第1章 概説

 

 宗教心に疎かろうが篤かろうが、霊場巡拝を為すと謂う行為は、抑も宗教活動の一端と見られても仕方がない。

 著者は「信仰」と謂う言葉の字義すら知らない凡夫だが、巡礼記と銘打つ以上、上辺だけでも繕う必要があろうと、幾つかの項目を拾い出して簡単な解説を為した。

 物事には「虚(眼には見えない心の事柄)」と「実(心には関わりない耳目で認識できる事柄)」があり、宗教の本質とか信仰は「虚」である。以下の記述は総て「実」で、「虚」の記述では無い。

 

 

 

1−一神教

 一神教とは、一柱の神だけを信仰する宗教で、次のように大別される。

1−1 唯一神教(monotheism)

   世界に神は一つであるとして、その神を礼拝する宗教で、   ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などがる。

1−2 拝一神教(monolatry)

   複数の神を認めるが、一つの神だけを礼拝する宗教で、古  代イスラエル民族の宗教などがあり、一神崇拝ともいう。

1−3 単一神教(henotheism)

   複数の神を崇拝するが、その中でも特定の一神を主神とし  て崇拝する宗教で、古代インドのヴェーダの宗教などがある。

1−4 交替神教(Kathenotheism)

   他の神々の存在を認めるが、崇拝する神が交替する宗教で、  バラモン教などがある。

   なお狭義には唯一神教を指すことが多い。

【補解】

 上記の古代イスラエル民族の宗教とユダヤ教とは、宗教としては連続していて、当然崇拝する神は同じ神で、神の固有名もヤハウェの儘である。これは旧約聖書として集成・記述されている。

 このため、唯一神教の中に拝一神教の記述があり、更に後代の文書でも其の考えのものもあり、他宗教との共生の課題から、近年キリスト教の中から拝一神教の神理解を見直す動きもある。

 唯一神教に於いては他の宗教の神々の解釈が問題になり、一つの対応は、そのような神々は人間が想像したもので、実際には存在せず、何の意味も持たないというものである。

 もう一つは、神的な存在はあり、人間よりも力がある不死の存在だが、人間と同様に心や力に限界を持つというものである。そういう存在は、自らを神と称して人々に崇拝を強いることで、重大な罪を犯していると説明される。

 最後に神の絶対性と自宗教の絶対性を区別し、宗教多元主義への道を開く思想である。この場合他宗教と自宗教は、共に一つの神を信奉しており、違いは単なる伝統に過ぎない事となる。

 またこの場合の“一つ”とは比喩的に解釈されるため、多神教と一神教の区分も、神という存在に対する観点の違いで、必ずしも相互に理解不可能ではないという思想が生まれる。

(神は一つでもあり、多数でもある。)

 神は一つであるとする唯一神教でも、実際には様々な超存在を認めていることが多く、キリスト教では、天使や聖人など、イスラム教でも天使やジンなどが信仰の対象となり、絶対神よりは格下に位置付けられているものの、人々に御利益をもたらす存在として認知され、多神教における神と同様の機能を負っていることがある。

 キリスト教が在来の宗教と習合し、表面上はキリスト教神学に従っていても、実態は多神教であるという事例が多く見られる。

 新興宗教を除けば、現在確認されている限りにおいて、唯一神教はアメンホテプ4世による古代エジプトのアトン信仰(世界最古の唯一神教とされる)とユダヤ教だけで、現在はユダヤ教と、それから派生したキリスト教、それから大きく影響を受けたイスラム教に引き継がれている。

 そのため、エジプトのアトン信仰をユダヤ教の起源とする説もあり、ゾロアスター教は経典アヴェスターなどの研究から、実態は必ずしも一神教でないことがわかっている。

 また、キリスト教でも、実際には神だけでなく、聖母や天使、聖人なども事実上の信仰の対象となっており、多神教的な側面がある。

【補解】

 こうした自分の信仰を絶対的なものとする考えは、なにも一神教の世界だけのことではない。すっかり宗教に疎くなっている我々日本人は、嘗て日本国内にあった宗教戦争を殆ど忘れている。

 少なくとも戦国時代以前の日本人は、現在の日本人と比べて、宗教に関しては別の人種と思われるほど宗教的だった。

 平安時代から戦国時代にかけての寺院は、現在考えられるような平和的宗教団体ではなく、僧兵という言葉があるように、武装した僧侶(軍隊)と言った方が正確である。

 その軍事力はどこに向けられたかといえば、対立する宗派を攻め滅ぼすためであり、自分たちの権利を既得権として主張するためのものであった。発祥当時は無欲温寧であったかも知れぬ宗教が、歳月が経過し、多くの人が関わるようになると、世上の欲を兼ね備え、就中発祥当時と同じとは限らない存在となる。

 その宗教団体の強大さは、例えば比叡山は白河法皇をして・・・

 “賀茂川の水、双六の賽、山法師(比叡山のこと)。これぞ朕が心にままならぬもの”

と言わせるほどであった。

 日本における代表的な宗教戦争は浄土宗と法華宗の対立で、特に嘗ての法華宗は日本では最も過激な宗教であった。簡単に言えば浄土宗のご本尊は阿弥陀如来、これに対し法華宗のそれは釈迦如来。それぞれ思想、教えが違っている。

 1531年、対立する一向一揆衆(浄土宗)が入洛する噂が広がると、法華宗徒は管領の細川晴元と組んでこれを防ぎ、逆に山科本願寺(浄土宗)を焼き討ちした。

 京都にあった本願寺が、摂津の石山に移転するのはこの時のことで、その5年後に起きたのが、応仁の乱の惨禍を上回る天文法華の乱である。

 これは1536年比叡山(天台宗)と南近江の六角氏等が組み、京都市内の21の法華宗本山を焼き討ちした戦争のことである。

 1536年2月、比叡山西塔の華王房が法華宗徒の松本久吉と宗論(宗教上の論争)して破れると、比叡山は法華撃滅を決議し、これが比叡山と法華宗との大規模な戦闘に発展していった。

 法華宗徒は、5月以降京都市内の要所に溝を掘り、戦いに備えていたが、比叡山側は六角氏や近国の大寺院を味方につけ、7月22日早朝、松ヶ崎城を襲撃した。

 続いて六角定頼以下近江の軍勢が、三条口・四条口から京都市内に乱入し、27日までの戦闘で、下京区全域と上京区三分の一が消失し、法華宗徒は21の寺院を焼かれ、死者は3000人とも10000人とも言われている。法華宗側の大敗北で、信長の比叡山焼き討ち以上の人的・物的被害となった。

 なぜこれほどまでに被害が広がるもなのか?自分が信仰する宗派・寺院の危機となれば、男も女も老いも若きも、手に武器を取って戦闘員として立ち上がったのである。

 これはエンドレス・ゲームで、戦闘員は他の宗派の者を殺すことに何の躊躇いを持って居なかったからで、其れは、自分たちは正義だと思っているからである。

 

 これが宗教というものが持つ恐ろしさなのである。

 日本では織田信長から秀吉の刀狩と、徳川幕府の檀家制度に依って、宗教と政治の切り離しに成功を収め、現在のような平穏な宗教団体と成ったのである。

 上記は日本での宗教戦争を摘出したが、世界では現在でも宗教的な争いは後を絶たない。現在でも宗教と政治が切り離せない国家は多く、国家首長が経典に接吻するなどの行為を、テレビで目にする事は珍しいことではない。

【補解】

 こうした軍事集団だった宗教団体に鉄槌を下したのが織田信長だが、其処には世上の謂われと現実とには、大きな隔たりがある。

 世上謂われるように、比叡山の焼き討ちや本願寺との戦いは、実は信長が仕掛けた戦いでは無く、比叡山は、それまでの中立を破って浅井・朝倉両氏に基地提供をはじめとする軍事援助を行い、公然と信長への敵対行動に出たのである。また本願寺との戦いでは、先に宣言布告したのは本願寺の方だったのである。

 この謂われはどうであれ、宗教の持つ本質が、世上混乱の要素で有ることに相違はない。

 一向宗徒は信長の領地の方々で蜂起したが、負けても負けても講和条約を反故にして戦いを挑む一向宗には、流石の信長も打つ手がなく、その結果行われたのが伊勢長島などでの皆殺し作戦であつた。

 比叡山にしろ、一向宗にしろ、彼等への虐殺行為を行った信長を非難する人は大勢いるが、確かに信長の戦いは戦国時代という特殊な社会環境のもとで行われた異常な行為だったかもしれないが、あの時代、他にどのような方法があったのだろうか?(現在でも適切な方法が無い事は、世界情勢を見れば明らかである)

 織田信長が宗教が持つ権威を天空から引きずり降ろしたので、完敗した比叡山や本願寺はその後、軍事的存在ではなくなり、政治に介入することは不可能になった。宗教団体への骨抜きは、その後の秀吉の刀狩と、徳川幕府の檀家制度で完成した。

 宗教は長年の間に、自分たちの権利を既得権として主張する様になり、其処に競争が加わって、為政者と或いは宗教間で争いを起こすようになった。茲に時の為政者は、権利と既得権を壊滅させ、檀家制度によって宗教間の競争を無為にした。

 こうした信長の政教分離政策着手のおかげで、現在の日本人が平和で穏やかな社会で過ごせる礎と成っている。

 すっかり宗教に疎くなっている我々日本人は、かつて日本国内にあった宗教戦争を殆ど忘れていて、現在から見ると、戦国時代以前の日本人は、宗教に関しては別の人種ではないかと思うほど、宗教的だったのである。

 日本人が宗教に疎くなったのは、織田信長が着手し、続いて豊臣秀吉、徳川家康と続く宗教政策の結果で有る。

 因って信長の比叡山や本願寺との戦いは宗教戦争でも宗教弾圧でもなく、宗教教団に依る既得権益と政治を排除した、即ち政教分離政策に外ならない。

 因みに信長は戦いが終わった後、比叡山や本願寺への信仰を禁止はしていない。

 宗教弾圧とは、その後の豊臣秀吉や徳川幕府のキリスト教禁止令のように、その宗教を信仰することを禁止し、違反者には重刑をもって臨むようなことを言うのである。

【補解】

 一神教の世界では怨霊とは神に存在を許されない、別名悪霊、悪魔で、旧約聖書には、サウルという傲慢不遜な王様に悪霊がのり移ったことが書かれている。

 これに引きかえ日本では、早良皇子や菅原道真のように怨霊の厄難は人の心に働きかけるのではなく、疫病や天変地異などを引き起こすという具合に、スケールが桁違いに大きい。

 抑も、一神教の世界では病気も自然現象も唯一絶対の神が作ったもので、神の意志の下にあるから、たとえ悪魔と雖も神を倒さないかぎり、それらを自由に操ることはで出来ない。

 新約聖書によれば、悪霊に祟られたり、悪霊がのり移るのは、その人に罪がある訳ではなく、運の悪さだとされていて、一神教の世界では、怨霊(悪魔)は恐怖の対象ではあっても倒せない、あるいは追い払えないので、当事者にとって如何とも為しがたいのである。

 

 

 

2−多神教

 死者に鞭打つ行為という言葉がある。語源は古代漢民族で、家臣の讒言により故国の楚を捨てて、敵国である呉(三国志の呉ではない)に亡命した伍子胥は数年後、呉の兵を指揮して楚に攻め込んで都を占領し、讒言を信じたかつての王の墓をあばき、王の遺体が引きちぎれるほど鞭を打ち続けた。

 漢の初期に、謀反の罪で捕らえられて殺された淮南王の英布(鯨布)の体は切り刻まれ、塩漬けにされて諸侯に配られた。

 その肉を食べて憎しみを共有せよ、ということで、漢民族には食人の風習があり、孔子はそれが好物であったと云われる。

 第2次世界大戦後、中国では漢奸と呼ばれた人達が捕らえられ、ある人は刑務所行きになり、またある人は死刑になった。漢奸とは漢民族に対する裏切り者、反逆者というような意味で、例えば日本への協力者などがそれにあたる。

 蒋介石の国民党から漢奸とされた汪兆銘(1883〜1944)は、すでに故人であったにもかかわらず墓を爆破されている。

 東京裁判で死刑判決を受けた東条英機以下の死刑囚は、死刑執行後も遺骨は遺族には渡されず、人知れず何処かで処分された。連合国にとって彼等はまさしく悪魔だったからである。

【余談】

 自動車を運転すると、わき道から犬や猫が飛び出す事がある。それを避けようとしたが、操作を誤って事故を起こすことがある。その人は帰宅してから仏壇にお線香をあげて、成仏してくれと念じた。

 この行為はおかしいのだろうか?

 日本人なら、ある程度納得してくれるだろう?それとは逆に死体に鞭打つ伍子胥や、英布を食べた人のことを、何とも思わない日本人は少なくないだろう。

 むしろ大多数の日本人は、こうした行為に嫌悪感を感じるのではないだろうか?

 いくら漢奸とはいえ、汪兆銘は墓に眠っていて、東条英機等は既に死んでいる。

 なぜそこまでする必要があるのだろうか?

 日本人にはなかなか理解しにくいものがある。

 それは何故だろう?

 日本人は、一言で言えば、死ねば罪は消える!と考えるからではないだろうか?(殆どの日本人は、死ねば罪は消える!と思うが、広い世界には、死んでも罪は消えない!と思う民族もいる。)

 また、いくら憎いとはいえ、死者にそこまですることはあるまい、という感情ではないだろうか?

 そして、そんなことをすれば化けて出る、と思わないだろうか?

 もちろん現実のこととして、化けて出るなどないが、無宗教を自認する現代の日本人でも、心の奥ではひょっとしたら・・・と一瞬でも思わないだろうか?

 ひょっとしたら化けて出るどころか、絶対出てくると考えたのが、今から1100年以上も昔の人達だが、現代でも心の奥に、その様な感情を潜めている民族はいる。

 私たちは科学知識として化けて出るなどありえないし、妙な言動をとるのは、悪霊がのり移ったのではなく、精神的な病気であることを知っているが、当時の人は化けて出るとか、悪霊のタタリを本気で信じていた。信じている以上、早良皇子や菅原道真の怨霊は、(当時の人にとっては)本当に現れたのだ。

 日本は八百万の神々の世界で、雷神は日本の八百万の神々の一つに過ぎないし、神々の一つ、という言葉に違和感を感じる日本人は少ないだろう。

 もし違和感を感じるとしたら、たとえば宮崎駿のアニメ・・もののけ姫・・などはさぞ異様に映ることと思う。

 古来より日本人は、身の回りのあらゆるものに神性を感じて、たとえば山、沼、大木、巨岩などの自然に対し、又たとえば狼、蛇、熊などの動物に対し、亦あるときは菅原道真、豊臣秀吉、徳川家康のような実在の人間に対し、実在の人間が神として祭られるなど、一神教の世界では絶対ありえないことである。

 ところで中国でも人間を祭ることがある。

 例えば孔子や、また三国志の英雄関羽は死後神として祭られ、日本各地にある関帝廟がそれである。関羽は義理に厚かったため、商売の神様とされており、孔子も関羽も善神として祭られているわけで、平将門のように怨霊神としてではない。

 日本では、家の中には屋敷神や、竈神があり、座敷童子という神もいる。外に出れば道端には道祖神、お地蔵様があり、神社やお寺も方々にある。

 それをごく普通のことと日本人は受け入れていて、これが日本人の、八百万の神々の存在を前提とする宗教感覚である。

 では、日本人の神に対する感性について、本居宣長(1731〜1801)は古事記伝の中で次のように述べています。

 『さて凡て迦微とは、古御典等に見えたる天地の諸の神たちを始めて、其を祀れる社に坐す御霊をも申し、又人はさらにも云ず、鳥獣木草のたぐひ海山など、其余何にまれ、尋常ならずすぐれたる徳のありて、可畏き物を迦微とは云なり』

 つまり日本人は、何か尋常でないものに神を感じて、この神々・・日本古来からの神々を祭る宗教が神道である。

 神道は世界的に見ても極めてユニークで、教義というものがなく、それと神道の影響下にある宗教行事、あるいは宗教行為は日本人にとってあまりにも日常的なもので、普段我々はそれを宗教と感じることはほとんどない。

 初詣、節分、春祭り、海開き・山開き、秋祭り、七五三。定例の年中行事だけでなく家を建てるときの地鎮祭、子供が生まれればお宮参り、厄年になれば厄払い、受験の時の合格祈願、交通安全、お彼岸やお盆の墓参り・・・これらはほんの一例にすぎない。(お彼岸やお盆の墓参りは神道ではない)

 教義がないと謂うことは、神道の柔軟性と寛容性と非排他性に繋がりる。更に神道にはキリストやマホメットのような開祖がなく、教義もないので、仏教、儒教、道教など外来の宗教の影響を受けて、その姿かたちを容器に入れた水のように変えてきた。水や空気のようなものだからこそ、普段あまり意識しないと謂える。

 神道は外部に対して極めて影響力の小さい宗教だからこそ、他の宗教の影響を受けて、じわじわと変化してきたのである。

 神社に祀られる神々の多くは日本神話に登場する神々で、その日本神話だが、それを読むと余りにも人間的なので、日本の神々の力とは何なのだろうと思ってしまう。

 たとえばギリシャ神話では、最高神ゼウスは、普段はただのスケベオヤジだが、神の意思に背く者には雷を以って罰を与える。

 一方、日本神話の最高神天照大神は、弟のスサノオの狼藉に、おろおろするばかりで、スサノオを捕らえて髪や爪を剥いで高天原から追放するだけで精一杯である。日本の神々の神罰はこの程度で、ある意味日本人は甘いといえる。

 

 

 

3−仏教

 仏教の伝来は538年、あるいは552年だが、すんなりと受け入れたわけではなく、紆余曲折があったことは良く知られている。

 仏教が国家の宗教となったのは奈良時代で、東大寺を建立した聖武天皇の時からである。

 ところが、天皇は神道の神様を祀る中心的立場にあり、それで、矢張り100%仏教とは行かなかったようで、そのほかの人々も同様で、なにせ、貴族も豪族も、うちのご先祖様は何とかという神様だと言っていたのである。

 【註】視点によって色々ある

 そこで、神様と仏様が歩み寄る必要が出てきて、歩み寄ったのは神様の方で、その一番手が八幡神だった。八幡神は応神天皇のことだ謂われ、八幡様が「私は、元々はインドの神でした」と告白したことで、ほかの神様も右へ習えとなったのである。

 つまり、神様の立場を「本当は仏教の仏です(本地)が、日本では神道の神としてやってます(垂迹)」ということにして、両者を共存させたわけである。

 尤もこれは、日本人が自分に都合の良いように理論をでっち上げた訳でもなく、法華経にその根拠を求めることが出来るそうだ。

 それに、仏教自体がヒンズー教から沢山の神を入れて居たから、如来、菩薩などが名前を変えて日本の神様になるということは、あってもよいことと考えていたのではないだろうか。

 一方、神道の側からすれば、元々、教義も無ければ教祖もいない、八百万の神様が坐すだけ、ということだから、さほど気にはならなかったのかも知れない。

【補解】

 本地垂迹説を簡単に纏めれば斯くの如くだが、これは巧く考えたようにも思えるが、どこかご都合主義的でもある。明治初年の神道国教政策により神仏は分離され、本地垂迹説も消滅した。

【補解】

 日本人の感覚として、人は死ねば皆ホトケになる、という考えがある。この言葉の中に、すべてではないにしろ、相当大きな比率で日本人の宗教観が入っているように思える。

 ではホトケとは、仏様のことだが、一体何なのか?仏教は、古代インド釈迦族の王子ゴーダマ・シッタルダがその開祖である。

 釈迦は王子という恵まれた環境にありながら悩み苦しみの多い人で、それを解決しようと妻子を捨てて家を出て仕舞った。

 悩み苦しみとは・・・・・・

1.生きる苦しみ、 

2.死ぬ苦しみ、 

3.年をとる苦しみ、

4.病気になる苦しみ

の四つがその代表とされる。他にも

1.愛別離苦(愛する人と別れる苦しみ)

2.怨憎会苦(怨み憎む者とこの世で会わなければならぬ苦しみ)

3.求不得苦(欲しいものが手に入らない苦しみ)

4.五蘊盛苦(人間の体や心の欲望が適えられない苦しみ)

と全部で八つあって、四苦八苦とはこれが語源になっている。

 釈迦は艱難辛苦に耐え、修行した結果、遂に悟りを開き、苦しみや煩悩から脱出すること(解脱)に成功した。

 

 仏教では解脱した人を如来と呼ぶ。依って釈迦の尊称は釈迦如来であり、如来以外では、仏陀とも、阿羅漢とも呼ばれている。

 当然ながら如来は解脱に成功した人の数だけいるわけで、釈迦の他には大日如来、薬師如来、阿弥陀如来などがいる。

【屁理屈】

 因みに学問を修め修行に精進し、これ以上学ぶものは何もないという状態を無学というので、我々が普通使う意味とは全く違う。

【屁理屈】

 ついでに言えば、日本神話の神々はあまりにも人間的だ、と先に書いたが、死後神になるのなら人間的であるのは当然だ。

 

 菩薩とは悟りを開く一歩手前の状態を云い、まだ如来ほどではないが、一般の修行者より遥かにレベルの高い状態である。仮に自動車免許に喩えれば、仮免許と言える。菩薩には地蔵、観音、弥勒、月光、勢至などがあり、さらに仏教は不動明王、愛染明王、弁財天、帝釈天など古代インドの土着の神が仏教に帰依したとされ、菩薩と共に信仰の対象になっている。

 さてお釈迦様は、悩み・苦しみから逃れるには悟りを開き解脱せよ!・・・。極端なことを言えばお釈迦様の教えは唯それだけで、悟りを開き解脱する爲の方法手段は一切言わなかった。

 初期の仏教は実に不親切で、聖書やコーランのように日常生活を含めて、あれこれ指導するようなことは全くなかった。

 なぜならとユダヤ教、キリスト教、イスラム教と違い、初期の仏教(小乗仏教)は自分が解脱するためにあるわけで、他人の救済が目的ではなかった。ここが一神教と違うところで、そもそも信仰の対象となる如来も菩薩も神ではなく、人間である。

 ではお釈迦様のように、超人的修行を行える意志と忍耐力の持ち主なら良いが、一般の平凡な人は永久に救われないのか?という疑問が当然起きてくる。

 大乗仏教はそうした人達への回答であった。

 意志と忍耐に限界があって、自力の修行で悟って解脱できないなら、如来様のように悟って解脱した人に「あやかり、すがって」救ってもらおうというワケである。(此は亦、随分と人間的である)

 ここで初めて仏教は人の救済を目的とするようになり、現在の仏教の基本ができた。

 さて仏教というか、古代インドでは世界は天上・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄の六つがあるとされ、人間は死ねばこの六つの世界(六道)の何れかで再び生まれ換わるとされていた。永遠に続く輪廻転生である。

 一神教では肉体と魂は一体なので、輪廻転生という考えはないが、キリスト教は肉体の復活は信じているそうだ。

 本来の仏教は、解脱すれば苦しみから逃れられると説いた宗教で、輪廻転生がある以上、どこで生まれ換わっても、たとえ最高位の天上界で生まれ換わっても、悩み・苦しみは依然として付き纏うのである。(此の儘では矛盾が有るようだ)

 従って解脱して苦しみから逃れた如来は、この六道とは違う世界に住む筈である。つまり解脱すれば永遠に続く輪廻転生のループから脱出できるのである。

 違う世界とは如来の住む世界のことで、これを浄土といい、如来の数だけあることになる。

 浄土には阿?如来の妙喜、薬師如来の浄瑠璃光、釈迦如来の無勝荘厳国などだが、その中で最も有名なのが阿弥陀如来が住むという極楽である。

 大乗仏教では解脱する方法は二つあって、一つは修行を積んで自らの力で解脱することで、これは従来の方法である。

 もう一つが如来(たとえば阿弥陀如来)に頼み込んで、その力で浄土へ行き、生まれ換わることである。

 往生とは浄土へ往って生まれ換わることをいうが、浄土で生まれ換われば、そのまま自然に解脱できるという訳ではない。解脱するための修行が容易に出来るようになると謂うことである。(教習所に入れて貰うようなもの)

 さて極楽とは浄土の代名詞にもなっているが、それは阿弥陀如来は人間を救うため四十八の誓いをたてたからと言われている。この誓いを本願といい、本願寺とは勿論ここからきている。

 このように救済のための誓いを立てた如来は、阿弥陀の他にはいないので、阿弥陀如来は一神教の神の概念に最も近いホトケ様である

 最初に和訳された聖書に『初まりに賢い者ござる。この賢い者、極楽と共にござる。この賢いものは極楽・・』というのは、苦肉の策とはいえ、一神教の神の概念にやや近いものであった。

 さて本願寺といえば戦国期の一向宗の総本山だが、この宗徒は進めば極楽、退けば地獄という厄介な合言葉で、織田信長をはじめとする武将達と戦った。因みに織田信長の最大の敵は武田でも毛利でもなく、石山本願寺だった。

【余談】

 余談だが、徳川家康の旗印は厭離穢土欣求浄土と謂った。

 穢土とは穢れた世界のこと。これは現世のことで、その穢れた現世を離れ、よろこんで浄土に行きたいという意味である。

 穢土とは字を換えて江戸になった。自分が住む日本の首都を穢土と呼ぶ家康の精神はどんなものだったのか?

 更に江戸時代の首都は穢土であり、これは現世で、現世があるなら来世(浄土)もある筈だ・・・・・

 それこそ家康が祀られる日光であ。

 来世と現世があるなら過去もあるだろう。

 それが京都である。現在(江戸)と過去(京都)を結ぶのが東海道五十三次で、この五十三とは、善財童子に由来すると言われていて、善財童子とは華厳経に出てくる童子で、文殊菩薩の指示で五十三人の賢者を訪ねて修行を積み、最後に普賢菩薩の所で悟りを開いたと言われる如来である。

 さて平安時代以降現在まで、仏教は阿弥陀如来の住む極楽で往生することが最大のテーマであった。その宗派が浄土宗で、そのための念仏が日本人なら誰でも知っている南無阿弥陀仏である。

 南無阿弥陀仏とは阿弥陀仏を信じるという意味で、阿弥陀様という『他人の力』で往生を願うことを他力本願という。

 そして他力本願の究極の思想が、親鸞の有名な悪人正機説である。(悪人正機説の原形ともいえる理論は、すでに親鸞の師、法然によって説かれている)

 善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや

 (善人でさえ往生できるんだ。悪人が往生できないはずがない)

なんという矛盾・・・・・・

 悪人でさえ往生できるんだ!善人が往生できないはずがない、の間違いじゃないか?

 間違いではありません。

 簡単に言えば、善人は善行を積むが、心の内には『善行を積んでいるのだから、オレは必ず極楽で往生できるだろう』という下心がどうしても消えない。この下心がよろしくない、と言うのである。

 然し、そんな下心のある善人だって往生できるのだ。

 ところが悪人は善行など積まないから、ただひたすらに阿弥陀仏にすがるしかない。この『ただひたすらにすがる』のが往生の秘訣なのだ・・というワケである。(頼み込むのが一番だ!とは、大衆を・・・・・させるのに都合の良い方法)

【補解】

 輪廻転生について、怨霊というものを、この世に怨みを残して死んでいった人の怨念がこの世にとどまり、自分を死に至らしめた、あるいは陥れた相手に何らかの手段で復讐し、生前の欲求を満たすような超自然的概念と定義している。

 しかし人間は死ねば六道のいずれかに生まれ換るので、何がこの世にとどまるのか?

 魂はこの世にとどまるのではないのか? と思われる人もいるだろうが、これは違う。

 なぜならお釈迦様の教えは、あらゆるものに永遠のものはなく、すべてが無である。そういう自分自身もやはり無であり、主体となるものは存在しない(無我)としているからである。つまり仏教では魂すらも存在しない(諸法無我)

 輪廻転生は、お釈迦様が言い出した理論ではないが、インドの伝統的宗教であるバラモン教では、魂の存在を認めていて、それが肉体とは別に転生を繰り返すとしているのである。

 そして生前の行い次第で、次に生まれ換わるモノが換わるとされている(因果応報)

 お釈迦様は、このバラモン教における輪廻転生は認めたが、魂の存在は認めなかった。悩んだのはお釈迦様の弟子達で、一体いかなるものを核として輪廻転生は起きるのか?

 大乗仏教の出した答えは阿頼耶識というものであった。阿頼耶識とは非常に難しい概念だが、簡単に言えば、人類誕生の過去から、現在・未来へと引き継がれる遺伝子のようなもので、この遺伝子は人間は誰でも持っていて、その人の経験が取り込まれる。

 持ち主の人が死ぬと、次の転生先の人に引き継がれ、これは魂のような精神性は持たないが、無限の記憶容量を持つ外部メモリーのようなも・・・

【余談】

 多神教と一神教のどちらが良いとか悪いとか、優れている劣っている、ということはできないが、価値観を共有できる多神教の方が、違う価値観を認めない一神教よりは、より平和的だろう。

 多神教の信者には、死者に鞭打つ事も出来ないし、生きている人に対して目をそむけるような残虐行為もできない。

 それを中途半端、不徹底といえば言えるが、だから日本人は、下手に恨みを持って死なれたら怨霊になる(化けて出る)、と考えるし、人は死ねば皆ホトケになるとは、自分はあいつに酷いことをしたが、人は死ねば皆ホトケになるんだ!と自分に言い聞かせ、あいつは怨霊にはならない(だろう)、と信じるためなのではないだろうか?

 

 

 

4−本地垂迹

 本地垂迹説というのは、神道と仏教を両立させるために、奈良時代から始まっていた神仏習合(神仏混交、神と仏を同体と見て一緒に祀る)という信仰行為を、理論付けし、整合性を持たせた一種の合理論で、平安時代に成立した。

 その基礎には仏教以前の山岳信仰と修験道などの山岳仏教の結びつきがあったという。

 なお本地垂迹説は仏教が興隆した時代に表れた神仏習合思想の一つで、日本の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現であるとする考えである。

【補解】

 本地とは、本来の境地やあり方のことで、垂迹とは、迹を垂れるという意味で、神仏が現れることを言う。

 究極の本地は、宇宙の真理そのものである法身であるとし、これを本地法身といい、また権現の権とは「権大納言」などと同じく「臨時の」「仮の」という意味で、仏が神の形を取って仮に現れたことを示す。

 

 本地という思想は、仏教が各地で布教されるに際し、その土地本来の様々な土着的な宗教を包摂する傾向があることに起因する。

 たとえば、仏教の天部の神々の殆どはインドのヒンドゥー教を由来とする。この思想は、後に、後期大乗仏教で、本地仏大日如来の化身が、不動明王など加持身であるという概念を生んだ。

 これに対し、垂迹という思想は、中国の『荘子』天運における迹(教化の迹)や、所以迹(教化を成立させている道=どう)に由来し、西晋の郭象は『荘子注』で、これを聖王(内聖外王)の説明において展開させ、“迹”を王者としての統治・主導とし、“所以迹”を本質的な聖人として引用した。

 そして、後秦代の僧肇がこれを仏教に取り入れた。僧肇は『注維摩詰経』で、魏の王弼などの“本末”の思想を引用し、“所以迹”を“本”と言い換えて、“本”を菩薩の不可思議なる解脱(悟りの内容)とし、“迹”を菩薩が衆生を教化するために示現した方便という意味で使用した。

 仏教公伝によると、古墳時代の物部氏と蘇我氏が対立するなど、仏教と日本古来の神々への信仰との間には隔たりがあった。

 だが徐々にそれはなくなり、仏教側の解釈では、神は迷える衆生の一種で天部の神々と同じとし、神を仏の境涯に引き上げようと納経が行われたり、仏法の功徳を廻向されて、神の身を離脱することが神託に謳われたりした。

 しかし7世紀後半の天武期での天皇中心の国家体制整備に伴い、天皇の氏神であった天照大神を頂点として、国造りに重用された神々が民族神へと高められた。

 仏教側もその神々に敬意を表して格付けを上げ、仏の説いた法を為して仏法を守護する護法善神の仲間という解釈により、奈良時代の末期から平安時代にわたり、神に菩薩号を付すに至った。

 一方で、死霊などの小規模な民族神は、この本地垂迹説を用いずに区別した。例としては、権化神(権社神)に対する実類神(実社神)などである。このため、仏教側では権化神には敬意を表してもよいが、実類神は信奉してはならないという戒めも一部に制定された。これは仏教の一線を守るという考えのあらわれと思われる。

 この本地垂迹説により、権現造りや本地垂迹の図画なども生まれ、鎌倉中末期には文学でも本地物と呼ばれる作品が創作された。

 

 

 

5−末法思想

 院政や武士の台頭による政治の流動化、天災や戦乱による社会の混乱を背景として、末法の世の実感と、そこからの救済願望が生まれた。

 そのため浄土信仰が盛んとなり、法然を始め新しい仏教諸宗派が登場したが、それは伝統的な神祇信仰の変容と再生も促した。

 この終末意識には粟散辺土観も影響し、仏教のインド中心の世界観では、末法の世の日本の人間は堕落していて救済されがたく、正当な教化の方法では救済できないとされた。

 そこで仏が仮に神の姿をとってこの辺土に現れ、厳罰をもって人々を教化し救済を志向したというのが、本地垂迹説の意図するところである。こうして神々は、共同体の神から個人を救済する神へと変貌を遂げた。

 

 

 

6−反本地垂迹

 鎌倉時代中期には、逆に仏が神の権化で、神が主で仏が従うと考える神本仏迹説も現れた。神道側の仏教から独立しようという考えから起こったものである。

 伊勢外宮の神官である渡会氏は、神話・神事の整理や再編集により、『神道五部書』を作成し、伊勢渡会神道の基盤を作った。

 また、現実を肯定する本覚思想を持つ天台宗の教義を流用し、神道の理論化が試みられ、さらに空海に化託した数種類の理論書も再編され、渡会行忠・家行により体系づけられた。

 南北朝時代から室町時代には、反本地垂迹説がますます主張され、天台宗からもこれに同調する者が現れ、慈遍は『旧事本紀玄義』や『豊葦原神風和記』を著して神道に改宗し、良遍は『神代巻私見聞』や『天地麗気記聞書』を著し、この説を支持した。

 吉田兼倶は、これらを受けて『唯一神道名法要集』を著して、この説を大成させた。しかし鎌倉期の新仏教はこれまで通り、本地垂迹説を支持した。

【補解】

 垂迹神と本地仏の正体とされる仏を本地仏といい、神々に付会される仏は、宗派、信仰、寺院、神社によって異なり、日本の神の仏号は菩薩が多く、八幡大菩薩は阿弥陀如来であるなど、本地仏の仏号との相違もみられる。

 垂迹神と本地仏の一例を以下に示す。

天照大神 = 大日如来、十一面観世音菩薩

熊野権現 = 阿弥陀如来、善財王とその妃・王子(熊野曼荼羅)

八幡神  = 阿弥陀如来  = 応神天皇

日吉   = 天照大神   = 大日如来

愛宕権現 = 智明権現   = 勝軍地蔵菩薩

素盞鳴  = 牛頭天王   = 薬師如来

東照大権現(徳川家康)   = 薬師如来

市杵島姫 = 弁才天

秋葉権現 = 観音菩薩

大国主 = 大黒天

松尾  = 薬師如来

 

 

 

7−神仏習合

 神仏習合とは、日本土着の神祇信仰と仏教信仰が混淆し一つの信仰体系として再構成された宗教現象で、神仏混淆ともいう。

 神々の信仰は本来土着の素朴な信仰であり、共同体の安寧を祈るもので、神は特定の氏や村と結びついており、その信仰は極めて閉鎖的だった。

 普遍宗教である仏教の伝来は、このような伝統的な「神」観念に大きな影響を与え、仏教が社会に浸透する過程で伝統的な神祇信仰との融和がはかられ、古代の王権が、天皇を天津神の子孫とする神話のイデオロギーと、東大寺大仏に象徴されるような仏教による鎮護国家の思想とをともに採用したことなどから、奈良時代以降、神仏関係は次第に緊密化し、平安時代には神前読経、神宮寺が広まった。

【補解】

 仏教が伝来(552年(538年説あり))した当初は、仏は、蕃神として日本の神と同質の存在として認識され、日本で最初に出家して仏を祀ったのは善信尼と『日本書紀』にはあるが、これは巫女が日本の神祇を祀ってきたのをそのまま仏にあてはめたものと考えられている。

 寺院の焼亡による仏の祟りという考え方も、仏教には祟りという概念は無いため、神祇信仰を其儘仏に当て嵌めたと理解できる。

 神宮寺の建立について、宇佐神宮が朝鮮半島の土俗的な仏教の影響の下、6世紀末には既に神宮寺を建立した。

 一般的にはそれより後、日本人が、仏は日本の神とは違う性質を持つと理解するにつれ、仏のもとに神と人間を同列に位置づけ、日本の神々も人間と同じように苦しみから逃れる事を願い、仏の救済を求め解脱を欲していると認識されるようになったとされる。

 これを神身離脱といい、715年(霊亀元年)には越前国気比大神の託宣により神宮寺が建立されるなど、奈良時代初頭から国家レベルの神社において神宮寺を建立する動きが出始め、満願禅師らによる鹿島神宮、賀茂神社、伊勢神宮などで境内外を問わず神宮寺が併設され、また、宇佐八幡神のように神体が菩薩形をとる僧形八幡神も現れた。

 奈良時代後半になると、伊勢桑名郡にある現地豪族の氏神である多度大神が、神の身を捨てて仏道の修行をしたいと託宣するなど、神宮寺建立の動きは地方の神社にまで広がり、若狭国若狭彦大神や近江国奥津島大神など、他の諸国の神も8世紀後半から9世紀前半にかけて、仏道に帰依する意思を示すようになった。

 こうして苦悩する神を救済するため、神社の傍らに寺が建てられ神宮寺となり、神前で読経がなされるようになった。

 こうした神々の仏道帰依の託宣は、そのままそれらを祀る有力豪族たちの願望だったと考えられている。

 律令制の導入により社会構造が変化し、豪族らが単なる共同体の首長から私的所有地を持つ領主的な性格を持つようになるに伴い、共同体による祭祀に支えられた従来の神祇信仰は行き詰まりを見せ、私的所有に伴う罪を自覚するようになった豪族個人の新たな精神的支柱が求められた。

 大乗仏教は、その構造上利他行を通じて、罪の救済を得られる教えで、この点が豪族たちに受け入れられたと思われる。

 それに応えるように雑密を身につけた遊行僧が現われ、神宮寺の建立を勧めたと思われる。まだ密教は体系化されていなかったが、その呪術的な修行や奇蹟を重視し世俗的な富の蓄積や繁栄を肯定する性格が神祇信仰とも折衷しやすく、豪族の配下の人々に受け入れられ易かったのだろうと考えられている。

 こうして神社が寺院に接近する一方、寺院も神社側への接近を示している。8世紀後半には、その寺院に関係のある神を寺院の守護神、鎮守とするようになった。

 710年(和銅3年)の興福寺における春日大社は最も早い例である。また、東大寺は大仏建立に協力した宇佐八幡神を勧請して鎮守とし、これは現在の手向山八幡宮である。

 他の古代の有力寺院を見ても、延暦寺は日吉大社、金剛峯寺は丹生神社、東寺は伏見稲荷大社などと、いずれも守護神を持つことになった。

 このように仏教と敵対するのではなく、仏法守護の善神として取り込まれていった土着の神々は護法善神といわれる。

 この段階では、神と仏は同一の信仰体系の中にはあるが、あくまで別の存在として認識され、同一の存在と見るまでには及んでいない。この段階をのちの神仏習合と特に区別して神仏混淆ということもある。

 数多くの神社に神宮寺が建てられ、寺院の元に神社が建てられたが、それは従来の神祇信仰を圧迫する事なく、神祇信仰と仏教信仰とが互いに補い合う形となった。

 

 

 

8−神祇信仰

 これらの神宮寺は雑密系の経典を中心とし、地域の豪族層の支援を受けて基盤を強化しつつあったが、一方でこの事態は豪族層の神祇信仰離れを促進し、神祇信仰の初穂儀礼に由来するとされる租の徴収や、神祇信仰を通じた国家への求心力の低下が懸念されることとなった。

 一方で律令制の変質に伴い、大寺社が所領拡大を図る動きが始まり、地方の神宮寺も対抗上、大寺院の別院と認識されることを望むようになってきた。

 朝廷側も、国家鎮護の大寺院の系列とすることで、諸国の神宮寺に対する求心力を維持できることから、これを推進したが、神祇信仰と習合しやすい呪術的要素を持ちながら、国家護持や普遍性と抽象性を備えた教説として、諸国神宮寺の心を捉えたのが空海の伝えた真言宗であった。

 一方でこのような要望を取り入れるべく天台宗においても、円仁や円珍による密教受容が進んだ。

 また、奈良時代から発達してきた修験道も、真言宗と天台宗などの、密教の影響を強く受け、独自の発達を遂げることとなった。

 本地垂迹説により、普遍性を獲得する契機の先頭に立ったのが、八幡神や日吉神、熊野神など、早くから仏教と深い関係を取り結んでいた神々であった。

 とりわけ熊野の神々は、修験道と結びつくと共に、院の帰依を受け、院政期以降その信仰を全国に広げていった。熊野は本宮・新宮・那智の三社(熊野三所権現)で構成され、熊野本宮の本地・阿弥陀如来は、平安末以降の阿弥陀仏による救済願望に応える神として衆庶の信仰を集め、一大霊場として繁栄を極めた(蟻の熊野詣)

 この時、浄土信仰を奉じる一遍も参詣し、託宣を受けて時宗開教へ踏み出している。熊野信仰の隆盛は、古代的な価値観の解体も示しており、熊野信仰の特質の一つである苦行が霊験を高め、現世的なもの、身体的なものを超えた、高次元の精神的なものを志向することとなった。

 その霊験をテコに「日本第一大霊験所」と称して、比類なき神格の尊貴性を主張し、伊勢・熊野同体論が登場するなどし、神々が互いの霊験を競い合うようになった。

 他方、このような密教の興隆は王権の相対化をもたらし、藤原氏の勢力拡大に伴う旧来の名族の没落とも相まって、政争敗死者を担いで王権への不満や反撥を正当化する怨霊信仰が盛んとなった。

 この動きは9世紀には御霊会の流行を引き起こしたが、神祇信仰に従来からあった怨霊祭り上げの風習に加えて、密教の側からの鎮魂も行われた点に、神仏習合の類型を見ることが出来る。

 特に菅原道真の怨霊が天神信仰へと発展するに際し、仏教の論理により天部として位置づけられたことは、王権に対する祟りの後に祀られて、善神(護法善神)となったという考え方が密教の影響だったと示している。

 この典型的な例が平将門即位の状況に見られる。将門の新皇即位は、神仏習合の神であり天皇家の祖神でもある八幡神がその位を授け、位記(辞令)を菅原道真が書き、仏教音楽により儀式を行うようにと神祇信仰の巫女が託宣したもので、王権相対化の論理を正当化する手段としての仏教の影響が強く表れている。

 このように呪術的な信仰を求める大衆に対しての仏教の側からの浸透に対抗し、神祇信仰の側からも理論武装の動きが出てきた。

 神祇信仰においては従来それほど顕著でなかった二極対立の考え方が発達し、清浄とケガレの二極が強調されるようになった。

 このため9世紀から10世紀にかけて、従来は祓いで済んでいたケガレ除去の方法が、陰陽道の影響もあり、物忌み中心に変わってきていることが確認されている。

 神祇信仰の論理性の強化は、仏教側からの侵食に対抗するとともに、仏教側と共生することを可能とし、10世紀末には、浄土思想にもケガレ思想の影響が見られ、往生要集などには本来の仏教の浄穢思想理解のための手段として、神祇信仰のケガレを利用した論理が見受けられる。

 しかし、浄土思想の普及は、ケガレを忌避する神祇信仰に対し、ケガレから根本的に離脱する方法を提示できる仏教の優位を示すこととなった。仏や菩薩を本地であると考え、その仏や菩薩が救済する衆生に合わせた形態(垂迹)を取って、この世に現れるという本地垂迹説は、このような仏教上位の状況下において、仏教側から神祇信仰を取り込もうとする動きとも理解できる。

 絶対的存在としての仏や菩薩と、その化身である神という形を取ることにより、神仏の調和の理論的裏づけとしたのである。

 また、このような仏教優位の考え方は、ケガレと日常的に接する武士の心を捉え、以後の八幡神信仰や天神信仰の興隆にもつながることとなった。

 更に鎌倉時代になると本地垂迹説による両部神道や山王神道による大祓詞の密教的解説や、記紀神話などに登場する神や神社の祭神の密教的説明の試みが活発化し、「中世日本紀」といわれる現象が見られるようになった。

 ただし仏教の天部の神々も、元はヒンドゥー教の神であったように、日本だけでなくインドの地域社会や中国においても、土着民族の神々を包摂してきた歴史がある。仏教にはそのような性質が本来あったことが神仏習合を生んだ大きな要因であった。

 鎌倉時代末期から南北朝時代になると、僧侶による神道説に対する反動から、逆に、神こそが本地であり仏は仮の姿であるとする神本仏迹説を唱える伊勢神道や唯一神道が現れ、江戸時代には朱子学の理論により両派を統合した垂加神道が誕生した。

 これらは神祇信仰の主流派の教義となっていき、神道としての教義確立に貢献した。

 しかし、神仏習合の考え自体は、明治時代の神仏分離まで衰えることなく続いている。現在、仏教の寺院の墓地における墓石と板塔婆がそれぞれ石と木で作られることを、神社における磐座と神籬の影響とする説があるように、近現代においても、日本人の精神構造に影響を及ぼしている。

【補解】

 仏教はインドから中国、朝鮮半島を経て、6世紀半ばには日本に伝来し、聖徳太子の時代の少し前で、仏教は、仏・法・僧という三宝によって体系づけられている。

 「仏」は崇拝対象である仏像、法は思想・教理を明確にした経典、僧は布教集団としての教団組織である。

 当時の人々が見たこともないような偶像と確固たる理論体系、そして有能・強力な布教スタッフ陣、これに加えて仏教美術といわれる建築・彫刻・絵画・工芸などの優れた技術や医療の知識を携えて、日本に上陸したのである。

 これほどの思想・科学技術・文化集団を迎え撃つには、わが土着の神々の準備態勢は整っていなかった。

 神社は、元来、多神教で敵対するよりは、「仏教の神も仲間入りさせる」という方向を選ぶ傾向があり、柔軟性とおおらかさが日本の神々、つまり神社思想の特徴なのである。

【補解】

 斯く謂う仏教も、古代インドの在来宗教との習合、中国の道教との習合を経て、日本に伝えられた。

 それだけに豊かな経験と柔軟性があり、しかも、理論的かつ戦略・戦術的に事を運び、一気に制圧しようなどとは考えず、巧みに神社との融合・調和をはかりつつ浸透していくのである。

 これを「神仏習合」といい、決して急ぐことなく、長い時間をかけて徐々に行われ、8世紀中ごろから、その攻勢は活発化し、江戸時代まで続いた。

 まず、時の政権のバックアップを取り付け、聖徳太子の認知を得て、国家宗教への道を切り開いた。

 そして最初に目をつけるのが神社境内で、既に存在する神社の境内に寺を建てれば、立地条件としては申し分ないばかりか、「氏子」をそのまま「檀家」に換えられる可能性もあった。

 こうして神社に付属する形で、その境内の寺を神宮寺といい、神宮寺の実現も、中々手の込んだ戦術の下に行われている。

 支配層の有力者の夢枕に日本の神々を立たせ、「私は長いこと神をやっているが、いろいろ苦労している。この際、仏教の修行をしたいのだ」といった趣旨のことを告げるのである。

 告げられた有力者は、その神のために神社境内に仏教寺院を建立する。

 「夢枕」の真偽はともかく、こうして各所に神宮寺が建てられ、神宮寺は仏像を安置し、神社には神の象徴としての鏡や剣・玉などを祀る。「軒先を貸した神社が、徐々に母屋を仏教に取られていく」といった構図である。

 「神をやめて仏法に帰依したい」などということは、神様にとって屈辱的な発言に違いない。「神様がそんなことを言うなんて、冗談言うな!」といった庶民感情もあっただろう。

 そこで、護法善神という考え方も流布させ、仏法を守護する善なる神という意味で、一見、神が仏の上位にあるように思わせるところに特徴がある。

 八幡神に仏教の菩薩の名称を与えて八幡大菩薩と称し、菩薩像や権現像が祀られるようになった。

 千年以上にわたり、神と仏は徐々に融合・調和され、様式的にも神明系(和洋建築)から発展して、大陸から伝えられた寺院建築様式の影響を受けた明神系の鳥居や神殿がつくられ、賽銭箱や灯篭・手水舎などは、寺院も神社も同じ形態となってきた。

【補解】

 江戸時代の庶民生活の中では、神も仏も特別に区別する必要さえなくなって、人々は「神様・仏様」に祈り、成就しなければ「神も仏もあるものか」と嘆き、常に神と仏は一体である。

 本来別個の宗教である神と仏が合祀されていても、神棚と仏壇が並んでいても、何の不思議もない。

 私たちは一般に、正月は神社に、お盆はお寺に、お宮参りや七五三では神社を訪ね、葬儀はお寺に出向く、といった区別する。

 然し今日の葬儀や結婚式などの様式は、日本古来のものではなく、明治以後、比較的最近になって確立した習慣である。

 霊柩車は戦後に開発・普及したもので、それに合わせて今日の葬儀の様式ができ、現在、神前結婚式が主流を占めているが、神道式の結婚式を日本で最初に行った人は、大正天皇である。

 

 

 

9−神仏分離

 明治政府は明治元年(1868)に神仏分離令を出した。祭政一致の理念の下に、千年以上にわたって習合されてきた神と仏を明確に分離し、神道国家の道を歩み始めようとした。

 これは日本だけではなく世界の宗教史の中でも例のない大転換といえるものである。

 明治維新政府の打ち出した神仏分離政策は、複数の法令の総称である「神仏判然の令」によって具体化され、その骨子は次の如くである。

@−神社では仏像を神体としてはいけない。

  神社内にある梵鐘、鰐口、仏具等、仏教関係のものは除去す  る。仏教的建造物も撤廃する。

 

A−寺院が神社の祭祀に関与してはならない。

 神社での仏事は行わない。

 

B−従来、神社の管理・祭祀は別当とか社僧と呼ばれる下級僧侶  が行っていたが、それらは退職するか、またはその名称を神主、  社人等と改める。

   つまり、僧侶を廃業するか、廃業したのち神主・社人として再  就職する。

 

C−神社は権現、菩薩、牛頭天王などの仏教の名称を廃止する。

 

 要するに、神社から仏教的な色彩を一掃し、神と仏をはっきりと区別する、というもので、必ずしも廃仏毀釈が目的ではない。

 しかし、@−に関しては、その趣旨は徹底されなかった。一般民衆には廃仏毀釈と受け取られ、多くの仏像や仏具・経巻などが一揆か暴動のような荒々しさで破壊・焼却される場面もあった。

 お施布などで生活が圧迫されていたという腹いせもあったのだろうし、これを煽動するものもいた。

 中には、他の寺院への移管や競売により幸いにも保存された仏教文化財もあり、全体的に仏教界に大きな打撃を与え、多くの貴重な文化遺跡が失われた。

 B−の別当や社僧とよばれた神社担当の僧侶は、寺院の中で最も位が低く、なかには元山伏や乞食坊主などといわれていた者もいた。明治政府としてはその質的向上を図るために明治4年

(1871)に神職の世襲制を廃止して、人材登用を図った。

 C−については、例えば、祇園神社が、主尊を牛頭天王から素盞嗚命に換え、名称を八坂神社と改めた。熊野権現や春日権現なども名称を改めた。

 以上の神仏分離に加えて、明治4年には廃藩置県とともに社寺上知令が出され、境内の祭事法要に必要なる物を除いて社寺領が政府に没収されている。

 現在、一の鳥居が神社境内のはるか外側に立っているといった例を見かけるが、多くの場合、これは没収された社寺領にあったものが、そのまま残されたと解釈される。

 こうして、急激な大改革が進められる中では、政府の意図に反して廃仏毀釈の運動が地方にも広がった。寺院の廃合や神社の独立につれて、廃業する僧や廃業して神職に転換するもの、没収された社寺領の耕作許可を得て、百姓になる僧もいた。

 神仏分離令から数年で、殆どの神社から仏教的色彩が消え、神仏判然の令は廃仏毀釈を意味しないと、再三の政府発表や説明と相俟って、発令から数年後には廃仏毀釈の動きも収束に向かった。

 

 

10−色即是空

色即是空、空即是色

 色即是空空即是色とは、この世にあるすべてのものは因と縁によって存在しているだけで、その本質は空であるということ。

 また、その空がそのままこの世に存在するすべてのものの姿であるということ。

【補解】

 色即是空空即是色を説明すれば、「色」とは、宇宙のすべての形ある物質のことを謂い、「空」とは、実体がなく空虚であるということである。

 「即是」とは、二つのものが全く一体不二であることを謂い、総てのものは、永劫不変の実体ではないという。仏教の根本教理で『般若心経』にある言葉である。

【注意】

「色即是空」の区切りは「色、即是、空」、「空即是色」の区切りは「空、即是、色」である。

 

 

 

11−形而上者謂之道,形而下者謂之器(易経繋辞上)

(形よりして上なる者これを道と謂い、形よりして下なる者これを器と謂う)

 易経の繋辞上伝にある「形而上者謂之道 形而下者謂之器」という記述に依拠すると、「道」は、世界万物の本質、根源であり、形のないもの。その形のないものがいざ実体のあるものに変遷した場合、『易経』はその状態を「形而下」とし、その状態にある物質を「器」と呼ぶ。「道」は「器」の根源であるに対して、「器」は「道」の発展形で有ると説く。

【余談】

 1949年中華人民共和国建国以後、1952年に『矛盾論』の発表につづき、毛沢東はソ連の政治体制への不満が噴出した。スターリンなどの路線は、時代と環境の要素を加味できず、マルクス主義の単純コピー(「形而上学」、「教条主義」)だと強く批判した。

 さらにその直後の文化大革命において、毛沢東語録の一部として「形而上学」という語彙が「唯心論」という意味合いで新聞などで多用された。

 その影響により、「形而上学」は今日に至るも中国では一般的には貶す言葉として使用されている。

 形而上学は、哲学の伝統的領域の一つとして位置づけられる研究で、歴史的には、アリストテレスが「第一哲学」と呼んだ学問に起源を有し、「第二哲学」は自然哲学、今日でいうところの自然科学を指していた。

 形而上学における主題の中でも最も中心的な主題に存在の概念があるが、これは、アリストレスが第二哲学である自然哲学を個々の具体的な存在者についての原因を解明するものであるのに対し、第一哲学を存在全般の究極的な原因である普遍的な原理を解明するものであるとしたことに由来する。

 

 

 

12−視点を換えて 神と仏と・・・・・

12−1 発祥

 日本にも伝来の神々が居られ、それは「自然神」の場合と「朝廷の神」とあるが、何れにしても「日本の神」であった。

 ところが、朝鮮から「日本の朝廷に献上される」という形で日本に「仏教」が伝来してくると、この伝来の神々と仏教とは融合して仕舞った。それを一般に「神仏習合」と呼んで居る。

 この「仏教」と「神道」の習合の原因や仕方は様々だが、それを見ることは「日本人の神観念」を見る上で欠かせないので、此処ではそうした原因の中でも、特に特徴的と思われる場面を考察する。

 

12−2 仏教に期待された働き

 在来の神道に対して仏教が「外来・異質」のものとして輸入されたのではなく、「朝廷・貴族の守護神」という「神道の神」のように理解されて移入された・・・ということである。

 要するに、はじめから仏教は「神道の一部」の如き形で移入され、はじめから「仏」は「神の一人」と見なされていた。これは日本仏教を理解する上で非常に大事なことである。

 その神道的なものとは一言で言って、現世利益的な「繁栄・救済・保護」の願いを司るものということである。

 神道が「繁栄・守護」を目的としていたが、仏教もこうした働きのものとして受容され、発展していったのである。

 「仏教」というのは、発祥である本来のお釈迦様の段階では、悟りを開くのが目的だが、後世になって“仏に救っていただく”という思想も持つようになった。

 その「救済の力」が、「現世利益」が求められ、既に日本に入ってくる以前の仏教にも現世利益はあった。その現世利益は「守護力」に求められた。

 「病気や災厄からの守り」であり、これは一般庶民の願望と結びついて大衆化した。そしてもう一つが、「朝廷・貴族」が求めた「護国・鎮守」という形になる。

 こうして貴族たちは仏教を保護し、仏教の側も「勢力拡大」のため朝廷・貴族と結びついた。「護国・鎮守の呪術の仏教」というわけだが、こうした「災厄からの守り」を求める仏教というのは、仏教の展開史において、「庶民の仏教」を標榜して「民間信仰」と結びついて、「大乗仏教」運動で大きく推進されていった。

 

12−3 融合の経緯

 一般に「宗教は対立する」と考えられがちだが、それは「キリスト教やイスラーム」などがそうであるから謂われることで、古い昔の「民族の宗教」では対立ということは殆ど無かった。

 ギリシャとエジプトの神々も対立していないし、ローマの神々などはギリシャの神々と融合して仕舞った。それは「働きが同じ」だったからである。

 日本が「新来の仏教」と「在来の神」とを融合させたのも同じ理屈で、在来の神が新来の仏を、自分たちとおなじ働きのものとして扱ったからである。

 そして仏教の方も、「自分は全く神道とは異質のもので、働きも神道とは異なり、釈迦本来の教えである現世否定で出家を条件として修行で悟りを得ることが目的だ」などとは決して主張せず、むしろ「護国、守護」の呪術的なものだとして「神道と同じ土俵のもの」であることをを主張したので摩擦無く受容されたのである。こういった在り方が「神仏習合」である。

 本来の仏教は「悟りを開く」ことが目的で、「現世否定的」で、「出家=家・社会を捨てる」ことを要求し、「個人の魂の救済」を企図するものであったが、仏教が日本に移入された時には、表面上は現世利益に変容していたが、かといって「本来の仏教」が全く誤解されて仕舞ったという訳でもない。

 日本の仏教は、仏教本来の資質を後に取り戻しては居るが、これを当初から主張して仕舞うと、仏教は神道と真っ向から対立して仕舞うのである。

 仏教は長い歴史の中に変質し、大衆化し、その限りで「現世利益」的となり、またそうであることによって既に早い時期から「朝廷・貴族」とも結びついていた。

 しかも仏教が日本に着くまでには「中国・朝鮮」を経て、この間に仏教が相当に変質していることは当然であり、既に中国で「皇帝」のものとして「護国」的に働く側面を見せていた。

 勿論、一般大衆教化の働きも存在はしていたが、日本における仏教の受容が「朝廷」であったということは、移入された仏教の性質をよく語っている。

 つまり、はじめから仏教は「朝廷のもの」であったので、そうした「国家守護」という働きとしての仏教なので、当然「神道」の働きと同じなので、抵抗感なく受容されたのである。

 

12−4 仏教の伝来

 仏教の「公式な伝来」は欽明天皇の時代で『日本書紀』では552年と謂われるが、他の資料では538年で、一般的には538年説となっている。

 送り手は「百済の聖明王」で、つまり「朝廷」から「朝廷」へというものであった。勿論「渡来氏族」が仏教を早くからもたらしていた可能性はあるが、これについては何ら確かなことは分からない。

 仏教が移入されたとき、欽明天皇は『日本書紀』の記述によると、使者に対しては大喜びして「自分はいまだ嘗てこんな深遠な教えを聞いたことがない」などと言っているくせに、臣下たちに対しては「西国(百済)からもらった「仏」は、見た目は立派だけど、敬うべきなのか否か、どうだろうか」などと言っているのである。

 これに対して、蘇我稲目は「むこうではみんなが敬っているのですから、どうして日本だけが一人、これに背くことができましょう」と答えている。

 物部尾輿は「我が国では、王たるものは、常に許多の神々に一年中祭りをなすのを仕事としているので、今更蕃神(外国の神)などを礼拝したら、恐らく国の神々が怒ることでしょう」と言っている。

 この返事は、日本の神が「地域性」をもっていて「氏子」以外の者に祭られるのを喜ばないという性格から、ある意味で正当な答えである。

 そこで二つの答えに困った天皇は、「稲目が願っているのだから、試みに礼拝させることにしよう」ということにした。

【余談】

 このやりとりは結構面白いもので、まず天皇が、戸惑っている様子がみてとれる。この「仏」に対して評価を下せないということで、その原因は物部尾輿の言葉に明確に現れているように、この「仏」が「神」だと思っているからです。

 つまり、「仏」は「神」なので、礼拝すべきだが、「外国の神」だからその正体がよく分からず戸惑い、といったあらすじである。

 これはみんな同じ感情であるようで、そこで蘇我稲目は、やっぱり「神」なんだから礼拝すべきでしょう、と答えたわけですが、尾輿は「国の神」の方を大事にすべきだろう、と言ってきたわけです。

 こんな具合に 「仏」は本質的に在来の神のレベルで捉えられていることが明らかである。そして天皇は稲目に「試しに」礼拝させるというわけだが、何を「試して」いるのか。それは後の記述が明らかにしているが、要するに「幸いの招来、災害・害悪の防御」ということで、在来の神に期待されていたもと同じで、つまり「守護神」としての能力の大きさを試させたのである。

 結果は困ったもので、つまり、稲目が「仏」を祭ったところ、疫病が流行ってしまった。そら見たことか、と尾輿たちは天皇に申し上げて「仏」を海に捨てさせます。

 ところが今度は天変地異が起きてしまいます。そしたら今度は「海に仏を捨てた祟りだ」といった具合でした。右往左往です。こうして勝負がつきません。こういうことで、どうも「新来の仏」派と「在来の神」派との間で不穏な情勢が生じたようでした。これには多分に「政治的勢力争い」が根底にあったのでしょう。

 然し何れにせよ困った事態で、そこで586年に即位した用明天皇(欽明天皇の第四子)は「自分は仏法を信じ、神道を尊ぶ」というような言い方で和解の道を探ったようだが(『日本書紀』21巻)、結局だめで、蘇我馬子が物部氏を襲い、これを滅ぼしてしまった。

 こうして「力づく」で仏教の勝ちにされ、これ以降朝廷は「仏教色」に彩られることになるのだが、勿論この仏教は「護国・鎮守、幸いの招来」を旨とする「在来の神の仕事」をする仏教で、現世利益を目的とし、決して「出家して悟りを開き、魂の平安を得る」といったものではなかった。

 これは「聖徳太子」の場合も同様で、彼は「渡来した新しい神(つまり仏)」によって旧弊の朝廷政治の在り方を変えようとしたので、仏教教理に感動して「魂の救済」を志した訳ではない。

 この伝来時の状況の中で、「神の道」というのが大きく意識された。用明天皇の場面で「神道」という言葉が史上はじめて使用され、「神道」というものの存在が明確に意識されてきたのである。

 一方、こうなるには仏教の方がすでに「守護神」といった性格を持っていたことが原因であったわけだが、どうして仏教にそうした性格が持たされたのかも考えておく必要がある。

 つまり、仏教は確かにお釈迦様の場面では「悟りを開く」ものであった。これが歴史的に発展していったとき、先ずは朝廷・貴族のものとして「守護神」と捉えられ、さらに民衆段階に降りた時も「民衆の願い」に応えるものとなっている。

 何れにせよ「守ってくれる」という性格が要求されたので、「極楽浄土」の願望も、そのレベルでの「救済願望」だったのである。

 

12−5 民衆のものとしての仏教

 仏教が「民衆のもの」とされていく過程で、「大乗仏教運動」と呼ばれた。この運動は、従来の仏教は「出家」という特別な人たち向けのもので「民衆の仏教」ではないと考えられた。

 彼らにしてみれば、「有り難い教え」は当然「民衆の願い」と合致するものでなければならず、そうした性格は必然的に、「民衆の願い」は即ち「現世利益」への傾向を示してくることになる。

 つまり「大乗仏教」では、お釈迦様の段階の「悟りを得る」という目的より、「救済・守護」が主体となってくるわけで、極楽往生というのも、そうした性格のものであった。

 そしてもう一つが民衆の宗教である「民間信仰」との融合で、「民衆の宗教」を標榜する仏教が、民間の祈りを馬鹿にするわけにはいかない。

 むしろこれを取り込まなければならないことになり、仏教ではこうした民間の神々が取り込まれて「梵天」とか「帝釈天」とか「吉祥天」とかの、天部の仏となっていったのである。

 こんな具合に仏教自体がすでに「他の民間信仰と融合する」という性格を身に付けていたので、仏教が日本に伝来して神道と習合しても何ら不思議でもなく、むしろ普通のことであった。

 そして、日本に入って、確かに名前は「仏教」なのだが、その性格は多分に神道化されてしまっている現象が多く目につく。

【補解】

 現在でも目につくことの一例を挙げてみると「祖先崇拝」で、仏壇の中には位牌があって、人々は折りにふれてその先祖に法事と称する供養の儀式をするが、仏教の説くところでは「死者」は「仏界にめでたく成仏している」筈だから、そしてそのために高い「戒名代」を払ったのだから、今更供養などする必要はない筈である。

 仮に葬式を出さず、先祖の霊が「輪廻の輪」の中を彷徨っているとしても、今更「法事」をしたところでどうにもならないのである。

 盂蘭盆会は「地獄」に堕ちている母を救いとるための法事ではないかと言われれば、それは確かにその通りだが、これは中国で儒教の影響のもとに作られた話といわれ、それにしても「地獄」に堕ちているという想定のもとに「先祖の供養」をするというのは、随分先祖に対して失礼でもある。

 お盆で「先祖がお帰りになる」というのも変な話で、仏教では「先祖の霊は仏界にあって」二度とこの輪廻の苦しみの世界に戻ることはないし、仏界に行き損なっている場合にしても、六道の輪廻の中にいるのだから「帰って」こられる訳がない。

 これは、神道の「祖先崇拝」、つまり「祖霊」についての観念そのもので、先祖の霊は死んで何処かにいって仕舞うのではなく、山にあって「死霊」というまだ穢れた状態にあるのを、子孫が供養することで、だんだん穢れがとれ、やがて「祖霊」と浄化していくのだと謂い、依ってここでは「供養の儀式」は必要である。

 この供養は定期的に行われ、最後の供養が仏教で三十三回忌などと言われているのだが、これは「死霊が浄化される期間」のことで、「何回忌」などというのは、神道ではこんな呼び名はしないが、完全に神道の概念である。

 また、神道では当然先祖の霊は「帰って」来られるので、何故なら先祖の霊はどこか遠くに行ってしまうのではなく、死んで「山」に行き、そこで浄化を計って祖霊になるからである。

 この観念がそっくり仏教の名のもとで考えられているのだから、不思議といえば不思議だが、これが神仏習合の実体である。

 ちなみに葬式の時「塩」を振りかけるのも、神道の「死の穢れ」という観念からで、仏教本来のものではない。「忌中」とかそういった「物忌み」もすべて神道の習慣である。

 ちなみに神道では「死を嫌い」うのである。なぜなら死は「繁栄・健康」の「消失」であり、「力」の失いだからで、そのため「神道儀式としての葬式」は本来やらないものであった。

 仏教はその間隙をつくことができて、伝来以来「先祖供養の儀式」をやってやることで人々の心に食い込んでいったのである。

 今日、現代仏教のことを「葬式仏教」などとよんで馬鹿にしている人もいるが、日本ではもともとがそうだったので、この仏教の葬式に神道の観念が山ほど入り込んで仕舞っている。

 日常の宗教行事を掻い摘んで見れば、如何に神道を主体に仏教が受容されていったのかがよくわかる。

 以上のように一般の人々の仏教に対する態度というのは、「自分や家族の守護」と「先祖崇拝」という本来「在来の日本の神」に期待されていた働き以外の何者でもなかったのである。

 ただ「仏」という名前の「神様」の方が「強そうで御利益がありそう」ということでしかなかったと言える。これはまた「仏教受容のはじめ」の朝廷の態度でもあった

 こうした自覚は実は仏教のほうにもあって、それが仏教の側からの「神仏習合理論」となって現れてきた。これは通常、仏教が神道を取り込むための理論とされ、仏教主体の理論であるとされる。

 表向きはその通りだが、ちょっと考えてみれば分かるように、もし本当に仏教が勝利しているのであれば「神道」なんか「無視」してしまえばよいのである。

 事実、仏教が勝利した東南アジアでは、在来の民間信仰との「習合論」なんか全く作られなかったし、キリスト教やイスラームの場合でも、在来宗教との習合論は試みられなかった。これは日本仏教のみの現象なので、実に、ここにこそ「日本仏教の特殊性」がみてとれる。

 神仏習合理論として体系だったものは鎌倉時代の、真言宗による「両部神道」、天台宗による「山王神道」などが知られているが、すでに平安時代には「本地垂迹説(仏が「仮に神の姿」となって日本に現れてきたもの、とする説)」が唱えられていた。

 仏教側の理論なので、当初は勿論「仏」が主体で、これが極端な形になって現れたのが、奈良時代に入って、「神身離脱説」と呼ばれる説で、これは字の通り、「神の身からの離脱」ということである。

 神はこの地にあって迷い苦しむ衆生の代表で、神も衆生と同様に苦しみ、神も苦しみの身から仏の力によって、「そこから脱却」しよう、という説である。

 こうして各地の神社に「神宮寺」が建てられ、神の前でお経が読まれたりした。何とも情けない状況に立たされてしまった「日本の神様たち」であった。

 しかし、朝廷側としては「神様の力」も侮り難いと思って、奈良時代の後半に称徳天皇は、神は仏法を守護すべき善なる「守護神」であるとして、「神様」を「復権」させた。

 こういう「復権」がはっきりみえるのが「奈良の大仏」の建立の場面で、この時それを助けるため、宇佐の八幡神が近くの京都に呼ばれてきた。(これを「勧請」といいます)

 大変な難事業である「大仏」の建設に、矢張り強力な助っ人が必要とされ「八幡様」が選ばれた、というわけである。

 こうして「仏法」を守護する「神」という位置づけが確立し、「鎮守神」という性格を示してくるようになった。

【余談】

 これは面白い現象で、これをたとえばギリシャの神とキリスト教にたとえると、ゼウスやアポロンなどが「イエス・キリスト」の教会の傍らに神殿を持って、「イエス様をお守りしている」というような格好になって仕舞う訳である。

 また言い方を変えれば、例えば「サッカーのゴール」を、野球のミットを持った「キャッチャー」が守っているようなものである。

 

 然しこんなことが「神と仏との間」には成立して仕舞う訳で、仏がどんなにか「神」と同質と思われていたかがよくわかる。

 こういう中で「神像」などが作られ、貴族の姿をしたものや「僧形」のものなども作られた。然しその像は「如来」でもなく、「菩薩」でもなく、「明王」とも「天部」とも違うと思われたせいか、「神像」は一般化しなかった。

 このあたり「神」というものの捉えが、揺れ動いていて、つまりどうも「仏」と同じようには扱えない、特殊な性格を特別にもっている存在と捕らえているようである。

 それは、日本の神々は「自然そのもの」を表しているため、「人間的な姿・形として捕らえられない」という性格をもっていたからだと考えられる。

 それはともかく、こうした理解が平安時代になって「本地垂迹」説を生み出し、これは簡単に言えば、「仏」が本体なのだが、これが日本の地に現れた時には「神様」の姿をしているというもので、姿は違えども「本体そのものとしては変わらない」というわけである。

 ただし、例えば「伊勢神宮」の「本地」は「大日如来」である、などという主張になるので、ニュアンスとして「大日如来」の方が「本物」で「神」の姿は「仮の姿」という主張があって、まだ「仏様」の方が「上だぞ」という含みは残している。

 この「仮の姿」というのが「権現」様というわけで(権化も同じ意味です)、仏教の側からみた「神様」の在りようなのであった。

 因みに「明神様」というのは、逆に「神道」の立場から「優れた神」を言う場面のもので、「名人」ならぬ「名神様」である。

 中世以前は「名神」と表現され、中世以降「明神」と表現されているもので、これはつまり「権現」という言い方にカチンときた「神道側」の抵抗であろう。

 依って「吉田神道」ではこの「大明神号」の優位性を主張し、この号の使用を大々的に行っている。

 面白いのは、豊臣秀吉は死後「豊国大明神」と呼ばれることになったのに対し、徳川家康は「東照大権現」と呼ばれている。

 これは家康のブレーンであった天海が天台宗の僧侶だったからであろう。

 この「本地垂迹」説は天台宗などが「老子」の思想を借用して、「和光同塵」といった思想で流行らせて、一般化していったようである。

 「和光同塵」というのは、本来は「優れて賢き人がその知恵なる光を和らげ隠して塵なる俗世と交わる」というような意味であるが、ここでは「仏がその身を和らげ、つまり姿を換えてこの俗世に現れ、衆生を救う」というものである。

 ところが一方で,宮中の「神事」においては「仏教儀礼」を廃止すべきという主張が現れている。もっともこれには悪名高い坊主「弓削の道鏡」などが宮中を引っかき回したことなども原因としてあるかもしれない。

 少なくとも宮中では「神仏隔離」の方針がとられ、こんな具合に「神仏」の関係は相当に「入り乱れた」状況になった。

 

12−6 確執

 こうした経緯を踏まえて、鎌倉時代になり仏教側から「天台宗」の「山王神道」が、真言宗からは「両部神道」が唱えられ、負けじと「神道」の側からも「伊勢神道」などが提唱された。依ってこの発端はすでに平安時代に遡る事が出来る。

 山王神道とは、「比叡山」を中心として「本地垂迹」説を展開したもので、両部神道は「伊勢神宮」の在り方を「真言密教」の曼陀羅の世界で説明することで、日本の代表的神社である伊勢神宮も「仏」の世界のものにほかならない、ということを主張した。

 これに対する神道側の理論である「伊勢神道」は、神仏隔離の根本に立ちながらも、世界観的には両部神道を逆転したようなもので、「伊勢神宮」が宇宙の中心であることを主張した。

 しかしこれらは「学説」としてそれぞれ継承はされ、それが貴族・神官などの文化に影響を与えることはあったが、一般庶民の間には流布しなかった。

 一般庶民にとっては「神も仏も同じ事」で、それらを「隔離」すべきだとか、どっちが「本体」だとかはどうでもよかったのである。「難しいこと」は「偉い人たち」の頭の中のことで、自分たちには関係ない、といったところである。

 その、同じと見られたものは、両者とも「現世利益的」功利をもたらす「力」であったことである。

 またもう一つ、「仏になる」という仏教本来の思想と見られるものも、「祖霊」信仰の筋道にあると言えるわけで、これはある意味で「仏になる」過程と比肩できるものを持っているといえる。

 つまり、日本仏教では「草木すべて仏性を持つ」という思想があり(これを本覚思想といいます)、すべての人間はそのものとして「仏」の性を持っている。

 そしてこれは、「仏様に同化する」という形で考えられているので(密教では大日如来に、浄土宗では阿弥陀如来の浄土に)、これは「祖霊」信仰と重なっていると考えられる。

 「人間が神になれる」という思想は「神道」には確実にあり、それが、例えば「菅原道真」の「天神様」とか、秀吉の「豊国大明神」、家康の「日光大権現」をはじめ、明治時代にも乃木大将の「乃木神社」、東郷元帥の「東郷神社」などになり、また一般庶民の中からも「不遇」のうちに死んだものが「祟り」を恐れられて「神」として祭られているのをさまざまの地方で観察することができる。

 こうした「神化」の思想と「成仏」の思想がうまく符号したわけで、仏教は日本の風土の中にうまくとけ込んで、独特の「日本仏教」として発展していったのではないかと考えられる。

 

 

 

13−釈迦

13−1 生涯概略

 釈迦は紀元前5世紀頃、シャーキャ族王・シュッドーダナ(漢訳名:浄飯王)の男子として、現在のネパールのルンビニにあたる場所で誕生した。

 王子として裕福な生活を送っていたが、29歳で出家し、35歳で正覚(覚り)を開き仏陀(覚者)となった(成道)。まもなく梵天の勧めに応じて、釈迦は自らの覚りを人々に説いて伝道して廻った。南方伝ではヴァイシャーカ月の満月の日に80歳で入滅(死去)したと言われている。

 

13−2 誕生

 十六大国時代のインド(紀元前600年)釈迦はインド大陸の北方(現在のインド・ネパール国境付近)にあった部族・小国シャーキャの出身である。

 シャーキャの都であり釈迦の故郷であるカピラヴァストゥは、現在のインド・ネパール国境のタライ(tarai)地方のティロリコート(Tilori-kot)あるいはピプラーワー(Piprahwa)付近にあった。

 シャーキャは専制王を持たず、サンガと呼ばれる一種の共和制をとっており、当時の二大強国マガタとコーサラの間にはさまれた小国であった。釈迦の家柄はr?jaラージャ(王)とよばれる名門であった。

 このカピラヴァストゥの城主、シュッドーダナを父とし、隣国の同じ釈迦族のコーリヤの執政アヌシャーキャの娘・マーヤーを母として生まれ、ガウタマ・シッダールタと名づけられた、とされている。

 ガウタマ(ゴータマ)は「最上の牛」を意味する言葉で、シッダールタ(シッダッタ)は「目的を達したもの」という意味である。ガウタマは母親がお産のために実家へ里帰りする途中、ルンビニの花園で休んだ時に誕生した。

 生後一週間で母のマーヤーは亡くなり、その後は母の妹、マハープラジャパティー(パーリ語:マハーパジャパティー)によって育てられた。

 当時は姉妹婚の風習があったことから、マーヤーもマハープラジャパティーもシュッドーダナの妃だった可能性がある。

 釈迦は父親シュッドーダナらの期待を一身に集め、二つの専用宮殿や贅沢な衣服・世話係・教師などを与えられ、クシャトリヤの教養と体力を身につけ、多感でしかも聡明な立派な青年として育った。

 16歳で母方の従妹のヤショーダラーと結婚し、一子、ラーフラ をもうけた。なお妃の名前は、他にマノーダラー(摩奴陀羅)、ゴーピカー(喬比迦)、ムリガジャー(密里我惹)なども見受けられ、それらの妃との間にスナカッタやウパヴァーナを生んだという説もある。

 

13−3 出家

 私生活において一子ラーフラをもうけたことで、29歳の時、12月8日夜半に王宮を抜け出て、かねてよりの念願の出家を果たした。

 出家してまずバッカバ仙人を訪れ、その苦行を観察するも、その結果、死後に天上に生まれ変わることを最終的な目標としていたので、天上界の幸いも尽きればまた六道に輪廻すると悟った。

 次にアーラーラ・カーラーマを訪れ、彼が空無辺処(あるいは無所有処)が最高の悟りだと思い込んでいるが、それでは人の煩悩を救う事は出来ないことを悟った。

 次にウッダカラーマ・プッタを訪れたが、それも非想非非想処を得るだけで、真の悟りを得る道ではないことを覚った。

 この三人の師は、釈迦が優れたる資質であることを知り、後継者としたいと願うも、釈迦自身はすべて悟りを得る道ではないとして辞した。

 そしてウルヴェーラの林へ入ると、父・シュッドーダナは釈迦の警護も兼ねて五比丘といわれる5人の沙門を同行させ、出家して6年(一説には7年)の間、苦行を積んだ。

 減食、絶食等、座ろうとすれば後ろへ倒れ、立とうとすれば前に倒れるほど厳しい修行を行ったが、心身を極度に消耗するのみで、人生の苦を根本的に解決することはできないと悟って難行苦行を捨てたといわれている。

 

その際、この五比丘たちは釈迦が苦行に耐えられず修行を放棄したと思い、釈迦をおいてムリガダーヴァ(鹿野苑)へ去ったという。

 そのご幾つかの体験を経て悟りを開いた。

 以下省略

 

 

 

写真をご覧になれば、仏教の本質が自ずとお解り頂けます

 

 

14−坂東観音霊場

14−1 簡単な謂われ

 扨て坂東巡礼について簡単に述べると、昔、足柄山や箱根の東一帯は坂東と呼ばれており、その坂東の武者たちは、源平の合戦に九州にまで歩みを進めた。

 源平の戦いの後、敵味方を問わない供養や、永い平和への祈願が盛んになり、源頼朝の篤い観音信仰と、多くの武者が西国で見聞した西国三十三観音霊場への想いなどが結びつき、鎌倉時代の初期に坂東三十三観音霊場が開設された。

 やがて、秩父三十四観音霊場を加えた日本百観音霊場へと発展し、今日に至っている。

 

 

 

14−2 昔の謂われ

 花山法皇との縁有る坂東札所のうち、約十カ所の霊場花山法皇が巡り、其れが札所に指定されたと縁起に記している。たとえば永禄三年(1560)に書かれた『杉本寺縁起』には、「永延二年戌子の春、忝も法皇御順礼の勅命有て、当山を以て坂東第一番と定め御順礼有り、夫より今に至るまで貴賎の順礼絶せずとなり」と記されている。

 また、沙門亮盛が江戸時代に著わした『坂東観音霊場記』には、花山法皇が大和長谷寺に詣で、暁に祈念しておられると、香衣の老僧があらわれ、「我れ坂東八州に於て身を三十三所に現ず。其の能く霊場を知るは河州石河寺の仏眼上人なり。彼と倶に坂東巡礼を始行してあまねく道俗男女を導くべし」とのお告げをうけたとも書かれている。

 これらの資料から謂えることは、坂東札所は花山法皇によって巡られたのを、その嚆矢としていることであり、その伝承を少なくとも江戸時代までは信じていたということである。

 

 

 

14−3 成立の実質

 然し、史実のうえでは花山法皇が関東に下向されたとは信じ難いので、これはあくまでも西国札所の場合と同じように、札所の権威づけを意図したものといえよう。

 また、この考え方のうちに坂東札所そのものが、どこまでも西国札所に倣って行われたものであることが示されているとも謂える。所謂西国札所の地方移植の一つが坂東札所なのである。

 源頼朝・実朝が信仰していた西国三十三観音巡礼の信仰が、坂東に及び、やがて札所が形成されたのは何時頃か?現在その経過を明らかにする史料はない。

 然し直接の契機は、鎌倉幕府の成立と将軍家の観音信仰にあったと云われ、頼朝が将軍であった頃に、その気運が起こり、実朝のときに機が熟して制定されたのではあるまいかと云うのである。

 坂東札所が第一番を鎌倉の杉本寺とし、鎌倉・相模それに武蔵に札所の多いこと(これは戦乱によって退転した武相の寺院を保護しようとした頼朝の政策を反映しているが)、そして安房の郡古寺を打ち納めとしているなど、鎌倉居住者に巡拝の経路が好都合など、鎌倉期成立説に妥当性を与えている。

 この時代、三浦半島あたりから上総や安房へ通ずる海上交通は発達していたので、容易にこの順路は考えられる。

 さて、頼朝が極めて熱心な観音信者であったことは、『吾妻鏡』によって知られる。伝説ではあるが、伊豆横道の三十三カ所の創始者に頼朝が擬せられていることは、頼朝が札所信仰に全く無関心な人なら創られない話であろう。

 また、実朝も屡々岩殿寺へ参詣しており、元禄頃の記録には「実朝公坂東三十三番札所建立」と明記されている。

 そして、この時期における坂東札所の創始を側面から促したのは、関東武士たちが平家追討などで西上した折、直接に西国札所を見聞し、信心を探めたことにあるといわれている。

 更に云えば関東武士・土豪の間に、この頃、熊野参詣が行われており、巡礼への気分が高まっていたことも一因といえる。なお、浄土教の関東伝播に対し天台・真言寺院の自衛策の一環として、観音信仰が鼓吹されたのにも由るという。

 勿論、この頃すでに関東の地にそれだけの観音霊場が開かれていたので、その組織化が可能であったと云える。では誰が、いつ、どこで三十三カ所の霊場に連帯意識をもたせたのであろうか。

 建久三年(1192)後白河法皇の四十九日の法要を、鎌倉の南御堂で頼朝が行った時に、武相の僧侶百名が招かれた。

 そのうちに杉本寺・岩殿寺・勝福寺・光明寺・慈光寺・浅草寺、所謂のちに坂東札所となった寺から二十一名が集まっている。

 或いはこの時に観音系寺院による札所制定への協議が為されたかも知れぬ。それに積極的に協力したのが杉本寺の浄台房・慈光寺の別当厳耀・弘明寺の僧長栄であったと推考されている。

 ここで注意したいのは、関東八カ国に散在する三十三カ所の観音霊場を巡拝する者にとって、まず全行程が障害なく巡ることができるという保証である。

 それには各国が強力な支配者によって統制されていることが必要であり、国から国への旅を無条件で許してくれる政治態勢が不可欠である。その意味からしても、坂東札所は鎌倉幕府の成立をみて、初めて可能な事であったと謂えるのではなかろうか。

 

 

秩父三十四観音板東三十三観音四国八十八霊場七福神先頭へ戻る八百万の神々填詞仏教神道キリスト教ユダヤ教イスラム教

 

 

起稿に先立って

 坂東33観音霊場の所在地は、松戸市から同心円上に位置し、その距離は車で日帰りできる範囲で、差ほど遠方ではない。朱印帳への記載はないものの、殆どの霊場は既に幾度か訪れている。

 因って坂東33観音霊場は、既に朱印帳記載以前にも訪れた経緯があり、次いで朱印帳を携えて訪れ、更に本稿執筆に当たり再確認のために急遽訪れたので、都合三度以上は訪れたことになる。

 だが記憶の濃淡は、経過歳月には差ほど関わらない。つい先月再訪した記憶と20年前の記憶と、どちらが鮮明かと謂えば、20年前の方が鮮明に覚えていることは、決して珍しいことではない。

 ただ本稿では、行程を克明に述べることが目的ではない。色々書いてみたい!と謂うのが本音で、記憶を頼りに筆を遊ばせた!

 記憶を頼りに筆を進めることが多いので、朱印帳の日時と文面とが一致しないことはあるが、其れは誤謬の範疇ではない。

【屁理屈】

 坂東観音霊場には鎌倉幕府が大いに関わっている

群馬県渋川16番水澤寺

 

第2章 観音経

注;中國では日本で謂うところの“中国語”のことを、“漢語”と謂うのだが、日本では一般に“漢語”のことを“中国語”と謂っている。然し此の書冊では日本の習慣に倣って、漢語のことを中国語、古典漢語のことを古典中国語と書いた。

 私は世間一般に謂うところの宗教心が有るわけではないが、習慣としての宗教行為はある。則ち神棚と仏壇を祀り、飯と水を供え、香を焚き手を合わせたりもする。

 友人に霊場巡拝の話をしたら、巡拝の度に観音経を唱えた方か良いよ!と謂われた。

 経文は古典中国語で書かれて居るので、現代中國詩詞壇諸賢と交流を為していた著者からすると、経文に何が書いてあるかは直ぐに読み取れる。

 日本人が経文を唱える場合、古典中国語で書かれているのだから、差し当たり中国語発音で読むものだと思っていたが、日本での現実は、日本語発音で読むのである。

 斯くの如く意味不明(漢語でも日本語でもない)の経文を唱えるという行為が、果たして宗教教育を受けたことのない私の如き凡夫に、如何ほどの修養を齎のか聊か疑問を感じていた。

 疑問を感じているばかりでは能がない!其処で経文をどの様に唱えるかを、先ず中国語読みで併音を付けてみた。

 だが此では日本で通常耳にする読経には、程遠い響きに成って仕舞った。其れならばと、古典中国語を日本語読みで読む(此は中国語でも日本語でもない宗教家の専門語)ように振り仮名を付けてみた。此で日常耳にする読経とほぼ同じになった。

 次いで何が書かれているのか日訳したのだが、結果として宗教とは程遠い内容に成ってしまった。宗教素養のない著者には、宗教者の意図するするところの翻譯を付けることは不可能なので、宗教解説書の文言を丸写にした。

 これら試行錯誤の行為が、果たして書冊を漁りキーボードを打つ作業だけで終わって仕舞ったのか?・・・・・と、漠然として居る。

 ただ言えることは漢語としての翻訳も宗教者の翻訳も、何れの翻訳でも著者の如き凡夫には意味不明の内容である。

 

 観音経

 観音経は法華経(妙法蓮華経)の中の25品目にあるお経で、観音経には不思議な力があるといわれている。真の信心をもって観世音菩薩の名を一心に唱えたり、観音経を唱えるならば、すべての苦悩から解放され、また、よい子供が授けられ、観音経の写経も功徳があると謂われている。

 観音経

 

 妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈

 

 世尊妙相具 我今重問彼 佛子何因縁名為観世音

 世尊は完全な徳を具えられ、その徳が相に現れています。私は重ねてお尋ねしますが、お釈迦様のお弟子であり、佛子である観世音菩薩は何の因縁があって、観世音と名づけられるのでしょうか。

 

 具足妙相尊 偈答無盡意 汝聴観音行善応諸方所

 立派な相を具えられているお釈迦様は偈(詩)をもって無尽意菩薩に言われました。

 汝よく聞くがよい。観世音菩薩の修行は色々な人の境遇や事情に合わせて諸々の方便でもって三十三身に変化して一切の人を救ってきた。

 

弘誓深如海 歴劫不思議 侍多千億佛発大清浄願

 その海のような深い誓願は、普通の人が非常に永い間考えても考えきれないほどである。大勢の仏様のもとで修行し、このような大清浄の誓願を起したのである。

 

 我為汝略説 聞名及見身 心念不空過能滅諸有苦

 (お釈迦様)は汝のために簡単に説こう。観世音の名を聞き、観世音の姿を見て、観世音を念じて(観世音の慈悲の行いを見たり、その徳を心で念じる)空しく過ごさなければ、諸々の苦しみを滅ぼすことができるであろう。

 

 假使興害意 推落大火坑 念彼観音力火坑変成池

 たとえ誰かが害をあたえようと火の燃えている大きな坑に突き落とされようとしても、かの観世音菩薩の力を一心に念じるならば、火坑も変じて池となるであろう。

 

 或漂流巨海 龍魚諸鬼難 念彼観音力波浪不能没

 或いは、大海に漂って、竜や魚や諸々の鬼が自分を害するようなときでも、かの観世音菩薩の力を念じるならば、波の中に溺れ沈むことはない。

 

或在須弥峰 為人所推堕 念彼観音力如日虚空住

 或いは、須弥山の高い山の上で、誰かに突き落とされるようなときでも、かの観世音菩薩の力を念じるならば、太陽のように虚空に住するであろう。

 

 或被悪人逐 堕落金剛山 念彼観音力不能損一毛

 或いは、悪人に追われて金剛山から落とされようとしても、かの観世音菩薩の力を念じるならば、毛筋一本でも害を与えることはできない。

 

 或値怨賊繞 各執刀加害 念彼観音力咸即起慈心

 或いは、心に怨みを抱く悪い者が周りを囲み刀で害を加えようとしても、かの観世音菩薩の力を念じるならば、その者達がかえって慈悲の心を起して害を加えることはないであろう。

 

 或遭王難苦 臨刑欲寿終 念彼観音力刀尋段段壊

 或いは、政治上の迫害に遭って処刑されて寿命が終わってしまうという時でも、かの観世音菩薩の力を念じるならば、首を斬ろうとした刀がばらばらに折れるであろう。

 

 或囚禁枷鎖 手足被?械 念彼観音力釈然得解脱

 或いは、鎖で牢に繋がれ、手かせ足かせをつけられても、かの観世音菩薩の力を念じるならば、それが取れて身体が自由になるであろう。

 

 呪詛諸毒薬 所欲害身者 念彼観音力還著於本人

 或いは、呪いや毒薬のために害されようとしても、かの観世音菩薩の力を念じるならば、返ってその呪いや毒薬は使用とした本人が害を受けてしまうことになるであろう。

 

 或遇悪羅刹 毒龍諸鬼等 念彼観音力時悉不敢害

 或いは、悪鬼や毒蛇に出遭っても、かの観世音菩薩の力を念じるならば、害されることはないであろう。

 

若悪獣圍繞 利牙爪可怖 念彼観音力疾走無邊方

 或いは、悪獣に取り囲まれ鋭い爪や牙などで迫ってきても、かの観世音菩薩の力を念じるならば、忽ち遠方に行って仕舞うであろう。

 

 ?蛇及蝮蠍 気毒煙火燃 念彼観音力尋聲自回去

 或いは、トカゲ、蛇、マムシ、さそりのような毒虫が毒を出し迫ってきても、かの観世音菩薩の力を念じるならば、その声にしたがって逃げ去っていくであろう。

 

 雲雷鼓掣電 降雹?大雨 念彼観音力応時得消散

 或いは、雷が太鼓のように鳴り響くとか、稲妻が光るとか、雹が降ってくるときでも、かの観世音菩薩の力を念じるならば、たちまち静まって害をうけることはないであろう。

 

 衆生被困厄 無量苦逼身 観音妙智力能救世間苦

 大勢の人びとが色々な困難に遭い、そのはかりしれない苦しみが身に迫ってきた時、観世音菩薩の最も優れた不思議な智慧の力(観音さまは菩薩の行を積んだ結果として仏さまと同じ智慧の力をもたれている)によって、大勢の人を世間の苦しみから救っている。

 

 具足神通力 廣修智方便 十方諸国土無刹不現身

 観世音菩薩は神通力を具えて、広く方便の智慧を修めており、十方の諸々の国土にその姿を現さない所はないのである。

 

 種種諸悪趣 地獄鬼畜生 生老病死苦以漸悉令滅

 観世音菩薩は色々な悪趣におもむき、地獄、餓鬼、畜生、生老病死の様々な苦しみを次々救っていくであろう。

 

 真観清浄観 廣大智慧観 悲観及慈観常願常瞻仰

 観世音菩薩は煩悩のない清浄なものの観方で、真実のことを観極め、広大な智慧と大悲観と大慈観が具わっている。汝らも常にそのようになるように仰ぎ願うようにしなければならない。

 

 無垢清浄光 慧日破諸闇 能伏災風火普明照世間

 観世音菩薩は少しの汚れもなく清浄の光を放っているので、その広大な太陽のような智慧で諸々の闇を破り、世間の災いも苦しみも普く照らし救っていくのである。

 

 悲體戒雷震 慈意妙大雲 ?甘露法雨滅除煩悩?

 仏の授ける戒(殺してはいけない、盗んではいけない、嘘をついてはいけない等の戒律)は、一切の人を救いたい、一切の人を凡夫の境界から離れさせて仏と同じ安穏な境界にならせてあげたいという大悲心からでている。観世音菩薩は仏と同じ大悲心をもっているので、その戒は雷のように大きな力をもって人々を戒めるが、それは大悲心が本体である。また大勢の人を救いたいという大きな慈悲心は大空一面に覆う雲のように汝らの上に降り注ぎ、その慈悲と智慧に感化されて汝らの迷いのもとである煩悩もなくなっていくのである。

 

 諍訟経官処 怖畏軍陣中 念彼観音力衆怨悉退散

 もし、他人と争いを起して裁判を受けたり、戦いが起こってお互いに恐ろしい目に遭う時でも、かの観世音菩薩の力を念じるならば、色々な敵も退散してしまうであろう。

 

 妙音観世音 梵音海潮音 勝彼世間音是故須常念

 観世音菩薩は、あらゆる人々の心の発する音にしたがってそれぞれに適切な優れた教え(妙音)を説く。その優れた教えは煩悩のなくなった清浄な心(梵音)で、すべての人々の心に海の音が響くように伝わっていく。世間を超越した仏や菩薩は世間の人々の迷いを取り除く教えを与えているのである。この故に常に観世音菩薩を心に念じて、

 

 念念勿生疑 観世音浄聖 於苦悩死厄能為作依怙

 一瞬たりとも観世音菩薩を疑ったりしてはいけない。観世音菩薩は心が清浄な聖者であり、人々が苦しみや悩み、死などに出遭った時に心の頼りとなるのである。

 

 具一切功徳 慈眼視衆生 福聚海無量是故応頂礼

 観世音菩薩は一切の功徳を具えており、すべての人々を慈悲の眼で温かく見守っているのである。一切の人々を救おうという大慈悲心の功徳は海の水のように無量である。この故に、まさに一心に礼拝して汝らの模範とせよ。

 

 爾時 持地菩薩 即従座起 前白佛言世尊

 

 その時、持地菩薩という菩薩様が座より立ち上がってお釈迦様に申し上げました。

 

 若有衆生 聞是観世音菩薩品自在之業

 もし人々が今お釈迦様が説かれた観世音菩薩の自由自在の慈悲の働きと、

 

 普門示現 神通力者 当知是人功徳不少

 どんな人も見放さず相手に応じて自らその前に現れて教えを与える神通力について聞いた功徳は非常に大いなるものです。

 

 佛説是普門品時 衆中八萬四千衆生 お釈迦様がこの観世音菩薩のお話をされた時に、

 

 皆発無等等 阿耨多羅三藐三菩提心

 その場にいた八万四千人の人々は皆、一番勝れた最高の悟りの心を起しました。

 

 

 

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第3章 御詠歌

 観音巡礼をしていると、今まで知らなかった言葉に遭遇する。巡礼をしている以上、概略の知識は必要で、話しかけられたとき、何も識らないと会話に窮してしまう。

御真言とお経

 真言とは仏教の経典の中に書かれているサンスクリット語(インドの言語の一つ)の呪文のことで、真言を唱えることで、発願を仏に直接働きかけることができるといわれていそうです。

 少し長めの真言を陀羅尼といいますが、古来より真言や陀羅尼は様々な霊験談があり、真言宗(東密)や天台宗(台密)などの真言密教だけではなく、一部を除く多くの仏教宗派でも唱えられているようですが、著者にはそれ以上のことは判りません。

 

Om hrih gah hum svaha

オン キリク ギャク ウン ソワカ(真言宗系)

オン キリ ギャク ウン ソワカ(天台宗系)

 

Om gah gah hum svaha

オン ギャク ギャク ウン ソワカ

 

Om lokesvara hrih

オン ロケイ ジンバラ キリク

 

Om maha karunikaya svaha

オン マカ キャロニカ ソワカ

 

om amogha vairocana

オン アボキャ ベイロシャノウ 

 

maha-mudra mani padme

マカボダラ マニ ハンドマ

 

jvala pravartaya hum

ジンバラ ハラバリタヤ ウン

 

 

般若心経は

 『大般若波羅蜜多経』(大般若経)のエッセンスをまとめたお経で、古来から写経や読誦など、多くの人々の信仰を集めてきました。

 内容的には、主に観自在菩薩(観音菩薩様が)舎利子に対して、この世界の実相を語っているもので、「色即是空 空即是色」という部分が有名です。

 

観音経は

 全二十八品(品は章の意味)から成る『法華経』の中の第二十五品の別称で、日本では般若心経の次にポピュラーなお経です。

 内容的にはお釈迦様が、観音菩薩の功徳について語っているもので、観音菩薩の名を称えたり、観音菩薩の力を観想したりすると、この世の様々な災厄から救済される功徳があると説いています。

 観音経の中には「世尊妙相具〜」で始まる偈文(詩の部分)が含まれており、この偈文を読むと全文を読むのと同じ功徳があるとされているので、観音経偈として、ここの部分と最後の部分だけを読むことが多いようです。

 

御詠歌

 ご詠歌とは、仏教の教えを五・七・五・七・七の和歌にして、旋律(曲)に乗せて唱えるものです。日本仏教において平安時代より伝わる宗教的伝統芸能の一つで、五七調あるいは七五調の詞に曲をつけたものを『和讃』と呼び、広い意味では両者を併せて『ご詠歌』として扱います。

 

 御詠歌の起源として一般には花山法皇の西国巡礼時に始まったとされるが、観音三十三所諺註が最初とするものも有力です。

 使用される道具は浄土宗を例に挙げると、鈴、鉦鼓などがあげられます。

 かつては田舎を中心に本家に集まり、どの家からも木柾や木魚などの音が聞こえ賑やかだったが(御詠歌を上げる日は、その家や一族にとって祭り同然であるため、ご詠歌の後にも騒いだりする)、近年では宗教の解釈や伝統の断絶、それに伴い騒音への誤解や苦情、改宗や無宗教により、旧家くらいでしか見られなくなりました。

 然し一方、現在でも四十九日の法要までは家族や縁者が毎日、詠唱する地域・宗派もあと聞きます。

 御詠歌にも流派が有るようで、様々な「宗派」により、また宗派の中の様々な「流派」により、極めて多岐にわたる流派が存在し、代表的な流派として以下が挙げられます。

 

真言宗系

真言宗系−大和流

高野山真言宗−金剛流

真言宗智山派−密厳流

真言宗豊山派−豊山流

真言宗東寺派−東寺流

 

浄土宗系

浄土宗系−吉水流

浄土宗西山派−西山流

 

臨済宗系

臨済宗妙心寺派−花園流

臨済宗南禅寺派−独秀流

臨済宗円覚寺派−鎌倉流

臨済宗建長寺派−鎌倉流

臨済宗東福寺派−慧日流

 

曹洞宗系

曹洞宗系−梅花流

 

 

坂東33観音御真言と御詠歌

第一番札所  大蔵山 杉本寺 十一面観世音菩薩

   御真言 おんまか きゃろにきゃ そわか

   御詠歌 頼みある しるべなりけり 杉本の

       誓いは末の 世にもかわらじ

 

第二番札所 海雲山 岩殿寺 十一面観世音菩薩

   御真言 おんまか きゃろにきゃ そわか

御詠歌 たちよりて 天の岩戸を おし開き

       仏をたのむ 身こそたのしき

 

第三番札所 祇園山 安養院田代寺 千手観世音菩薩

   御真言 おん ばざら たらま きりく

御詠歌 枯樹にも 花咲く誓い 田代寺

       世を信綱の 跡ぞ久しき 

 

第四番札所 海光山 長谷寺 十一面観世音菩薩

   御真言 おんまか きゃろにきゃ そわか

   御詠歌 長谷寺へ まいりて沖を ながむれば

       由衣のみぎはに 立つは白波

 

第五番札所  飯泉山 勝福寺 十一面観世音菩薩

   御真言 おんまか きゃろにきゃ そわか

   御詠歌 かなはなば たすけたまえと 祈る身の

       船に宝を つむはいいづみ

 

第六番札所  飯上山 長谷寺 十一面観世音菩薩

   御真言 おんまか きゃろにきゃ そわか

   御詠歌 飯山寺 建ちそめしより つきせぬは

       いりあい響く 松風の音

 

第七番札所  金目山 光明寺 聖観世音菩薩

   御真言 おん あろりきゃ そわか

   御詠歌 なにごとも いまはかないの 観世音

       二世安楽と たれか祈らむ

 

第八番札所  妙法山 星谷寺 聖観世音菩薩

   御真言 おん あろりきゃ そわか

   御詠歌 障りなす 迷いの雲を ふき払い

       月もろともに 拝む星の谷

 

第九番札所  都畿山 慈光寺 十一面千手千眼観世音菩薩

   御真言 おん ばさら たらま きりく

   御詠歌 聞くからに 大慈大悲の 慈光寺

       誓いも共に 深きいわどの

 

第十番札所  巌殿山 正法寺 千手面観世音菩薩

   御真言 おん ばざら たらま きりく

   御詠歌 後の世の 道を比企の 観世音

       この世を共に 助け給えや

 

第十一番札所 巌殿山 安楽寺 聖観世音菩薩

   御真言 おん あろりきゃ そわか

   御詠歌 吉見よと 天の岩戸を 押し開き

       大慈大悲の 誓いたのもし

 

第十二番札所 華林山 慈恩寺 千手面観世音菩薩

   御真言 おん ばざら たらま きりく

   御詠歌 慈恩寺へ 詣る我が身も たのもしや

       うかぶ夏鳥を 見るにつけても

 

第十三番札所 金龍山 浅草寺 聖観世音菩薩

   御真言 おん あろりきゃ そわか

   御詠歌 ふかきとが 今よりのちは よもあらじ

       つみ浅草へ まいる身なれば 

 

第十四番札所 瑞応山 弘明寺 十一面観世音菩薩

   御真言 おんまか きゃろにきゃ そわか

   御詠歌 ありがたや 誓いの海を かたむけて

       注ぐ恵みに さむるほのみや

 

第十五番札所 白岩山 長谷寺 十一面観世音菩薩

   御真言 おんまか きゃろにきゃ そわか

   御詠歌 誰も皆 祈る心は 白岩の

       初瀬の誓い 頼もしきかな

 

第十六番札所 五徳山 水澤寺 千手観世音菩薩

   御真言 おん ばざら たらま きりく

   御詠歌 たのみくる 心も清き 水沢の

       深き願いを うるぞうれしき

 

第十七番札所 出流山 満願寺 千手観世音菩薩

   御真言 おん ばざら たらま きりく

   御詠歌 ふるさとを はるばるこおに たちいづる

       わがゆくすえは いづくなるらん

 

第十八番札所 日光山 中禅寺 千手観世音菩薩

   御真言 おん ばざら たらま きりく

   御詠歌 中禅寺 のぼりて拝む みずうみの

       うたの浜路に たつは白波

 

第十九番札所 天流山 大谷寺 千手観世音菩薩

   御真言 おん ばざら たらま きりく

   御詠歌 名を聞くも めぐみ大谷の 観世音

       みちびきたまへ 知るも知らぬも

 

第二十番札所 獨鈷山 西明寺 十一面観世音菩薩

   御真言 おんまか きゃろにきゃ そわか

   御詠歌 西明寺 誓いをここに 尋ぬれば

       ついのすみかは 西とこそきけ

 

第廿一番札所 八講山 日輪寺 十一面観世音菩薩

   御真言 おんまか きゃろにきゃ そわか

   御詠歌 逢う身が 今は八講へ 詣りきて

       仏のひかり 山もかがやく

 

第廿二番札所 妙福山 佐竹寺 十一面観世音菩薩

   御真言 おんまか きゃろにきゃ そわか

   御詠歌 ひとふしに 千代をこめたる 佐竹寺

       かすみがくれに 身ゆるむらまつ

 

第廿三番札所 佐白山 観世音寺 十一面千手観世音菩薩

   御真言 おん ばさら たらま きりく

   御詠歌 夢の世に ねむりもさむる 佐白山

       たえなる法や ひびく松風

 

第廿四番札所 雨引山 楽法寺 延命観世音菩薩

   御真言 おん あろりきゃ そわか

   御詠歌 へだてなき 誓をたれも 仰ぐべし

       佛の路に 雨引の寺

 

第廿五番札所 筑波山 大御堂 千手観音菩薩

   御真言 おん ばざら たらま きりく

御詠歌 大御堂 鐘は筑波の 峰にたて

       かた夕暮れに くにぞこひしき

 

第廿六番札所 南明山 清瀧寺 聖観世音菩薩

   御真言 おん あろりきゃ そわか

   御詠歌 わが心 今より後は にごらじな

       清瀧寺へ 詣る身なれば

 

第廿七番札所 飯沼山 円福寺 十一面観世音菩薩

   御真言 おんまか きゃろにきゃ そわか

   御詠歌 このほどは よろずのことを 飯沼に

       きくもならはむ 波の音かな

 

第廿八番札所 滑河山 龍正院 十一面観世音菩薩

   御真言 おん ろけい じんばら きりく そわか

   御詠歌 音にきく 滑河寺の 朝日ヶ淵

       あみ衣にて すくふなりけり

 

第廿九番札所 海上山 千葉寺 十一面観世音菩薩

   御真言 おんまか きゃろにきゃ そわか

   御詠歌 千葉寺へ 詣る吾が身も たのもしや

       岸うつ波に 船ぞうかぶる

 

第三十番札所 平野山 高蔵寺 聖観世音菩薩

   御真言 おん あろりきゃ そわか

   御詠歌 はるばると 登りて拝む 高倉や

       富士にうつろう 阿娑婆なるらん

 

一番札所 大悲山 笠森寺 十一面観世音菩薩

   御真言 おん ろけい じんばら きりく そわか

   御詠歌 日はくるる 雨はふる野の 道すがら

       かかる旅路を たのむかさもり

 

二番札所 音羽山 清水寺 千手観音菩薩

   御真言 おん ばざら たらま きりく

   御詠歌 濁るとも 千尋の底は 澄みにけり

       清水寺に 結ぶあかおけ

 

三番札所 補陀洛山 那古寺 千手観音菩薩

   御真言 おん ばざら たらま きりく

   御詠歌 補陀洛は よそにはあらじ 那古の寺

       岸うつ波を 見るにつけても

 

 

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