第五十一番札所 熊野山 石手寺

 遍路の元祖といわれている右衛門三郎は、21回目の遍路で、ようやく弘法大師に巡り合ったが、その時の三郎は息を引き取る寸前だった。大師に言い残すことはないかと尋ねられて「来世は国司の家に生まれたい」と言って息絶えた。

 弘法大師は道端の小石に右衛門三郎再来と書いて、三郎の左手に握らせた。その翌年、領主河野息利の家に男の子が生まれた。河野息万である。この男児は生まれたときから左手を開かなかったので、父親は安養寺の住職に加持を頼んだ。

 住職が祈願をすると子供は手を開き、その掌から小石が落ちた。小石には「衛門三郎再来」という文字があった。そこで安養寺を石手寺に改めたと伝えられ、小石は石手寺の寺宝となった。

 境内にある弘法大師と衛門三郎の石像は、三郎がへたりこんで手をつき、全身で大師にすがりつこうとしている。死の寸前に大師に会った時の姿らしい。(右衛門三郎・衛門三郎と両者同一人物)

 哀れな三郎の石像にはまだ新しい輪袈裟がかかり、まわりには一円や十円の賽銭がたくさん奉納されている。即身成仏。三郎も仏になったのだ。

 神亀五年(728)聖武天皇の勅命を受けた伊予の大守、越智玉澄が鎮護国家の道場として伽藍を建立し、安養寺と名付けたのが始まりで、翌年天平元年(729)行基菩薩が来錫して拳師如来を刻み、それを本尊として開限した寺で、もとは法相宗であつた。

 その後の弘仁四年(813)当寺に留錫した弘法大師が、修学ののち真言宗に改め、四国五十一番札所に定められたという。

 さらに寛平四年ときの城主河野家に誕生した子息が、衛門三郎再生の証しとして、三郎が臨終のとき大師から授けられた一寸八分の小石を左手に握っていたことに因んで右手寺と改号した。

 その昔、七堂伽藍六十四坊の威容を誇っていた右手寺ではあったが、天正の長宗我部の兵火に遭ってその大半を焼失し、本堂、仁王門、三重の塔は文保二年、鐘楼は元弘一年、梵鐘は建長三年のもので、それぞれが、重要文化財に指定されている。

 本堂向かって左手にある洞窟・都卒天洞には、四十九億行場が設けられ、出口は大師堂の裏側へと抜けている。

 この他、お山四国八十八カ所霊場、四国三十三観音霊場もあり、また、本堂と仁王門の間にある湯音石は、八十八カ所霊場と高さ1mはどの角柱で、耳をあてると道後の湯音が聞こえるといわれる。

 大きな仁王門は、文保2年に河野遭継が建造したもので、国宝に指定され、仁王像も2.5mの大きさを誇っており、こちらは13世紀後半の作といわれている。

 右手寺には重要文化財も多くあり、鎌倉末期建立の本堂と三重塔、元弘3年(1333)建立の鐘楼、建長3年(1251)建立の鋼鐘、室町初期建立の護摩堂、河野通漕が源頼義供養のために建久元年(1190)に建立した石造五輪塔はいずれも重文指定である。

 

【由緒】

第五十一番札所 熊野山 虚空蔵院 石手寺

本尊:薬師如来

宗派:真言宗豊山派

開基:行基

所在地:愛媛県松山市石手二丁目9番21号

電話:089-977-0870

 

日本最古といわれる道後温泉の近くの寺で、参道が回廊形式で、仲見世の土産店が並び、境内は、巡礼者よりも地元のお大師さん信者や観光客が多い霊場である。

 もう一つの要因は、境内ほの殆どの堂塔が国宝か、或いは国の重要文化財に指定されている壮観さで、それに寺宝を常時展示している宝物館を備えており、四国霊場では随一とも云われる文化財の寺院である。

 簡略すれば、国宝は仁王門で、高さ7m、間口は三間、横4m、文保2年(1318)の建立、二層入母屋造り本瓦葺き。

 重要文化財には本堂をはじめとして、三重塔、鐘楼、五輪塔、訶梨帝母天堂、護摩堂の建造物と、「建長3年」(1251)の銘が刻まれた愛媛県最古の銅鐘がある。

 縁起によると、神亀5年(728)に伊予の豪族、越智玉純が霊夢に二十五菩薩の降臨を見て、この地が霊地であると感得、熊野12社権現を祀ったのを機に鎮護国家の道場を建立し、聖武天皇(在位724?49)の勅願所となった。

 翌年の天平元年に行基菩薩が薬師如来像を彫造して本尊に祀って開基し、法相宗の「安養寺」と称した。

 「石手寺」と改称したのは、寛平四年(892)の右衛門三郎再来の説話によるとされる。

 鎌倉時代の風格をそなえ、立体的な曼荼羅形式の伽藍配置を現代に伝える名刹で、境内から出土された瓦により、石手寺の前身は680年(白鳳時代)ごろ奈良・法隆寺系列の荘園を基盤として建てられたとの考証もある。

 

 

 

 

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第五十二番札所 瀧雲山 太山寺

 森の中腹にある参道を行くと、右手に納経所があり、杉の古木が鬱蒼と生い茂っている。そこからは、急勾配の坂道で、深山を分け入るようなほの暗さが迫ってくる。広い境内の正面に、県下最大の古い建築物といわれる豪壮な本堂がある。

 この寺は鎌倉末期の嘉元3(1305)年に創建されたという寺の説明書きによると、昭和27年に解体修理をした時、本堂内陣から嘉元3年の墨書銘がでてきて、創建時が明確になった。

 桁行七間、梁間九間、入母屋造り本瓦葦きの本堂は立派で、参拝人は圧倒されそうになる。欽明天皇(539〜71)の頃に、豊後囲(大分県)に住む炭焼き小五郎は、神のお告げを得て、奈良の久我大臣の娘 王津姫と結婚した由。

 以来運が開け、真野長者と云われ、用命天皇の御代、九州豊後(大分県)の国の、真野長者が高浜沖で暴風雨に遭い、観音経を唱え祈ると、瀧雲山の方向から差した御光のお蔭で助かった。

 不思議に思つて山に登った長者は、小さな草堂の中に十一面観世音菩薩の尊影を拝した。長者は助けられたお礼にと、本国で木組みした材料をここ迄運び一夜のうちに建立したと伝えられる。

 のち型武天皇の勅願によって来錫した行基菩薩が十一面観世音菩薩を刻み本尊として安置し、また天皇自身も経を納め山号、寺号を下賜されている。

 のちに来錫した弘法大師は、胡摩ケ森で護摩供を修せられしのち札所に定められる。

 境内に至るまでにはいくつかの門があり、どれも古い造りで、境内の正面にある立派な本堂は、鎌倉時代末期の嘉元三年(1305)に創建されたもので、県下で最古の建築物である。

本堂の須弥壇にある歴代天皇の勅納品、七体の十一面観音はいずれも秘仏で、国の重要文化財に指定されている。

伊予の国に来られた聖徳太子は、この寺と縁を結ばれ、境内の一角にある聖徳太子堂・夢殿には、法隆寺の夢殿にあるのと同じ聖徳太子像がおまつりされており、太子の聡明さにあやかろうという人々のお参りが多い。

 江戸時代の明暦元年1655に再建された鐘楼堂は、裃腰と呼ばれる曲線が美しい建物で、中には永徳3年1383の銘のある梵鐘がある。また、壁面いっぱいに描かれた地獄絵・極楽絵は圧巻。ことに地獄絵は、本当に怖がってしまう子どもも少なくない。

 

【由緒】

第五十二番札所 瀧雲山 護持院 太山寺

本尊:十一面観世音

宗派:真言宗智山派

開基:真野長者

所在地:愛媛県松山市太山寺町1730

電話:089-978-0329

 

 開基とされる真野長者、その長者が一夜にして御堂を建てたという縁起は興味深い。

 長者は豊後(大分)で、ふいごの炭焼きをしていたが、神のお告げで久我大臣の娘・王津姫と結婚した。以来運が開けて大富豪となり、用明2年(587)、商いのため船で大阪に向かうとき大暴風雨に遭い、観音さまに無事を祈願したところ、高浜の岸で救われた。

 この報恩に一宇の建立を大願し、豊後の工匠を集め間口66尺、奥行き81尺の本堂を建てる木組みを整えて船積みした。順風をうけて高浜に到着、夜を徹して組み上げ、燦然と朝日が輝くころに本堂は建ち上がった。いらい「一夜建立の御堂」と伝えられている。

 その後、天平11年(739)に聖武天皇(在位724?49)の勅願をうけて、行基菩薩が十一面観音像を彫造し、その胎内に真野長者が瀧雲山で見つけた小さな観音像を納めて本尊にしたという。

 寺が隆盛したのは孝謙天皇(在位749?58)のころで、七堂伽藍と66坊を数えるほど壮観であった。弘法大師は晩年の天長年間(824?34)に訪れ、護摩供の修法をされて、それまでの法相宗から真言宗に改宗している。

 のち、後冷泉天皇(在位1045?68)をはじめに、後三

条、堀河、鳥羽、崇徳、近衛の6代にわたる各天皇が、十一面観音像を奉納されている。 何れも像高は150cm前後で、本尊の十一面観音像とともに国の重要文化財で、本堂内陣の厨子に安置され、なお現本堂は長者の建立から3度目だが、真言密教では最大規模を誇り国宝である。

【屁理屈】

 寺傳を読んでいると、同じ話が彼方此方の寺に伝わっている。

 同じような話が散見する。所詮逸話などというものはそんなものだ!

 

【屁理屈】

 殺しをすると地獄へ落ちるそうだ!

 牛馬豚を殺して肉を喰らい

 卵を横取りし更に親鳥までも殺して肉を喰らい

 魚は一網打尽の皆殺しで、その肉を喰らい

 南無阿弥陀仏・・・・と唱えただけで・・・・・・・

 

 

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第五十三番札所 須賀山 圓明寺

 円明寺は、和気町の南にあり、大きくはないが古色をたたえた落ち着いた本堂には、四国最古の銅板の納経札がある。慶安3(1650)年の銘がある札には、京都の樋口家次が四国遍路をして納めたと記されている。

 アメリカから来日し、四国霊場巡拝をしていたスタール博士は、銅板札に深い関心を持ち、素晴らしい価値があると紀行文に書いた。世は移り人は変わっても、聖空間を遍路する人の心は変わらない。そんな霊場めぐりの魅力に、博士は感動したのだろう。

 

円明寺は天平勝宝元(749)年聖武天阜の勅願寺で、勅を奉じて来錫した行基菩薩が三尺の立像、阿弥陀如来を刻んだ。

 伽藍を和気の海岸に創建し、阿弥陀如来を本尊とし、海岸山・円明密寺と名付けた。

 しかし、それ以後、度重なる兵火のため、広大な堂宇は焼失、長年月に亘って方丈は荒れるにまかせ、再建したのは元和年間になってからで、和気の家族須賀重久が現在地に本尊を移転、伽藍を再興した。

 戦乱の時に、兵士が軍資金にしようと鐘を運ぼうとすると、鐘が自ら海中に身を投げたのだという。

 京の覚深法親王の令旨により仁和寺の末寺となり、そのとき須賀山の山号を賜わり、そして現存の正智院・円明寺となった。

 なお本堂内にある四メートル余の龍の彫物は、左甚五郎の作と伝えられ、奥の院は此処より西方2q余にあり、印度仏釈迦如来、同覿世音菩薩を祀っている。

 

【由緒】

第五十三番札所 須賀山 正智院 円明寺

本尊:阿弥陀如来

宗派:真言宗智山派

開基:行基

所在地:愛媛県松山市和気町1-182

電話:089-978-1129

 

 大正13年3月、シカゴ大学のスタール博士が四国遍路をしている途次、寺の本尊・阿弥陀如来像を安置している厨子に打ち付けてあった銅板納札を見つけ、圓明寺には、其のスタール博士が発見した四国霊場最古の銅板納札が保存されている。

 江戸時代の初期にあたる慶安3年(1650)の銘があり、縦24cm、幅が9.7cm、厚さ約1mmで破損のない納札としては、現存最古で例のない銅板製である。

 奉納者の樋口平人家次は、京都・五智山蓮華寺の伽藍を再興して、五智如来石仏を造立した事で知られるが、この納札で特に注目されるのは、初めて「遍路」の文字が記されていることでもある。

 仁王門縁起によると天平勝宝元年、聖武天皇(在位724?49)の勅願により、行基菩薩が本尊の阿弥陀如来像と脇侍の観世音菩薩像、勢至菩薩像を彫造して安置し、七堂伽藍を備えた大寺として建立したのが創建とされている。当時は、和気浜の西山という海岸にあり「海岸山・圓明密寺」と称したという。

 のちに、弘法大師が荒廃した諸堂を整備し、霊場の札所として再興したが、鎌倉時代に度重なる兵火で衰微、元和年間(1615?24)に土地の豪族・須賀重久によって現在地に移された。

 さらに、寛永13年(1636)京都・御室の覚深法親王からの令旨により仁和寺の直末として再建され、寺号もそのとき現在のように改められている。

 圓明寺はまた、聖母マリア像を浮き彫りにしたキリシタン灯籠があることでも知られる。

 

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第五十四番札所 近見山 延命寺 (圓明寺)

 山門は元、今治城の城門だったらしく、本堂から大師堂へは石段を登ると、鐘楼は二カ所あり一つは口径六十二cm、高さ112cmである。そして、鐘の周囲には寺の歴史が細かく刻まれている。

 天平年間(729〜748)、行基が不動明王を刻み、今治市の西北にある近見山の頂に七堂伽藍を建立したのがこの寺の始まりと云われ、後に弘法大師が来錫し、堂宇を再建し近見山円明寺と名付け、信仰と学問の中心道場とした。

 寺は幾度となく兵火に遭い、場所を移動し、享保の年に現在の場所に移った。寺宝に写水元年鋳造の鐘があり、この梵鐘は、長宗我部の兵士達が軍用金にしょうと椋奪し、海上へ運んだとき、梵鐘自ら海中へ沈み椋奪を拒んだ、いう伝えがある。(この話は幾つかの寺で伝承がある)

 今治市指定の文化財で、宝永元年(1704)、当時の住職が私財を投じて鋳造したもので、周囲には延命寺(円明寺)の由来が刻み込まれている。

 この近見二郎(鐘の制作者)は現在は引退しており、近見三郎が代わって使われているが、年1回の除夜の鐘では二郎の音色が聞ける。

 茶堂のすぐ近くに、越智孫兵衛の墓がある。彼は元禄時代の庄屋で、代官に直訴して年貢米を軽くすることを交渉し成功した。

 そのため享保17(1732)年の大飢饉では、西国では餓死者1万2000人をだしたが(それ程に他の代官は無能であった証)、この地では1人の餓死者もださなかったという。

 以来毎年8月7日には、孫兵衛の慰霊祭が地元の人々によって営まれている。

 

【由緒】

第五十四番札所 近見山 宝鏡院 延命寺

本尊:不動明王

宗派:真言宗豊山派

開基:行基

所在地:愛媛県今治市阿方甲636

電話:0898-22-5696

 

今治の市街地から西北へ6kmほどのところに、延命寺の山号にもなっている近見山という標高244mの山がある。この山頂一帯に七堂伽藍の甍を連ねて、谷々には100坊を数えていたのが延命寺であったと伝えられる。

 縁起によると、養老四年に聖武天皇(在位724?49)の勅願により、行基菩薩が大日如来の化身とされる不動明王像を彫造して本尊とし、伽藍を建立して開創した。

 弘仁年間(810?24)になって、弘法大師が嵯峨天皇(在位809?23)の勅命をうけ、伽藍を信仰と学問の中心道場として再興、「不動院・圓明寺」と名づけ、勅願所とした。

 この「圓明寺」の寺名は、明治維新まで続いたが、同じ寺名の五十三番・圓明寺(松山市)との間違いが多く、江戸時代から俗称としてきた「延命寺」に改めている。

 その後、再三火災に遭い堂宇を焼失しているが、再興をくり返し、享保12年(1727)に難を免れた本尊とともに現在地の近見山麓へ移転した。この間、鎌倉時代の文永5年(1268)、華厳宗の学僧・凝然(1240?1321)が寺の西谷の坊に籠り、初学者の仏教入門書といわれる『八宗綱要』を著述した。「八宗」とは倶舎・成実・律・法相・三論・天台・華厳の各宗と新しく興った浄土宗で、上下2巻に記されている。

 寺にはまた、四国で2番目に古い真念の道標が残されており、境内に馬酔木の木があって、春の彼岸ごろから1ヵ月ほど可憐な白い花をつけている。

 

【屁理屈】

 牛豚鳥魚蟲・・・を散々殺して、ペット供養ですか?

 

 

 

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第五十五番札所 別宮山 南光坊

 市内中心部にあるためか、そう大きくない境内も広々とした風景に見え、88ヶ所の中でも”坊”の名のつくのはここだけである。

 これは航海安全の神様として大三島にある大山祇神社別当寺24坊の一つとして創建され、鬼瓦が特産の菊間町が近いことから、ちょっとした屋根にも味わい深い表情を感じられ、句碑などが多いのも特徴である。

 伊予の大守、越智玉澄が文武天皇の勅願を受け、今治沖に浮かぶ大三島に大山祇明神を勧請し、法楽所として二十四坊を建立した。ところが、海が荒れた時など海を渡っての参詣に不便を感じ和銅5年(712)その別宮を越智郡日吉村に移したとき、二十四坊のうちの八坊を別当寺として共に移した。(坂東編を参照)

 天正年間、長宗我部の兵火に遭って堂宇は焼失、さらに城主河野家の滅亡とつづき、滅亡と同時に寺領を没収されたが、南光坊だけは別宮明神の別当寺として再建され、慶長5年には藤堂高虎公の祈願所として薬師堂の再建を見、さらに久松藩主からも尊信を得、別当職を持続していたが明治の神仏判然令で本地仏として社殿に奉安してあった大通智勝如来、二大脇士、十六大王子を薬師堂に還し寺として独立した。

 以後昭和20年の空襲で大師堂と護摩堂を残し、ほかの堂塔は焼失した。

【屁理屈】

 人は生殺与奪を縦にしている

 “力”さえ有れば、何でも許されるのか

 

 

【由緒】

第五十五番札所 別宮山 金剛院 南光坊

本尊:大通智勝仏

宗派:真言宗醍醐派

開基:行基

所在地:愛媛県今治市別宮町3丁目一番地

電話:0898-22-2916

 

四国霊場のうち「坊」がつく寺院はこの南光坊だけである。正式には光明寺金剛院南光坊という。今治市の中心街にあるが起源は古く、航海の神、総鎮守・伊予一の宮の大山祇神社と深くかかわる歴史を有す。

 縁起によると、大宝3年、伊予水軍の祖といわれた国主・越智玉澄公が、文武天皇(在位697〜707)の勅をうけて大山積明神を大三島に勧請し、大山祇神社を建てた際に、法楽所として24坊の別当寺を建立したことが創始といわれる。

 これらの別当寺は翌々年、海を渡っての参拝が不便なことから現在の今治市に移されているが、和銅元年(708)に行基菩薩が24坊のうち8坊を「日本総鎮守三島の御前」と称して奉祭した。

 さらに、弘法大師がこの別当寺で法楽をあげて修法され、霊場に定められた。

 大師堂のち、伊予全土におよんだ「天正の兵火」により、社殿・伽藍はことごとく焼失したが、南光坊だけが別宮の別当寺として再興された。

 慶長5年(1600)には藤堂高虎公の祈願所として薬師堂を再建、また江戸時代には藩主・久松公も祈祷所にして信仰し、祭祀料を奉納している。

 さらに時代がさがり、明治初年の廃仏毀釈では本地仏として社殿に奉安していた大通智勝如来と脇侍の弥勒菩薩像、観音菩薩像を南光坊薬師堂に遷座し、別宮大山祇神社と明確に分離した。

 太平洋戦争最末期の昭和20年8月、空襲により大師堂と金比羅堂を残して罹災し、現在の本堂は昭和56年秋、薬師堂は平成3年春に、山門は同10年に再建されている。

 

 

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第五十六番札所 金輪山 泰山寺

 石垣に囲まれて少し高台にあるこの寺は、左右に細長く伸びた境内には一列に本堂、納経所、宿妨が並んでいる。宿坊の前にある大師堂は、昭和60年に建立された。

 側には金剛杖を持ち、菅笠をかぶった大師像が立つほか、鐘楼、通夜堂、納経所などがある。鐘楼は明治14年(1881)、今治城内にあった太鼓楼の古材で再建したものである。    

 大師堂のそばにあった不忘松は、弘法大師が一寺を建立した際に御手植えされたという松の木で、一度枯れてしまい、今は古い切り株が残っていて、その横には子株として育っていた4株のうちの1株が植えられている。

 また、三支の松は中国原産の白皮松で、葉が3本に分かれているのが特徴で、中国西安から持ち帰った種から芽吹いたものを大切に育てている。

 弘仁六年、弘法大師がこの地を巡錫した時、梅雨のため蒼社川が氾濫していた。伊之子山(872メートル)附近に源を発する蒼社川は、玉川村から今治市の東南を抜けて燵灘へ流れ込んでいる。

 当時この地に伊予の国府があったが、国の力では防げず、毎年梅雨期になると川が氾濫して田地や家屋を流し、人命を奪った。

 農民は恐れ苦しみ、この川を人取川といって悪霊のしわざと信じていた。そこで大師は川原に壇を築き「土砂加持」の秘法を七座厳修された。

 満願の日にご本尊地蔵菩薩を感得し、祈願成就したので一寺を建立してご本尊を安置し、延命地蔵十大願の第一「女人泰産」から寺名をとられ「泰山寺」とした。

 後の天長元年(824)淳和天皇の勅願所となり、七堂伽藍も完備、塔中十彷を有する大寺となった。しかしたびかさなる兵火で縮少し、山麓の現在地へ移建されるのである。

 寺の移築に当たり、山麓を崩し、石垣を積んで高台にして建てられた。白壁塀の外には七体の仏像が置かれる。

昭和六十年(1985)に建てられたという大師堂の横には金剛枚をもち編笠を被った大師像がある。

【由緒】

第五十六番札所 金輪山 勅王院 泰山寺

本尊:地蔵菩薩

宗派:真言宗醍醐派

開基:弘法大師

所在地:愛媛県今治市小泉1-9-18

電話:0898-22-5959

 

泰山寺には、水難で人命を失う悪霊のたたりを鎮めた伝説が根強く残っていて、弘法大師がこの地を訪れたのは弘仁6年の頃。

 蒼社川という川がこの地方を流れており、毎年梅雨の季節になると氾濫して、田地や家屋を流し、人命を奪っていたため、村人たちは恐れ苦しみ、人取川といって悪霊のしわざと信じていた。

 この事情を聴いた大師は、村人たちと堤防を築いて、「土砂加持」の秘法を七座にわたり修法したところ、満願の日に延命地蔵菩薩を空中に感得し、治水祈願が成就したことを告げた。

 大師は、この修法の地に「不忘の松」を植えて、感得した地蔵菩薩の尊像を彫造して本尊とし、堂舎を建てて「泰山寺」と名づけた。

 この寺名は、『延命地蔵経』の十大願の第一「女人泰産」からとったと伝えられ、「泰山」にはまた、寺があった裏山の金輪山を死霊が集まる泰山になぞらえ、亡者の安息を祈り、死霊を救済する意味もあるという。

 寺はその後、淳和天皇(在位823?33)の勅願所となり、七堂伽藍を備えて、塔頭に地蔵坊、不動坊など10坊を構えるほどの巨刹として栄えた。

 だが度重なる兵火により寺の規模は縮小し、金輪山の山頂にあった境内が麓の現在地、大師お手植えの「不忘の松」があったところに移ったと伝えられている。

 泰山寺の右約300m「塔の元」という場所は、鎌倉時代の学僧で、『八宗綱要』を撰述した凝然(1240?1321)が誕生した地とされる。

【屁理屈】

 天災(川の氾濫)は防げても、人災(兵火)は防げない

 

【屁理屈】

 ダメなものはダメ! と云う言葉があるけれど、ダメとかダメで無いかは、誰が決めたんだ!

 世の中に絶対的な判断基準はない。その場その場で物事は換わる!

 

 

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第五十七番札所 府頭山 栄福寺

 木々に囲まれた境内蒼社川を越えて栄福寺へと向かう。今治市内を縫って瀬戸内海に注ぐ蒼社川。現在は穏やかな顔を見せているが、昔は梅雨時などに氾濫が起こり、地元住民を苦しめてきた。

 栄福寺へは、急な坂道の参道を上って行く。そのまま登るのが石清水八幡神社へ行く道で、石段の手前を右へ曲がると栄福寺の境内である。

 境内には巡拝者会館、庫裡、納経所、金毘羅堂、薬師堂、大師堂がある。 本堂は石段を上りつめた正面にあり、大師堂と本堂は回廊で続いている。本堂は古寺の趣。本堂、大師堂は山の木々に囲まれている。

 本堂横の回廊には、木製の車や松葉杖が奉納されていて、昭和8年にここまで来た15歳の宮本武正さんは霊験で歩けるようになり、その時の車を奉納したという。

 この寺には古い納経帳も残されていて、寛政12(1800)年に、九州から来た人のもので、霊場巡りでは、途中に右衛門三郎の墓を見たり、札所に残る霊験の話を聞くことができる。

 その中で多くの遍路がこの四国の地に足跡を残してきたことを知り、人間の信仰心とは、いつの時代にも変わらないのなのだろう。

 お願い地蔵尊。品のある可愛い顔をしている。丸い幼顔だが、利口そうで穏やかな表情で、赤い帽子をかぶり、赤いよだれかけをかけ、その前には缶ジュースやみかんが並んでいる。誰もが「まあ、かわいい」と口にしていた。

 栄福寺は嵯峨天皇の勅願により、弘法大師が開基したと伝えられ、大師が瀬戸内地方を巡錫した折、瀬戸内海での海難事故が屡々起こることを嘆き、府頭山の山]頁で海神供養の護摩を修した。すると、満願の日に海中から阿弥陀如来が出現した。

 そこでこの阿弥陀如来を本尊として安置し、寺を建てた。その後、行教上人が宇佐八幡のご分身を山城の男山に創建するためにしばしば内海を往復していたが、その途中で暴風雨に萱った。

 この地に漂着すると、府頭一山が男山に似ていたため、寺の境内に八幡神を祀り、神仏習合の寺となった。別に勝岡八幡と称されていたが、神仏分離令によって、寺は現在地に移ったという。

【由緒】

第五十七番札所 府頭山 無量寿院 栄福寺

本尊:阿弥陀如来

宗派:高野山真言宗

開基:弘法大師

所在地:愛媛県今治市玉川町八幡甲200

電話:0898-55-2432

 

 瀬戸内海沿岸のこの近海では、海難事故が絶えなかった。栄福寺は、弘法大師が海神供養を修したことから、海陸安全、福寿増長の祈願寺として往古から信仰されている。

 縁起によると、嵯峨天皇(在位809?23)の勅願により、大師がこの地を巡教したのは弘仁年間であった。内海の風波、海難の事故の平易を祈って、府頭山の山頂で護摩供を修法された。

 その満願の日、風波はおさまり、海上には阿弥陀如来の影向が漂った。この阿弥陀如来の尊像を府頭山頂まで引き揚げて堂宇を建て、本尊として安置したのが創建といわれ、勅願寺とされた。

 栄福寺には、神仏混合の歴史もあり、その由来も平安時代に遡る。貞観元年(859)、大和・大安寺の行教上人が宇佐八幡(大分)の霊告をうけて、その分社を山城(京都)の男山八幡(石清水八幡)として創建するため、近海を航行中に暴風雨に遭い、この地に漂着した。

 ところが府頭山の山容が山城の男山と似ており、しかも本尊の阿弥陀如来は八幡大菩薩の本地仏でもあることから、境内に八幡明神を勧請して社殿を造営、神仏合体の勝岡八幡宮を創建したと伝えられる。

 この八幡宮は「伊予の石清水八幡宮」とも呼ばれ、「四国五十七番」と仲良く寺社名を刻んだ石塔の道標が立っている。

 明治新政府の神仏分離令により、寺は旧地から山の中腹になる現在地に移転し、また神社と寺はそれぞれ独立し、現在の大師堂は、山頂にあった堂舎を移築した由緒がある。

 

 

 

 

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第五十八番札所 作礼山 仙遊寺

 仙遊寺の本尊は天智天皇の守護菩薩の千手観音で、観音像は、海から竜登川を登ってきた女の竜が、一刀刻むごとに三度礼拝して作り上げたといわれ、竜女一刀三礼の作とも言われる。

 また阿坊仙人と称する増が、ここで40年間仙人のような生活をした後、雲のごとく姿を消してしまったと言われ、この事から仙遊寺という寺号が付いたと言われている。

 

 昭和22年の山火事で本堂は灰になったが、昭和28年に再建されて、二層屋根の堂々とした建物である。

 仙遊寺境内へ続く石段沿いにある井戸は、弘法大師が錫杖で掘り当てた水脈と言われ、昔、疫病で苦しむ里人に対して大師がこの水を使って加持したところ、快方に向かったといい、現在も霊験にあやかろうと、水を汲みに来る人は多い。

 仙遊寺は山の頂上にあって、麓には三つの池がある。その一つの池は犬池という。この池には、次のような話が残されている。昔、栄福寺と仙遊寺は住職が兼務していて、一匹の黒い犬が、用務をしていた。山の上の山遊寺で鐘が鳴れば山を駆けのぽり、栄福寺の鐘が鳴れば山を駆けおりる利口な犬だった。

 ある時上と下の寺の鐘が同時に鳴ったために、黒い犬はどちらへ行けばいいのか分からなくなってしまった。これではお寺のご用は務まらないと、犬は池に身を投げてしまった。

 これを悲しんだ村人は、池の湖畔に犬塚を設けて、その池を犬塚池と呼ぶようになったという。

 

【由緒】

第五十八番札所 作礼山 千光院 仙遊寺

本尊:千手観世音

宗派:高野山真言宗

開基:越智守興

所在地:愛媛県今治市玉川町別所甲483

電話:0898-55-2141

 

 境内は、山号になっている作礼山の山頂近い標高300mの高台にあり、今治の市街地や四国一高い今治国際ホテルは眼下に望め、その先には瀬戸内海に浮かぶ島々、さらには平成11年に開通したしまなみ海道」も一望できる眺望豊かな地にある。

 創建は天智天皇(在位668?71)の勅願により、伊予の国主・越智守興公が堂宇を建立、本尊の千手観音菩薩像は天皇の念持仏として、海から上がってきた竜女が一刀三礼しながら彫って安置したとされる。

 このことから「作礼山」が山号となり、竜宮から届けられたという伝説もある。

 さらに仙遊寺には、阿坊仙人という僧が40年に亘って籠り、七堂伽藍を整える等をしたが、養老2年(718)に忽然と姿を消して仕舞ったという伝説が残ある。寺名はその阿坊仙人に由来する。

 弘法大師が四国霊場開創の折に、この寺で修法をされたとき、病に苦しむ人々を救済しようと井戸を掘り、また荒廃していた七堂伽藍を修復して再興、寺運は興隆した。

 この井戸は旧参道の脇に残り、「お加持の井戸」として多くの諸病を救ったと伝えられ、信仰されている。

 江戸時代には荒廃して本堂と12社権現だけとなっていたが、明治時代の初期、高僧・宥蓮上人が山主となり、多くの信者とともに再興に尽力した。

 宥蓮上人は明治4年、日本最後の即身成仏として入定し、境内には、上人を供養した五輪塔がある。

 天田天宅の勅願により伊予の大守越智守興が、海抜三百メートルの作礼山上に堂宇を創建し、天皇の守護仏である千手観世音菩薩を刻んで本尊として安置したのが、はじまりである。

 そして山号は、天皇の守護仏を一刀三礼して刻んだ所以により作礼山と称し、寺号は、養老年間この山で四十年間を読経三昧に暮らしていた阿坊仙人が、なんの理由かある日突然雲の如く消えた!という伝説にちなんで仙遊寺と口傳するようになった。

 境内の隅には大師像があり、その近くに一番から八十八番札所の本尊の石仏が並んでいる。

 また、仙遊寺への旧参道の途中には、弘法大師お加持水と伝えられている井戸がある。この井戸から湧き出た霊水は、多くの村人を諸病から救ったと伝えられている。

 

 

 

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第五十九番札所 金光山 国分寺

 唐子山の山麓にある古刹で、石門を入ると正面に立派な本堂が見える。広々としている境内には大師堂、毘沙門天、庫裡、書院などの諸堂が、整然と建っていて、書院には寺宝や文化財の展示室があって、一般に公開されている。

 

 国分寺は聖武天皇が天平13(741)年に国分寺建立の詔勅を出し、各国に建立された寺の一つで、行基が開基したと伝えられ、当時は七堂伽藍を備えた豪壮な巨刹で、本尊は行基が刻んだという薬師如来である。

 当時の国分寺は、今の場所から東へ100mほどのところにあり、この旧国分寺跡の東塔跡とみられる場所には、花崗岩の13個の礎石があって、国指定の史跡となっている。

 この付近からは創建当時の巴瓦5種と、唐草瓦なども出土していて、書院の展示室に展示されていて、礎石から推測された塔は七重で、高さは60m近いという。

 現在の国分寺は、石門を入って正面が本堂。境内には大師堂、毘沙門天、書院などが並んでいて、書院には奈良時代から平安時代初期にかけての寺宝や文化財、旧国分寺からの出土品を保存していて、中でも県指定の文化財で、寺宝の国分寺文書三巻は南北朝時代のものとされている。

 それから年を経て、智法大師が三代目の住職をしているときに、当寺を訪れた弘法大師は、暫く留錫して五人尊の絵像を書き残し、大師の弟子の真如大師も留錫して法華経一部を染筆するなどの歴史を持っている。

 史跡に残されているように、寺勢は隆盛だったが、それ以後は受難が繰り返され、天慶二年の藤原純友の乱に始まり、更には治承四年、源蝦朝の挙兵に呼応した河野氏と平家との戦禍に巻き込まれて被災、南北朝時代には細川槻之が攻め入るなど、その都度、寺宇を焼かれたが、その都度時の権力者の助力を得て再建された。

 その後も大正十二年長田我部の兵火で折角再建した塔もことごとく焼失し、以後は小庵だけに成ったが、四十三代目の住職恵光上人が又再建、以後は遂次増築している。

 

【由緒】

第五十九番札所 金光山 最勝院 国分寺

本尊:薬師如来

宗派:真言律宗

開基:行基

所在地:愛媛県今治市国分4-1-33

電話:0898-48-0533

 

 伊予国分寺は伊予の国府があったところで、この地域は伊予文化発祥の地ともいえる。往時の国分寺はいまの寺から150mほど東にあった。

 東塔跡とみられる遺跡には13個の巨大な礎石があり、国の史蹟とされていて、礎石の配置等から推測される七重塔の高さは60mほどで、豪壮な七堂伽藍を構えた寺観は、伊予の仏教界に君臨した天平の昔をしのばせ、その面影をいまに残している。

 国分寺は天平13年、聖武天皇(在位724?49)の勅願により行基菩薩が本尊の薬師如来像を彫造安置し、開創したと伝えられる。

 第3世住職・智法律師のとき、弘法大師が長く滞在して「五大尊明王」の画像一幅を奉納、また大師の弟子・真如(??862?)も2年間留まり、『法華経』の一部を書写して納められている。

 その後の伊予国分寺は、悲運な災禍の歴史に見舞われる。まず、天慶2年(939)の「藤原純友の乱」により灰燼に帰した。次に、元暦元年(1184)源平合戦の戦火による焼失。3度目は南北朝時代の貞治3年(1364)、讃岐・細川頼之の兵火によって焼かれ、さらに4度目は長宗我部元親の「天正の兵火」にかかり、堂塔を焼失している。

 相次ぐ罹災で寺は荒廃、元禄2年(1689)の寂本著『四國禮霊場記には「茅葺の小堂が寂しく建つのみ」旨が記されている。本格的な復興は江戸時代後期からであった。

 幸い寺には、古瓦をはじめ『国分寺文書』『大般若経』など数多い文化財が保存され、本格的な復興は江戸時代後期からである。

 

 

 

 

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第六十番札所 石鉄山 横峰寺

 横峰寺は西日本最高峰・石鎚山(1982m)中腹にある霊場で、開祖は修験僧の開祖・役行者小角である。

 白雉2年(651)、星ガ森(石鎚山遥拝所)で修行中の役行者小角は、石鎚山頂で蔵王権現のお姿を見て、そのままの姿を石楠神化の木に刻んで小堂に安置した。

 天平年間(729〜749)には行基が入山し、大同年間(806〜810)には、弘法大師も42歳の厄除け開運祈願のために石鎚山へ登った。

 星祭りの修行をしていた大師は、結願の日に役行者と同じく蔵王権現のお姿を見られ、そこで、大師はこの山を霊山と定められ、本尊として大日如来を刻んで安置し、第六十番札所に定めた。

 

 寺宝の金銅蔵王権現御正体は平安時代の作とみられ、大日如来像とともに、県指定の文化財になっていて、星ヶ森には大師修行跡の石室があって、石室の中に大師の石像が祀られている。

 こうした逸話から山頂は「星ガ森」と呼ぼれるようになり、その後、寺は石鎚神社の別当寺とされたが、明治初年の神仏分離令で、石鎚山西遥拝所横峰社となり、さらに明治42年909に横峰寺に戻った。

 寺に至る道は、途中の上野原からは有料道路を利用し、山頂の駐車場までは、登山専用のマイクロバスも運行していて、駐車場からは約500mの下り坂の道のりは、88ケ寺中、岩屋寺弥谷寺と並んで難所の1つだが、徒歩で10−15分程度で到達できる。

 

【由緒】

第六十番札所 石鉄山 福智院 横峰寺

本尊:大日如来

宗派:真言宗御室派

開基:役行者

所在地:愛媛県西条市小松町石鎚甲2253

電話:0897-59-0142

 

 西日本の最高峰・石鎚山(標高1982m)は、山岳信仰の霊地であり、修験道の道場でもある。弘法大師・空海が24歳の若いときの著書『三教指帰』の中で「或時は石峯に跨って粮を絶ち(断食)轗軻(苦行練行)たり」と、この山で修行した様子を記している。

 境内は山の北側中腹(750m)にあり、四国霊場のうちでは3番目の高地にあり、「遍路ころがし」の最難所であったが、昭和59年に林道が完成して、現在は境内から500m離れた林道の駐車場まで車で行き参拝できる。

 ただし、冬期は12月下旬から2月いっぱい不通となる。大型バスは通行が不可である。

 縁起によると、白雉2年、役行者が石鎚山の星ヶ森で修行をしていると、山頂付近に蔵王権現が現れたという。その姿を石楠花の木に彫り、小堂を建てて安置したのが創建とされている。

 また、延暦年間(782?806)には石仙仙人という行者が住んでおり、桓武天皇(在位781?806)の脳病平癒を成就したことから、仙人は菩薩の称号を賜ったと伝えられる。

 弘法大師がこの寺で厄除けと開運祈願の星供養の修法をしたのは大同年間(806?10)とされ、このときも蔵王権現が現れたのを感得、堂宇を整備して霊場とした。

 以来、神仏習合の別当寺として栄えているが、明治新政府の神仏判然令により、寺は廃寺となった。明治42年になって、檀信徒の協力によりようやく復興している。

 

 

 

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