第八日
平成25年2月4日(月)
第二十一番札所
要光山観音寺第二十二番札所
華台山永福寺 途次今日は21番22番を巡拝する積もりである。地図を見ると大野原下車で、先ず龍石寺へ行くコースをとる。途中から299号線に出て荒川の新しい吊り橋を渡り、岩之上堂へ行く道は辿らずに、国道をそのまま少し直進し、尾田蒔の交差点を左折れすると、其れが第二十一番要光山観音寺へ続く道
である。暫く進むと(国道左折れして6丁程)道の右側に寺標と寺院の建物が見える。
大野原駅から舊秩父橋
(歩道専用橋)へは15丁、舊秩父橋から観音寺までは15丁、大野原駅から観音寺までは30丁程で、老躯では一時間ほど要す。
観音寺は広い道路に面した寺院である。道路左側に駐車場と札所の紅い幟旗、右側には本堂と諸堂。何れも壮麗ではあるが、古びた感じではない。
【屁理屈】長い歳月には、得たものも多いが失ったものも多い
寺をあとにするに当たりもう一度振り返る。
左手に地蔵尊、正面に香臺と石灯籠、右手に新築された手を洗う處がある。
第二十一番 要光山観音寺[矢之堂]
埼玉県秩父市寺尾2352
宗派=真言宗豊山派
札所本尊=聖観音
開山=不詳
開創年代=不詳
慶長三年(1598)写「武州秩父郡寺尾村矢之堂観世音縁起并序」によると、八幡大菩薩が邪神を射た矢が落ちた場所のため、矢之堂と呼ばれたといわれている。
また、『新編武蔵風土記稿』には、別の説が記されており、嘗て矢納村にあったものを、当地に移したとされる。矢納村については、日本武尊あるいは平将門が矢を納めたことに由来しているという。
現在の境内の入り口には、道路に面して石柱があるだけで、門や石段はない。村の公会堂のような本堂のみが建っている。
『長享二年秩父観音札所番付』では第十九番札所であり、「谷之堂」と記されている。
延享元年(1744)沙門円宗著『秩父独案内記』には、「高みなり、山下に茶屋あり、是より山にかかる」とあり、享和三年(1803)に巡礼した沓懸なか子の『東路の日記』には、「廿一ばん矢の堂別当観音寺石のきだ二十斗にて上る」とあり、高地にあったと思われる。
さらに、文政六年(1823)竹村立義著『秩父霊場参詣記』の挿図に、第二十一番から第二十四番までの観音堂を、丘陵の中腹や頂上に並べて描いているところから、矢之堂は江戸時代末期まで、現在地よりも山手、長尾根丘陵の東北端あたりに祀られていたものと推測される。
『新編武蔵風土記稿』によると、矢之堂は「観音寺持」とされており、観音寺は「新義真言宗、那賀郡小平村成身院の末、本尊弥陀を安ず、開山元珍寂年月を伝えず」と記されている。
現在では、札所観音堂と持寺は同じ建物に同居しており、住職もなく地元の人々によって護られている。
【屁理屈】 “ひと”は生きていれば、常に死と隣り合わせです。病気か怪我か事故か寿命か・・・・・でも、普段病気をするとか、事故に遭うとか・・・・理屈は解っていても、自分には関係ないと思ってるようです。
寺参りをしているのだから、自分も何時そうなるか分からない!に、前提を改めましょう!
あづさゆみ
いるやのだうに
まふできて
ねがひしのりに
あたるうれしさ
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【屁理屈】 一見仲の良い家族は、互に凭れている場合がある。
第二十二番華台山永福寺
[童子堂]は、二十一番観音寺から更に十丁程先の左側にある。道路の左側に台座に載った石仏があるので、其処を左折れして両側畑の路を二丁ほど進めば、目の前に萱葺屋根の仁王門が見える。仁王門を潜ってから本堂までも一丁はある。
暫く進むと左側に寺標かある
その先には萱葺の仁王門がある
少し子供っぽいお顔立ちで余り強そうでない仁王様
萱葺の仁王門を潜ると寺の全景が見渡せる。
全景写真の左側、本殿の真っ正面に唐金製の地蔵尊が祀られている。そのお名前は「刺抜き地蔵尊」
観音様が祀られた本殿がある。
(本殿屋根は従前萱葺であった造りに、改修のために銅板を被せて改修した様子)(缶詰屋根)本殿に並んで
(写真左側)に本堂がある。重厚だが古さも滲み出ている。更に處構わず貼り付けた千社札の狼藉は目に余る。【屁理屈】昔の千社札は澱粉糊で貼ったので、月日が経つと容易に剥がれたが、今の千社札は強力ボンドで貼ってあるので、月日が経っても剥がれないし、剥がそうとしても剥がせない。昔は兎も角、今では文化財である。ご自分の欲望のために文化財に傷を付けるのは如何な物か
寺をあとにするに当たり、振り返って重厚な仁王門を観察した。よくよく見ると造りが中々凝っている。
【由緒】
第二十二番 華台山永福寺
[童子堂]埼玉県秩父市寺尾3595
宗派=真言宗豊山派
札所本尊=聖観音
開山=遍照僧正
開創年代=不詳
矢之堂から、武甲山を望む広々とした畑のなかの田舎道を行くと、高い台座の上にすわった石の地蔵尊が見えてくる。ここを左に曲がって、小さい橋を渡ったところが参道である。参道の正面には、茅葺きの仁王門があり、大きな眼を見開いたユニークな仁王像が祀られている。
この顔が童子のようなので、童子堂と称するともいう。長享二年
(1488)当時は第十八番札所であり、「童部堂」と記されていて、縁起によると、伊予親王の菩提のため、遍照僧正が領主に命じて、清水山に弘法大師作(一説に行基作)の観音像を安置したとされる。延喜十五年
(915)子供の疱瘡が流行した時、観音のお告げによって府坂に移すと病は下火となったため、童子堂と呼ばれるようになったという。府坂とは、現在の第二十一番矢之堂から童子堂へ向かう途中を右折して、長尾根丘陵を西に越える府坂峠のことである。
峠の途中に、杉に囲まれた平地があり、半壊した六地蔵石仏が並んでいて、ここが童子堂の旧地とされており、明治四十三年
(1910)に現在地に移転した。『新編武蔵風土記稿』には、「栄福寺持」と記されている。栄福寺
(現在は永福寺)については、「西陽山と号す、新義真言宗、榛原郡本郷村東陽寺の末、本尊弥陀を安ず、開山南光寂年月を伝へず」という。童子堂入り口の地蔵尊から道路を隔てた反対側に栄福寺があったと云うが、僅かに「虚空蔵菩薩」と刻んだ自然石の小碑を残す丈で、現在では童子堂の隣にある建物を永福寺本堂と称している。
ごくらくを
ここでみっけて
わらうだろう
のちのよまでも
たのもしきかな
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第十日
第九日は31-32-33-34の拝礼を為した
平成25年3月七日(木)
第二十三番札所 松風山音楽寺 [小鹿坂]
第二十四番札所 光智山法泉寺 [白山別所]
月初めに子供達に会った。秩父巡礼が話題になった。上野発熊谷経由を勧められた。意固地に武蔵野線を固持した。其れなら武蔵浦和でなくて南浦和の方が、乗り換え時間を含めて少しは短縮出来ると謂われた。
家を八時に出て、秩父鉄道秩父駅に十時半到着した。今日は第二十三番松風山音楽寺[小鹿坂]と第二十四番光智山法泉寺[白山別所]をタクシーで廻ろうかと考えていたのだが、思いの外、はやく到着したので、二寺とも徒歩で巡拝することにした。
駅前を出て十丁程進むと荒川に掛かる秩父公園橋(吊り橋)に到る。此処まで来ると山は目の前に迫っている。
今日の行程は秩父駅から音楽寺まで一里弱、音楽寺から法泉寺まで一里弱。合わせて二里弱有るので、老生が写真を撮りながら歩くと、片道だけで一時間餘、往復で三時間掛かる行程である。
秩父駅前を十六番西光寺方面へ向かう。西光寺は左側だが、前方に吊り橋の秩父公園橋が見える。
橋の上から今月4日(月)に参拝した第二十一番 要光山観音寺へ行くときに、
(著者は歩道専用の舊秩父橋を渡った)並列に掛かっていた秩父橋の容姿が見えた。この道は秩父ミューズパークが出来たので出来た路だそうで、この道がなければ二十二番童子堂から、徒歩で来なければならない寺だそうだ。
橋を渡ると、急に写真のような郊外の景観に成る。前面に観光施設の時計が見え、寺はこの少し先の右側にある
道の右側には、守衛が居る観光施設の駐車場と覚しき広場がある。守衛所の脇を抜けると、寺へ到る緩やかな石段がある。
緩やかな石段を登ると、道は二手に分かれ、右へ進むと朱印處へ到り、直進すると寺院へ到る。
右へ折れた途中の左側に稲荷社の幟があり、前方に見える建物が朱印處である。
左側の道は急峻な石段に連なり、石段を見上げた前方に、棟頂が僅かに窺える。石段を登り切ると観音堂前面に出る。
【補解】神社があるのは神仏習合
音楽堂の由緒となる鐘
秩父困民党無名戦士の墓
秩父困民党無名戦士の墓
地蔵尊と手水鉢
朱印を戴きに行くには、石段を下り稲荷社の方へ向かう。
神道神社稲荷社は隅の方に鎮座。
仏教伝来以前から神道は尊崇の対照で、稲荷社もその一つ。
仏教が伝来し、其の普及のために都合の良い神道神社の傍らに、寺院を建立した。
神道は民衆の自己経営が基本なので、要員を配置する仏教には太刀打ちできない。
依って、庇を貸して母屋を取られるの態である。
稲荷社の先に本堂
(朱印處)がある。寺院境内は高台にあり、眼下(写真中央)に秩父公園橋が遠望出来る。
【屁理屈】
自分は偉い!と思ったときから、周囲は離れる。
他人はもとより、妻や子も例外ではない。
第二十三番 松風山音楽寺
[小鹿坂]埼玉県秩父市寺尾3773
宗派=臨済宗南禅寺派
札所本尊=聖観音
開山=慈覚大師
開創年代=天長年間
(824〜834)
現在の観音堂は、音楽寺本堂から一段高い地にあるが、さらに峠を登ったところに観音堂の旧跡とされる平地がある。今は小堂のみが建っていて、『秩父回覧記』に、「往昔御堂此ノ山ノ頂上ニアリ」と記されているところから、長享二年
(1488)当時、第十四番札所とされた観音は、この場所に祀られたのだろう。別当の音楽寺は、田村郷円福寺の二世南岩天揚
(1529年寂)が、峠を少し東に下った大宮郷向きの地に開山した。やがて札所観音の管理権を入手して、『新編武蔵風土記稿』では、観音堂は「音楽寺持」とされた。
縁起によると、天長年間
(824〜834)慈覚大師が関東を巡錫した折、当地に霊異を感じて、堂宇を建立し、観音像を刻んで安置したと記されている。その時、多くの小男鹿が現れて、この地まで案内したので、小鹿坂と呼ばれるようになったという。観音堂の前の梵鐘は、明和五年
(1768)の銘があり、六観音像が鋳出されている。明治十七年(1884)十一月一日、吉田町椋神社に集まった三千人の農民が武装蜂起し、翌二日には小鹿坂峠を越えて音楽寺境内に集結、この鐘を打ち鳴らして大宮郷に乱入したのが、困民党事件であり、境内には決起百年を記念して、昭和五十三年(1978)に「秩父困民党無名戦士の墓」が建てられた。観音堂の境内から、さらに峠を登った頂上には、十三体の地蔵石仏が横一列に並んでいて、一般に十三塚と呼ばれており、秩父巡礼開創十三権者の姿とされる。
ここから正面には、秩父市街を隔てて、武甲山の勇姿を望むことができる。
おんがくの みこえなりけり おがさかの
しらべにかよう みねのまつかぜ
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秩父観音霊家道徳場巡礼板東観音巡礼四国霊場巡礼神社参拝人生社会国
秩父駅から第二十三番松風山音楽寺[小鹿坂]迄は概ね一里弱、来た道を秩父公園橋手前の県道まで概ね半里戻る。県道で右折れし、一里弱半里強で第二十四番光智山法泉寺[白山別所]に到着する。24番法泉寺は広い道路に面し、石段をを登り小高い處にある。
案内標識先の電柱のところに石塊が二つあり、其処が寺院への入り口である。
広い道路から、寺院に通ずる長い石段が望める。中型バスで来た参拝客も、著者と共に登ったが、漸くに登り着いたら、先程のバスは上で客待ちしていた。
上り詰めると本堂がある
矢鱈に張られた千社札
本殿脇に掲げられた絵額
境内には石仏が祀られている
【屁理屈】人生とは生きている間の一日一日を謂う。
欲望を充足するために、人生を先売り(借金)する人が居る。
借金とは、人生を先売りして金銭の奴隷に成り下がる事である。
車が境内に有ったので、平坦な道も有るだろうが、今し方登った急な石段を下りて帰途に就いた。
もう一ヶ寺廻りたい気もしたが、草臥れたので止めた!
匆匆に熊谷駅に到着し、大宮へ行く電車を待っていると上野行きが来たので、その車両に乗った。
実は前々から妻に言われていたのだ。
お父さん、首都直下型地震の首都と謂うのは、東京ばかりではないんだよ!
東京、神奈川、埼玉、千葉を含めて首都直下型地震の範疇に入るのだって・・・・・・・
第二十四番 光智山法泉寺[白山別所]
埼玉県秩父市大字別所1586
宗派=臨済宗南禅寺派
札所本尊=聖観音
開山=泰澄大師
開創年代=不詳
百十六段の急な石段を一直線に登ると、正面に観音堂がある。山門はなく、観音堂の前面が山門のようになっていて、左右に張り出した小部屋に、仁王像が厨子に収められている。札所本尊の聖観音は、宋風の坐像で、室町時代の作である。
伝説では、毘盧遮那の仏勅によって、泰澄大師が加賀の白山を勧請したといわれていて、養老元年(717)、泰澄大師が白山の絶頂に至ると白山妙理権現が出現し、さらに近くの池で観音を感得したと謂う。
「武蔵国秩父に赴いて仏法を弘通すべし」と告げて、観音は飛び去ったため、大師も当地に訪れ、観音像を安置し、妙理権現を祀って奥の院とした。本尊は、日の神または天照大神の作と伝えられている。
『長享二年秩父観音札所番付』では第十二番札所であり、白山別所と記されているところから、白山系修験者によって奉祀されていたものと思われる。
当時は、白山の本地仏である十一面観音が、札所本尊として安置されていた。それが、いつしか聖観音に変更されたことになるが、文明十八年(1486)の聖護院門跡道興准后の関東巡錫に影響されて、別当の明星院が本山派に転じて今宮坊の配下となり、さらに聖護院直末に昇格する経過のうちに行われたのだろう。
明治五年(1872)の修験道禁止によって、石段の下にあった明星院は廃寺となる。その後、田村郷円福寺の末寺となるが、実質的には地元住民が管理してきた。
なお、「堂の艮にあり、巽向」と『新編武蔵風土記稿』に記された白山権現社は、明治初年に観音堂の西南の小山に移されて、白山神社として現存している。
あまてらす かみのははその いろかえて
なおまふりぬる ゆきのしらやま
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第十一日
平成25年3月11日(月)
第二十五番札所 岩谷山久昌寺 [岩屋堂・御手判寺]
第二十六番札所 万松山円融寺 [岩井堂]
今日は昨日の暖かさと変わって、山颪が強くとても寒い。出掛けては来たが早めに切り上げる事とした。
影森駅を下車し国道140号にでて、半里ほどで荒川久那大橋に到る。更に四半里、久那小学校を目当てに進む。
広い道を左折れし二丁ほど行くと、第二十五番岩谷山久昌寺[岩屋堂・御手判寺]の案内板に出会う。
その先一丁ほど先に紅い仁王門が左側に見える。
門を潜ると、寺域を出てしまったのかと思わせるほどの、長い舗装道路があり、左前方には防護シートで囲われた建物が見え、右前方には少しの高台が見える。
本堂は道路左側の少し高いところにあり、現在大掛かりな改修工事中であった。
工事現場を左横目に見て、更に上り進むと溜池の土手に出る。
昔の溜め池、今では弁天池と立派な名前が付いている
周囲を見舞わしても水田を見掛けないが、今も昔も農耕地にとって利水は重要な要件で、水田に付随した溜池は珍しくない。恐らく弁天池も溜池の一つであろう。
溜池の向こう側に寺宇がある。
現在改修中の建物が本堂で、この建物は客殿との事でした。
溜池から寺宇に続く右側に、白壁の土蔵があり、土蔵の扉上に興味有る飾があった。
池の傍らに立つ白龍王弁天を祀る弁天堂。
弁天池には錦鯉が飼われ、池の上部には堤が有って、蓮田が有った。
(今は冬なので枯れ葉だけ)
第二十五番 岩谷山久昌寺
[岩屋堂・御手判寺]埼玉県秩父市久那2215
宗派=曹洞宗
札所本尊=聖観音
開山=不詳
開創年代=不詳
『秩父三十四所観音霊験円通伝』によると、鬼が住むと里人に恐れられていた山に入った行脚の僧が、岩屋の前で母親の遺体にすがって泣いている娘に出会った。
鬼といわれた母親の素性を聞いて、一切の事情がわかったので、娘をつれて里に下り、里人たちと力を合わせて堂宇を建立。僧が持っていた行基菩薩作の聖観音を、本尊として安置したとされている。
現在の観音堂の脇には、崩れた岩屋の跡があって、『新編武蔵風土記稿』に「堂後に盤石あり、古は岩窟にてその中に安ずと云」と記されているので、この岩屋に祀られていたのだろう。そのため、第十一番札所とされた『長享二年秩父観音札所番付』では、岩屋堂と称したと思われる。
別当の久昌寺は、「曹洞宗、大宮郷広見寺末、本尊弥陀を安ず、恵心僧都の作」と『新編武蔵風土記稿』に記し、広見寺の五世真雄正顛(
1572年寂)を開山としている。岩屋堂の近くに創建された久昌寺は、岩屋倒壊の後に観音堂を建立し、管理権を入手したと考えられる。
現在、観音堂と久昌寺の間には弁天池があり、そこから観音堂の屋根を越えて、武甲山を望むことができる。
また、伝説では、秩父巡礼開創の折、播磨国書写山の性空上人が冥府に招かれた。そして、一万部の経典を誦し、閻魔王から証文と石の手判を授けられたといわれている。
性空上人は、証文を西国第二十四番中山寺に納め、手判を当寺に納めた。そのため、御手判寺と呼ばれている。この時のものとされる手判が現在も伝わっており、和紙に刷った物を授与している。
みなかみは いづくなるらん いはやどう
あさひもくなく ゆうひかがやく
秩父三十四観音板東三十三観音四国八十八霊場七福神先頭へ戻る八百万の神々仏教神道キリスト教ユダヤ教イスラム教 秩父観音霊家道徳場巡礼板東観音巡礼四国霊場巡礼神社参拝人生社会国
岩井堂途次
第二十六番万松山円融寺
[岩井堂]へ行くには、先ずは秩父鉄道影森駅まで戻らなければならない。来るときも遠いと思ったが、帰るときは草臥れているので猶更遠い。19・20・21・22・23・24・25 と、ずっと三峰口
(秩父鉄道)へ向かって右側の寺院だったが、26・27・28・29・30 は何れも三峰口へ向かって左側の寺院で、而も鐵路から近い。
影森駅から三峰口へ向かって鐵路左側の大通りに出る。秩父方面に向かって5丁ほど、右側奥に26番圓融寺が有る。
案内表示に従って少し進むと圓融寺の石柱があり、遥か前方に幅広の石段と大きな建物が見える。
写真左側が本殿の由 他にも大きな建物が見える
26円融寺幅広の石段を登ると本殿前面に出る。大きな建造物だが殆どの寺院で見掛ける回り廊下と参拝の施設が見当たらない。
参拝は正面の銅鑼の下がっている處の扉奥で為す。
参道の端に由緒書きの看板を見掛けた。
圓融寺案内によると、26番岩井堂も併記されているので、其方にも行くこととした。先ず影森駅近くまで戻り、琴平神社を探す。
琴平神社の鳥居を潜り急な石段(約300段)を登り、神社奥の院を通り過ぎると、その先に懸崖造りの観音堂がある。
26番圓融寺からは大分離れているが、圓融寺の奥の院だそうだ
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