼少期の整理された記憶がある。然し生家を離れた青壮老期は未だ未整理で、時折煩悩が顔を出す始末である。

 “ひと”の記憶と居所とは密接な関係があり、居を移す毎に記憶が整理される。依って郷愁と云う言葉がある。

 長年のあれこれの中、好い経験だけを拾い集め、好くない経験は徐々に捨て去って、それが郷愁だ!

第八番 清泰山西善寺途次

 市街地を通り抜け、右に西武鉄道横瀬方面の標識を見ながら、更に九番明智寺の標識を通り越して八番西善寺へ向かう。

 標識だけを頼りにして歩を進めると、案内地図とは大分違う路を歩いたような気がする。

 この辺りは起伏地で、右折れして西武線の下を潜り三丁ほど進むと視界が開け、少し先の高台には工場の屏が見える。目を近くに移せば、路の

 

 

右側には人家の屋根が見下ろせ、左側の高台に寺らしき大きな屋根が見える。

巡礼案内地図を見ると 八番 清泰山西善寺

 

 右前方には柿の畑がある。葉はすっかり落ちて、紅い柿だけが見え絵画の様だ!

 左折れして右に柿畑を見ながら、坂を登り切ったところに八番清泰山西善寺があった。

 坂を登り切ると路は右折れし、瀟洒な寺門が有る。傾斜地なので当然だが、寺の敷地は道路より一間ほど下にあり、寺門から石段を下り平坦な敷地に到り、正面には壮大な本堂がある。

清泰山西善寺 正門
門扉を潜ると下り坂

 

 其れよりも目を惹いたのは、枝下の六地蔵が祀られた本堂前の黄葉(県指定の天然記念物樹齢500〜600 コミネカエデ)の大木である。黄葉は半分ほどに成っていたが、其れでも大木と相俟って実に壮麗。

 

 

余りに美しいのでもう一枚掲載

【由緒】

 

第八番 清泰山西善寺

埼玉県秩父郡横瀬町大字横瀬598

宗派=臨済宗南禅寺派

札所本尊=十一面観音

開山=沙門高山

開創年代=不詳

 この観音は、武甲山の南の尾根続きにある持山に祀られたと推定されている。『秩父回覧記』によると、高山という回国沙門が持山に草庵を結んで修行していた。ある日、霊告を受けて山に登ると、十一面観音が石の上に立っており、高山の袖に移ったため、草庵に迎えて本尊としたという。

 『長享二年秩父観音札所番付』では、すでに別当の西善寺が第三十一番札所となっており、持山の観音がいつ西善寺に併合されたかは明らかではないが、長享二年(1488)以前であることは間違いない。禅宗寺院による札所支配の最も早い例である。西善寺の開創は正長二年(1429)、北条氏出身の竹邦昌岩の開山で、中興開基として関東管領上杉憲房の位牌が現存する。ただし、文化七年(1810)に火災にあい、古記は失われたという。

 本堂と山門の間には、コミネモミジの古木があって、県の天然記念物に指定されている。樹齢約六百年、幹回り二・九メートル、高さ九メートルあり、西善寺のシンボル的存在である。

 昔、西善寺が荒廃していたころ、どこからともなく一人の僧が現れ、この寺の詠歌を知っているかと村人に尋ねた。村の老人は、若いころの念仏唄を思い出しながら、節をつけて唄った。他の詠歌に増して素晴らしい歌だと、その僧は歓喜し、以来、寺運が向上していったという。

 西善寺には、札所本尊とともに恵心僧都の作とされる阿弥陀三尊の古像が伝わっている。これが、元の本尊といわれており、かつては浄土系寺院だったとも思われる。

 

【屁理屈】

 死ねば存在しなかった事と同じになる

和讃

 

 

ただたのめ

まことのときは

せいざんじ

きたりむかえん

みだのさんぞん

 

御朱印

 

 

 

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09への途次

途次

 道路標識任06せで、どの路を通ったか定かでないが、第八番清泰山西善寺から秩父駅方向には、第九番明星山明智寺、第十番萬松山大慈寺第十一番南石山常楽寺がある。

 そう言えば未だ昼飯前である。

 時計を見るのは止そう・・・・急に腹が減るから。

西善寺門前左側に寺の駐車場とトイレがある。二丁ほど先の手打蕎麦看板もある。今にも雨が降りそうな曇り空で、丘の頂上なので風が強い、而も風が寒い!

 蕎麦屋に行きたい・・・・・・

 若い頃を思い起こした・・・・・・

 空きっ腹に、冷めた白湯と梅干し握りを食って居た頃の事を思い起こした。

 ぬるま湯に浸かった昨今・・・・

 寝惚けた精神と身体を、眠りから醒ます良い機会だ!

 トイレ前のベンチで、冷えた握り飯を食べた!

 実に美味い・・・・・

 寒風での冷たいお茶も好いものだ!

 丘の頂上なので、見晴らしがよい。

明智寺途次

 

 

 

 何処をとう歩いたか定かでない。ただ道路標識の儘に歩を進めるだけだ。工場脇の川端に出てしまった。

 

 路を間違えたらしいので通行人に聞いたら、自動車道に出るように案内された。

 

 写真でも判るように、起伏の多い土地で有ることが一目瞭然だ!

 水路は鋼矢板で護岸され、見た目は綺麗だが落ちると這い上がれない!    落ちたら死ぬぞ!

 訳もなく方角を頼りに歩を進めた。

 

 

 秩父は銘仙が有名で、少し堅めの絹織物と聞いていた。“(有)大野絹織”の看板が目に止まった。織物工場かと思い敷地内に入ってみたが工場ではなさそうだった。秩父銘仙館と謂う展示場が有るそうなので後で行って見よう。

 

 またまた気儘に歩いていたら、路に迷った!

 地元の“ひと”らしき人に第九番明星山明智寺を聞いたら、「橋を渡って坂を登って、路なりに行くと九番寺に出ますよ!」

 橋を渡って坂を登って社宅の脇を通り、突き当たりを右に折れ工場の脇を通り過ぎると、幹線道の四つ角に出た。

 

 第九番明星山明智寺は、右角に桜の古木がある十字路の先右角に有った。

 

第九番 明星山明智寺景観

 

 

 桜の木の有る道の角から入ると、右側に六角観音堂、その隣に朱印處、その隣に本堂がある。

 

 

【屁理屈】モタモタと歩いていると彼方此方に目が行く。破産した家がある。何故破産したのか?事業の失敗もあるだろう・・・・・投機も有るだろう。

 一番の原因は自分の能力を知らぬ事による。

 自分の能力を過大評価するから、引き返す時期を失するのだ!

 引き返せる能力、此が一番肝心な能力だ!

 

【由緒】

第九番 明星山明智寺

埼玉県秩父郡横瀬町大字横瀬2160

宗派=臨済宗南禅寺派

札所本尊=如意輪観音

開山=明智禅師

開創年代=建久二年(1191)

 道路に面した、明るく開放的な境内が、庶民の寺という印象を与えている。明治十六年(1883)に焼失して、長らく民家風の仮堂だったが、近年、六角の観音堂が建立された。堂の前には、室町時代のものと思われる、小さな青石板碑が三基立っている。別当は第五番と同じ長興寺だが、実際は地区で管理されている。

 長享二年(1488)当時は、第二十九番札所だった。『長享二年秩父観音札所番付』には、正観音と記したのを縦二本線で消し、異なる筆跡で如意輪と書き改めている。早い時期に、札所本尊の尊格が変更されたものと考えられる。

 行基菩薩作の如意輪観音を、明智禅師が建久二年(1191)に移入。この地に堂宇を建立したといわれる。

 当寺に伝わる明和五年(1768)写『明智寺略縁起写』には、別の縁起が記されている。寛弘年間(1004〜12)一条天皇の皇后が難産の時、主神殿に恵心僧都作の尊像を安置して祈ると、男子が難なく生まれた。その後、女人難産の苦を救うとのお告げがあって、尊像が飛び去ってしまう。勅命を受けた橘金藤が探していると、明るい星の導きにより、当地で見つけることができた。これによって、明星山という山号になった。

 以来、安産祈願の寺として知られるようになり、現在も堂内には多くの千羽鶴が奉納されている。

 

和讃

 

 

めぐりきて

そのなをきけば

あけちでら

こころのつきは

くもらざるらん

 

御朱印

 

 

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10への途次

第十番萬松山大慈寺途次

 九番明智寺から幹線道路を秩父駅方向に進む。四方が山に囲まれているのだろうか?どちらを望んでも遠くに山影が映る。紅葉真っ盛りだが惜しいかな今日は曇天。

 

 道路脇の藪から、壊れた塔の擬宝珠が枯れ草から頭を出している。更に目を遣ると、近くに台座や本体が散在する。

 所詮は興味を持たれれば祀られ、興味がなければ棄てられる。此が人の世の常であり現実だ!

 

 橋を渡り幹線道路右側に、秩父郡横瀬町立横瀬小学校が有る。道路に面した校庭敷地内に薬師堂が有る。

 

 幹線道路を進むと校庭に沿って小学校正門に到る丁字路が有る。

 第十番萬松山大慈寺の近くで気付いた訳だが、この路を行けば松山大慈寺へは近道だった。

 

 幹線道路を更に進み

十字路を右折れする。

 右折れして更に進み

巡礼案内板に出会う。

 

 

 巡礼案内表示に従って右折れする。

 

 

 

 此で丁度小学校の處からコの字に進んできたことになる。

 写真正面住宅の辺りに、丁字路が有り、右折横瀬小学校と書いてある。

 

 更に進むと第十番萬松山大慈寺正門に到る。

 石段上に仁王門が窺える。

第十番 萬松山大慈寺

 

 

 

 新築ではないが、洗浄してから塗装処理が施され、細かなところまで補修が為されている。

 

 

 本堂正面は近年の建立と聞く。

 

【由緒】

 第十番 萬松山大慈寺

埼玉県秩父郡横瀬町大字横瀬5151

宗派=曹洞宗

札所本尊=聖観音

開山=恵心僧都

開創年代=不詳

 長享二年(1488)当時は第二十七番札所で、すでに大慈寺と呼ばれていた。別当の大慈寺は、大宮郷の広見寺の二世東雄朔方が明応二年(1493)に再興したとされるが、禅宗寺院としての改宗再興を意味していると思われる。

 『秩父回覧記』によると、昔、当地の山に光を放つ不思議な杉の霊木があった。近くに住む朝日長者は、この霊木を伐採して、観音の尊像とすることを願っていたが、なかなか仏師が見つからなかった。そのころ東国を巡錫していた恵心僧都が当地を訪れ、長者に請われて観音像を彫刻。長者が堂宇を建立したとされる。

 現在地より右手山頂の近くが、観音堂の旧地といわれており、『新編武蔵風土記稿』に記す「奥院」に相当すると思われる。観音菩薩、阿弥陀如来、地蔵菩薩、不動明王などが安置されていたというが、現在は小さな祠のみが残る。札所本尊の現在地への移転の年代については不明である。

 寺の入口には、「補陀所第十番萬松山大慈寺」と台座に刻まれた、大きな石の延命地蔵がある。このあたりから仰ぎ見ると、急な石段の上に、どっしりとした仁王門を望むことができる。本堂のなかには、本尊の他に、正徳四年(1714)の地蔵菩薩や、安政六年(1859)の金銅製子育観音などが安置されている。また、境内には、梅から竹から生えた、珍しい木がある。

(古木の空に筍が入れ込み、成長すると竹が生えたように見える)

         和讃

 

 

ひたすらに

たのみをかけよ

だいじでら

むつのちまたの

くにかはるべし

 

御朱印

 

 

 

 

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【虐げられた者へ温い眼差し】

 金子みすゞの詩のなかでいちばん好きな詩は?と問われて多くの人があげるのは、この『大漁』(1924年発表)である。朝の浜辺はあたり一面、網で揚げられたいわしの山で、「大漁だ、大漁だ」とお祭りのような騒ぎ。人人の喜びと活気あふれる漁村風景である。だが、みすゞの目はそこから一転、海のなかのいわしたちの葬式に光を当てている。

 現存する彼女の詩・512編をとおして読んで気づくことだが、こうした弱いもの、虐げられたもの、貧しいものにたいする彼女のいたわり、あたたかい眼差しは終始一貫したもので、読むものの心がそのように動くところに共感がある。然もそれは、強いもの、きらびやかなもの、表面的なものとの対比、矛盾として弱いもののもつ営みを描き出しており、そうすることで「日ごろ気づかなかったことにハッと気づかされる」のである。

    朝焼小焼だ

    大漁だ

    大羽鰮の

    大漁だ。

 

    浜は祭りの

    ようだけど

    海のなかでは

    何萬の

    鰮のとむらい

    するだろう。

注;編輯の都合で紙面を追加しました。

常楽寺途次

 十番札所大慈寺を出て坂永の交差点まで戻ると、十字路前方に羊山公園がある。右折れして約五丁、第十一番常楽寺へ向かう。

 

 

 秩父駅の方角は緩やかな下り坂で、道の右側は琴平神社や稲荷神社が祀られる小高い丘で、五丁ほど下ると右側に案内板がある。

 

  まだ十一番か! そろそろ嫌気も差してきたなあ・・・

 

 案内板に従って右に折れ、緩やかな坂を上ると、左手三尺ほど下に墓地と駐車場、右手の高台に寺が樹木の間に見える。

 

(今にも降り出しそうな空模様)

 先ず駐車場脇の細い登り路に入ると、右端に道を半分遮る形で石の鳥居がある。鳥居の先は二手に分かれ、左側は常楽寺へ、右側は急な石段と成って、奥には上之臺琴平神社が有ると聞く。

 常楽寺側の路を半丁ほど登ると、路の右側に分かれ路が現れ、紅い鳥居が所狭しと続く。紅い鳥居の奥は深く、その先には上之臺稲荷神社があると聞く。

 路をそのまま登ると、路の左側には寺の墓地が有る。常楽寺本堂は路の右側に有り、朱印處もその脇にある。

 路の突き当たりにはコンクリートの建物があり、建物右手脇には狭い路があり、路は途中で途切れるがその先に祠があるそうだ。

 

【屁理屈】自分に情がないと、相手の情も離れる

 

 

 鳥居の先、路は二手に分かれ、左側は常楽寺へ、右側は上之臺琴平神社へ

 

 

 常楽寺への路を進むと、右に紅い鳥居を設えた上之臺稲荷神社への路が現れる。

 常楽寺前面

 

 常楽寺本堂は路の右側にある

 南無観世音大菩薩

 南無観世音大菩薩

 南無観世音大菩薩

 

 

秩父三十四観音板東三十三観音四国八十八霊場七福神先頭へ戻る八百万の神々仏教神道キリスト教ユダヤ教イスラム教

常楽寺続き

秩父観音霊家道徳場巡礼板東観音巡礼四国霊場巡礼神社参拝人生社会国