【由緒】

第十一番 南石山常楽寺

埼玉県秩父市熊木町43−28

宗派=曹洞宗

札所本尊=十一面観音

開山=行基菩薩

開創年代=不詳

 

 縁起によると、行基菩薩が関東巡錫の折、当地の巌上に十一面観音を感得。その姿を刻んで壇を設け、安置したという。また、『秩父回覧記』によると、天照大神・春日明神・八幡大菩薩・妙見大菩薩・蔵王権現と名乗る五人の老翁が守護していたクスノキで、行基菩薩が十一面観音を刻んだとされている。

 『新編武蔵風土記稿』には、「彼の影向の巌、今現に当山の頂にあり」と記されている。しかし現在では、セメント工場の採掘などにより、地形が変化したため、影向の巌を確認することはできない。現在の境内は、秩父市を一望できる中腹に位置している。

 札所本尊について、『長享二年秩父観音札所番付』には正観音と記されており、いずれかの時代に尊格が変更されたものと考えられる。また、長享二年(1488)当時は、第二十八番札所であり、第二十七番大慈寺から尾根づたいに巡礼して、第二十九番明地に向かうのに合理的なので、現在地とほぼ変わらない位置に祀られていたのだろう。

 永禄十二年(1569)武田勢侵入の時に火を掛けられ、近くは明治十一年(1878)の秩父大火で焼失。その間には、観音堂が大破したため、享保四年(1719)に江戸湯島天神へ出開帳した記録が、『松本家御用日記』にある。

 別当の常楽寺は、開山を実門とするが、開創年代は不明。大宮町の裏にあったが、元文年間(1736〜41)に火災にあい、観音堂の場所に移転した。江戸時代末までは、唯一の天台宗の札所であり、その名残として元三大師が安置されている。明治初年に廃寺となり、曹洞宗に改宗復興した。

 

【屁理屈】凭りかかっていると、支えが外れると倒れる。

 

和讃

 

 

つみとがも

きえよといのる

さかごほり

あさひはささで

ゆうひかがやく

 

御朱印

 

 

帰途に就く

 寺の入り口案内板の處で、秩父鉄道への帰り道を聞いたら、此処を少し戻って幹線道路を横切り、商店街の中を通ってゆくと、お花畑駅に行かれますよ!・・・・・・この前の幹線道路をそのまま下ってゆくと、秩父鉄道踏切に出ます。踏切を渡ったら右に折れれば秩父鉄道秩父駅の駅前に出ます。

 年寄りの足でも三十分は掛からないでしょう!・・・・・・

 

 幹線道路沿いに秩父駅に向かうことにした。

 チョット脇道に入ったら珍しい店があった。

 店に入って尋ねたら、幟旗を作って居ると謂う。

 

 

 幹線道路には商店もそこそこ有って、スーパーも有ったが何処も寂しそう!

 

 何処でも殆ど同じだが、シャッター店が多い!

 

 

 秩父鉄道の踏切を渡り右折れして、秩父駅に到着した。駅の脇には荘厳な秩父神社がある。

 駅前では秩父夜祭りの準備が始まっていた。

 

【屁理屈】電車が来るまで三十分の時間待ち。寒いので秩父物産販売店で、おつまみを買って店内のベンチに腰を下ろす。

 妻に耳が悪いと叱られているのに、耳の感度か物凄く良くなった。

 隣の親爺二人が、不景気の時でも株で儲ける方法がある!儲けた話をしていた。 著者はダンボの耳!

 お金は数字でばかり扱っていると、ゲーム感覚に成って仕舞う。そんなにお金があってどうする気だ!

 

 

【屁理屈】悩む!何故悩むんですか? 思い通りなら悩むことはないでしょう!其れなら目標点を現実に合わせれば、目標と現実は同じになります。悩みはすっかり霽れました。

 

【屁理屈】北朝鮮の悲惨さは、爺さん婆さんが其の種を蒔いた。

 

 

 実を謂うと巡拝を開始した当初は、電車で秩父に来るのは初めてで、更に案内地図を頼りに徒歩で札所を訪ねるのも、ただ霧中漠然と順番を追っていた。

 案内地図を見て全体像は把握している積もりだが、身体は全体像を掴んで居なかった。だが四回来たので、漸く全体像を躯が覚えてきた。再度地図を見て、バラバラに存在すると感じていた寺院が、実は狭い範囲に纏まって存在していることが解った。

 

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第五日

平成24年12月19日(水)

午前中は曇り、午後は快晴、とても寒い

第十二番札所 佛道山野坂寺

第十三番札所 旗下山慈眼寺

第十四番札所 長岳山正覺院金剛寺今宮坊

第十五番札所 母巣山少林寺

途次

 年末にもう一度と思っていたが、仕事に疎い老生でも年末には其れなりに用事がある。冬だから寒いのは当然だが、熊谷に来るまでは曇天で、雨具の用意は必定と謂う状況。

 秩父鉄道の車窓からは青空が見え始め、お花畑駅に着いたときには、雲一つ無い寒空だった。

 日暮れが早いので早く帰途に就きたい。十二時半頃にお花畑駅到着なので、駅前の食堂で昼食を執ることは出来る。

 食堂に入ると一時間弱は潰れて仕舞うので、何処かのベンチで食うことにして、お握りと茶と肉まんを買って、空腹なので肉まんはその場で食った。

 先ずは十二番 佛道山野坂寺へ。

 秩父鉄道の踏切を渡り二丁ほどで秩父市役所前に出る。庁舎前の案内図を頼りに国道に出る。

駅を出た!

 だいぶ通ったようだが未だ五日目か・・・・・

 駅前ひろばで、案内図を確認する

 さしたる信仰心も無く歩き回るのも、結構疲れるものだ!

 

 

 

 右折れして国道140号にでて5丁ほどで秩父鉄道の高架が見える。高架の手前を左折れして南小学校方面へ向かう。

 

幅員三間道路の左側に小学校がある。小学校まで三丁ほどで、校庭の向こうの方で体育館の建設工事をしていた。その先は突き当たりの丁字路で、丁字路右手に西武鉄道の高架が見える。

 

【屁理屈】破産した家は時折見掛ける。財物を維持するには、維持できる知識と人格が必要です。両者が整わないと、財物は離れてゆきます。

 

 

 

 

高架の下を潜ると左側に寺の駐車場があり、並木風の参道が見える。

 

佛道山野坂寺前景

 

 

 

 

 山を背にした本堂

 本堂背面の両側に墓地がある

 

 棕櫚の葉で霜よけをしている!

 こんな光景には、却って興味を惹く

 

 

 

 棕櫚の葉を用いた珍しい(秩父では珍しいとは限らない)霜除けを見たので、写真に収めた。寺に続いて公園があり、公園脇にグリンピースの畑があった。

 公園は吹きさらし、ベンチで寒風に曝さらされながら握り飯を食う。冷えた茶を呑む!

 

【由緒】

 第十二番 佛道山野坂寺

埼玉県秩父市野坂町2−12−25

宗派=臨済宗南禅寺派

札所本尊=聖観音

開基=甲斐の商人

開創年代=不詳

 

 桜並木の参道の正面に、享保年間(1716〜35)建立の楼門がある。左右の花頭窓をのぞくと、なかに十王像が祀られており、楼上には薬師如来を安置している。

 境内裏山の中腹、武甲山が大宮郷に向かって張り出したところに、かつて観音堂があったと伝えられる狭い平地があり、現在は地蔵石仏が祀ってある。武甲山頂に通じる小径も確認でき、延享元年(1744)に沙門円宗が刊行した『秩父独案内記』には、「山手なり、奥の院は後の山にあり、武甲山への道あり」と記されている。

 最初、修験者によって祭祀されたものと推定され、長享二年(1488)当時は第五番札所だった。後に、啓室達(1682年寂)が創建した別当の野坂寺が、寛保元年(1741)現在地に移転して、観音堂を併合している。

 昔、山中で賊に襲われた甲斐の商人が、観音の霊験によって救われ、賊も改心した。そして、賊と協力して堂宇を建立し、商人が本国から持ってきた聖徳太子作の聖観音像を安置したという。

 また、『秩父回覧記』によると、行基菩薩が荒川のあたりで読経していたところ、物部守屋追討の時、聖徳太子が一刀三礼して刻んだ聖観音が出現し行基のたもとに飛び移ったとされる。

 子安観音として古くから信仰されている札所本尊だが、像容から判断すると、本来は吉祥天として制作されたものと思われる。藤原時代の作となる古像であり、室町時代には聖徳太子作の観音像として、信仰されていたのだろう。

 

和讃

 

 

おひのみに

くるしきものは

のさかでら

いまおもひしれ

のちのよのみち

御朱印

 

 

 

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往途

 十三番 旗下山慈眼寺は秩父鉄道お花畑駅の近くで、而も鉄道を夾んで佛道山野坂寺の反対側にあるので、取り敢えずお花畑駅まで戻った。

旗下山慈眼寺門前

 人の感覚というのは不思議で、来るときよりも帰るときの方が、ずっと短く感じられる。駅から二丁ほどに幼稚園があり寺門がある。

 幼稚園は左側にある。

 門を潜ると正面に本堂がある。

 寺院では少なからず護符の頒布が行われている。途次幾体かの護符頒布を受けた。この寺は慈眼寺と謂い眼の仏様のようだ。

 観光地に行くと「目薬の木」はマッチ棒程の木切れにされ、袋詰めにされて売られている。ところがこの寺では、護摩粒ほどの大きさに刻まれ、袋詰めにされて売られていた。

 而も奥さんが急須で注いで呉れ、寺名と相俟って霊験がありそうだ!早速買い求め、毎朝茶に一摘み加えて楽しんでいる。

 

 寺門を出て辺りを見回し遠くに目を遣ると、秩父は山に囲まれているようだ。前方の山に、見慣れぬ風景が有る。写真が下手で鮮明ではないが、涎を流したような幾筋かが見える。何れ日を改めて確認してみよう。

 

【由緒】

 第十三番 旗下山慈眼寺

埼玉県秩父市東町26−7

宗派=曹洞宗

札所本尊=聖観音

開山=不詳

開創年代=不詳

 市街地の中心部にあり、多くの参拝者で賑わっている。明治十一年(1878)の秩父大火で焼失したため、本堂および本尊とも、それ以降のものである。土蔵造りの経蔵のみが江戸時代の建築で、黄檗版一切経を伝える。また、蔵のなかには、秩父巡礼開創者とされる十三権者像が祀られている。近年の彩色が施されているが、現在では唯一札所に残るものとして、貴重な存在である。

 経蔵の左には薬師堂があり、阿眼薬師、飴薬師、雨薬師などと呼ばれている。阿吽の阿は開くという意味があり、眼を開くというところから眼病平癒に霊験があるとされ、縁日には「め」と書いた絵馬を奉納する。特に七月八日の縁日は盛大で、ぶっかき飴を売る露店が境内に並ぶ。また、薬師の縁日前後には、かならず雨が降るという。

 伝説では、日本武尊が東国征伐の折、この地に旗を立てたところから「旗の下」と呼ばれるようになり、後に転じて「はけの下」になったとされる。

 しかし、近年の研究では、この地は段丘地の落ち込んだ低地に位置しており、崖の下からはけの下となって、さらに日本武尊の伝説が生じて、旗の下になったと考えられている。『長享二年秩父観音札所番付』には壇之下と記されており、第四番札所だった。

 別当の慈眼寺は、高野某を開基として、文明十八年(1486)東雄朔方が、現在地にあった旧寺院を曹洞宗に改宗再興したものである。やがて近くにあったはけの下観音の管理権を手に入れ、寛文年間(1661〜73)に境内に引き込んだ。現在の慈眼寺墓地が、はけの下観音の旧地とされている。

 

和讃

 

 

みてにもつ

はちすのははき

のこりなく

うきよのちりを

はけのしたでら

御朱印

 

 

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往途

 慈眼寺の門を出て右へ四丁ほど行くと、信号の二つ目に押しボタン信号がある。

 

 

 信号機の近くに案内標識があり、どうやら通学路のようだ!

 

 

石仏

 

 民家の塀の上に福神が祀られている

【屁理屈】どんなものにでも、それぞれに活用できる要素はある。其れを見いだすのは、その人の心である。此を見て石にも魂があるという。

今宮今宮坊全景

 

通学路を1丁ほど進むと寺の全容が窺える。

 

  堂守さんかご住職さんか分からぬが「ご自由にお持ち下さい!」と、大きな花梨が篭一杯に入れてあった。
 早速に俗念が頭をもたげ、ポケットに一個頂く!大きすぎて2個は入りません!

 そのまま進むと寺の前面にいたり、正面に本堂、右手に地域の集会所、左手に太子堂がある。朱印處は道を隔てた右手にある。

 

【屁理屈】草取りをして、愛おしく華を育てている人が居る。

 門前や花壇や垣根に!私も命がある。貴方も命がある。飼い猫も牛も命がある。花壇の花も命がある。野辺の草にも命がある。

 生命がある点に於いて、私も野辺の草も牛も豚も鶏も同じだ!何故に私達は生殺与奪恣にするのか?

【屁理屈】口では慈善家に成るが、現実に身銭を使う人は少ない!

 無駄金を止めれば、お金は相当あるはずだ!先ずは煙草と酒

 筆者には女性のことは分かりません!

 

【由緒】

 第十四番 長岳山正覺院金剛寺今宮坊

埼玉県秩父市中町25−12

宗派=臨済宗

札所本尊=聖観音

開山=弘法大師

開創年代=不詳

 飾り気のない本堂が、町のなかに溶け込んだように、ひっそりとたたずんでいる。その風景からは、かつての栄華を想像することは困難である。永観二年(984)示寂とされる長岳を開山とし、江戸時代には聖護院直末の本山派修験で、秩父内だけでも十か所の配下を持つ修験道の拠点だった。観音堂は八大権現社(今宮神社)の社地内に祀られ、今宮坊が双方の別当を兼任していた。しかし、明治の神仏分離および修験道禁止によって分断され、現在では神社と観音堂の間に多くの民家が建っている。

 縁起によると、弘法大師が当地に巡錫した時、役行者の随身という童子が現れ、かたわらの榧の木をもって観音像とするよう告げた。大師は、一刀三礼して聖観音を刻み、堂宇を建立したといわれる。

 第三番札所となっていた『長享二年秩父観音札所番付』では、札所本尊は十一面と記されている。縁起から推測して、当初は真言系修験だったと考えられ、文明十八年(1486)聖護院門跡道興准后の関東巡歴に影響されて本山派に転じたもので、これに関連して本尊も変更されたと思われる。

 札所本尊の聖観音について、江戸時代の資料には、長七寸一分の雲中出現の像とある。現行像は、一尺九寸の半跏像で、江戸時代初期の作とされる。また、観音堂には、藤原時代の作となる蓮茎を持つ飛天像が伝わっており、これが聖観音として祀られた札所本尊であり、その姿から雲中出現と称した可能性がある。像高も一尺で、江戸時代の記録と大きな隔たりがない。

 

和讃

 

 

 むかしより

 たつともしらぬ

 いまみやに

 まいるこころは

 じょうどなるらん

 

御朱印

 

 

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今宮神社

 朱印處前の道を路地一本進むと、そのまま今宮神社境内に到る。【由緒】書きに記す通り、嘗て神社と寺院は同一施設だったので、歳月を経て敷地内に民家が建ち並んでも、自ずと近くにある。

 

 

十五番途次

 次に行く第十五番母巣山少林寺は、秩父鉄道を横切った向こう側と記憶していたので、先ずは今宮神社の境内を通り抜け、秩父鉄道を横切る積もりで、程々に道を選んで鐵路を横切った。

 鉄路を横切り半丁ほどに幅員2間半ほどの道路が有ったので、左折れして秩父駅方面に向かった。

第十五番 母巣山少林寺

 

 二丁ほど前方に墓地と寺の建物が見えた。

 

 その先に駐車場と寺への案内がある。此処は裏口だったようで、左へ左へと回り込み、寺の正面側に出る。

 

 庫裏の前を通り本堂正面に出る。

 

【屁理屈】他人様に謂うつもりもないが、因果応報は有ると思う。今まで車の下敷きになり、病気になり、経済不遇にも遭遇し、何しろ沢山の災難に遭遇したが、かすり傷程度の被害で難を逃れた。

 私も祖父母も父母も、妻も子も孫にも互に関連して、それぞれの生き様が因果応報に拘わり有ると内心思っている。

 祖父母の生き様が私に好運を齎らして呉れたのか?或いは孫の生き様が、爺を災禍から救ってくれたのか?・・・・・・・

 ただ夫婦揃って籤運は悪い!テッシュ以外に引き当てたことがない。

 

 小林寺への道順は、秩父駅から鉄路を横切らずに、お花畑駅に向かって鉄道線路脇の道路を進むと、寺の正門前に踏切がある。

 踏切から見上げる高さに本堂がある。踏切を渡ると道路があり、道路に接して正門があり、階段を上ると本堂がある。

 

【由緒】

 第十五番 母巣山蔵福寺(廃寺)

 第十五番 母巣山少林寺

埼玉県秩父市番場町7−9

宗派=臨済宗建長寺派

札所本尊=十一面観音

開基=近江国堅田の商人

開創年代=不詳

 延喜式内の古社である秩父神社は、中世以降、妙見大菩薩を主祭神として、秩父の鎮守となった。秩父巡礼の開創者とされる十三権者にも含まれており、その神宮寺的存在である蔵福寺が、『長享二年秩父観音札所番付』において、打ち始めてすぐの第二番札所としているのには、鎮守社参拝を巡礼に取り入れようとする意図が感じられる。

 縁起によると、近江国堅田の商人が、疫病神防除のため、定朝作の十一面観音像を背負ってきた。すると、当地で重くなったので、堂宇を建立して安置したという。

 別当の蔵福寺は、同じ大宮郷の広見寺の二世東雄朔方(1493年寂)が開山。長享二年(1488)当時から蔵福寺が札所となっており、早い時期から観音堂を支配していたと考えられる。

 「大宮郷古地図」によると、柞の森といわれた妙見社の社地内、鳥居前右の方にあり、手前に本堂、石段の上に観音堂があった。本堂には、本尊の阿弥陀如来のほか、真向弥陀、来迎弥陀、西方弥陀各一幅を寺宝としており、浄土信仰の色彩が濃い。あるいは、曹洞宗以前に、浄土系寺院があったとも考えられる。

 蔵福寺は、明治の神仏分離によって廃寺となり、復興されることはなかった。札所本尊の十一面観音像は、小鹿野町の十輪寺に譲渡され、現存している。

 なお、現在の第十五番少林寺は、蔵福寺廃寺の後、欠番を補充するため、新たに札所とされた寺院である。明治の末に建立された本堂は、総体を漆喰で込め、洋風が加味された建築である。

 

【屁理屈】独りで寺院巡礼をすると、俗世を離れた擬似体験が出来る。

    複数で寺院巡礼をすると、俗世を離れられない。

 

 

和讃

 

 

みどりごの

ははそのもりの

ぞうふくじ

ちちもろともに

ちかいもらすな

 

御朱印

 

 

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秩父神社

 【由緒】書きにも記載有るとおり、少林寺は秩父神社と拘わりがあるので、秩父神社も載せることとした。

 秩父神社の創建は、平安初期の典籍『先代旧事紀−国造本紀−』によれば、第十代崇神天皇の御代に知知夫国の初代国造に任命された八意思兼命の十世の子孫である知知夫彦命が、祖神をお祀りしたことに始まるとされ、武蔵国成立以前より栄えた知知夫国の総鎮守として現在に至っている。

 元慶2年(878年)には神階正四位下に進み、延長5年(927年)に編算された『延喜式』にも掲載されるなど、関東でも屈指の古社のひとつに数えられている。また、中世以降は関東武士団の源流、平良文を祖とする秩父平氏が奉じる妙見信仰と習合し、長く秩父妙見宮として隆盛を極めたが、明治の神仏判然令により秩父神社の旧社名に復した。

 現存するご社殿は、天正20年(1592年)に徳川家康公が寄進したもので、江戸時代初期の建築様式をよく留めていることなどから、埼玉県の有形文化財に指定されている。また、毎年12月3日に行われる例祭は、「秩父夜祭」として国の重要無形民俗文化財に指定され、京都の祇園祭、飛騨高山祭と共に日本三大曳山祭のひとつに数えられている。

 

【屁理屈】寺参りをしていると、偶々遭遇した巡拝の他人の話を聴く

解らぬ事がある

 何故かと、仏教に詳しい友人に尋ねた。

 色々教えてくれたが、此がまた難しくてサッパリ解らない。

 ただ身の危険は無さそうだ!・・・・・・

 

 

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第十六番 無量山 西光寺へ