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人が沢山居るから賑やかとは限らない。 お金が沢山あるから裕福とは限らない。 高学歴だから賢いとは限らない。 健康だから幸せとは限らない。 子供が居るから安泰とは限らない。

実話談

緒言
「ひと」―子供達が出て行く世の中の人たち―
 はじめに
 日本の教育が知育偏重だと指摘されて久しいが、それは未だに殆ど改善をみていない。日本が敗戦の荒廃から立ち上がる為に、先ず物資に貢献する知識と人材の確保を優先した。更に敗戦後の社会情勢が、思想と人徳の区別も出来ぬまま混同して、遂ぞ心の問題は後回しにされた。

 それでも昭和初期生まれの祖父母の時代には、家庭の内外に於いて心の教育を受けた経験もあるが、現在の若者の時代に至っては、その親自身も物資優先の時代に育って、心の問題そのものについて何も知らない。

 心の教育の意義も方途も知らない親と教師が、子弟の教育に当たったその結果が、知識と心のバランスが崩れた青少年を作り出してしまった。そして教師にあっては、なまじ社会情勢に振り回される問題に手を染めるよりは、「知識の切り売り」ほどイージーなやり方は無かったのである。

 かくして校内暴力やイジメ、そして其の結果として自殺があとを絶たない。また社会人になっても社会に適応出来ない若者が多い。現在の学校教育では健全な人間が育たないのは誰の目にもはっきりしている。そして幾つかの社会現象から大きな反省が生まれている事も事実である。

 然し教育を変えるのには長い時間を要する。勿論学校制度や入学試験のあり方についても研討を要しよう。然し最大の課題はその親たちの属する社会の認識を変えることで、その社会の要請を受けて教師の養成を変えなければならないと言う順序であろう。そして知育偏重ではない教師が、健全な青少年教育を担当できるようになるまでには、未だ相当の時間が掛かることを覚悟しなくてはならない。

 一方、現実に青少年を抱えた家庭は沢山ある。親たちは知育偏重の功罪も、この現状をどう脱却したらよいのかも、混沌として全くその術を知らない。こちらは待ったなしだ。世の中にどの様な人間がどのくらい居るのか?実は親自体が、これから子供達が出て行く世の中の現実を知らないのである。

 この本はその現実を書いた。まったく筆者の体験によるもので何の参考書も使っていない。この本は世の親たちがどうすれば良いかまでは書いていない。つまりハウツーものではない。だが先ず現実を知る事こそ総ての第一歩である。そして其処から如何にすべきかを国民全員が考え、健全な次の世代を育てる知恵を見い出すべきであると思う。

 世の中には色々な人が居る。ほおっておいても自ら世を切り開いて行くだけの才能に恵まれた人も居よう。けれども大多数の人はそうではない。矢張り一人の社会人となる為には、其れだけの知恵を得なければならない。本当は青少年教育で最も大切なのは其れである筈だ。中学が義務教育になっている理由のひとつは其処にある。この本に書いた人間の生活様態の中から、知識ではなく生きるための知恵を探し出して戴きたい。其れが少しでも知育偏重から脱却するヒントになれば、筆者として望外の喜びである。

 

管理人からのお願い

 管理者からの注文があります。読者諸君はこの書き物を読んでも、此処に書かれて居ることを絶対に信じてはいけません。信じてはいけないと言うと、短絡的に其れでは疑え!と云う事か?と云う人が居ますが、信じないと云う事は疑うことではありません。信じないと云う事は、無闇に鵜呑みにしないことで、「貴方自身の見識で判断しなさい」と云う事です。

 人生で一番大切な事は「自分自身の見識で判断する」ことです。信じると云う事は、物事の判断を放棄して仕舞うことです。物事は予定通りの結果が出ることなど希です。信じた結果が外れたとき相手はどうしてくれますか?その償いをして呉れる者などごく希です。

 どうしてかって?自分の言葉に責任を持って償いをする様な誠実な者は、後々の責任を考慮して、信じてくれ!などと云う言葉は滅多に使わないのです。

 信じると言う言葉は、表面は美辞を装いますが、裏面には責任を負わないと云う現実が潜んでいるのです。

 その結果裏切られたと云う結末に成ります。でも其の責任は誰にあるのですか?貴方は‘信じる’と云う虚無の言葉に躍らされ、物事の判断を自分でせずに放棄したのです。だから其の責任は当然貴方に有るのです!

 それでは信じるという虚無の言葉に躍らされる事なく、物事を自分で判断すれば、良い結果が得られるのかと云うと、そうとも限りません。其れは貴方の判断が間違った結果なのです。其の確率を上げる方法は、多くの知識と経験以外には無いのです。

 物事の判断をするには、大まかに云って二つの要素が必要です。其の一つは知識です。もう一つは経験です。知識とは一般に云う知識そのものです。もう一方の経験とは、知識を土台にして五体に覚え込ませることです。其れによって、筆舌では言い尽くせない事柄、微細なことや反面的な事を知ることが出来、更に相手を尊重し思慮する心や、我慢する心、又決断する心、が養われます。

 そして人それぞれに軽重は有りますが、知識に裏打ちされた経験と経験に裏打ちされた知識を身に付けています。其れを一般に「人格」と言い、経験ばかりで知識を軽んじますと系統的に物事を判断することが疎くなり、亦知識ばかりで経験を伴わないと空理空論に陥り易くなります。