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義民佐倉宗五郎
我が国義民の代表者として佐倉惣五郎の名はあまりにも有名ですが、佐倉宗吾と称するのは、堀田領内佐倉城下の住人であったことと、後に己の姿勢を悔いた領主が、宗吾と追諡したからで、本名は木内惣五郎と謂い、慶長17年(1612年)下総國印旛郡公津(現在成田市台方)村に生まれた。
今から350年前、佐倉宗五郎。下総国印旛郡佐倉は堀田家の領地であったが、印旛沼の埋め立て事業が失敗、年貢の取り立てが年々厳しくなる。ある時、祝い事にかこつけて名主が宴会に印鑑持参で呼び集められ、強引に年貢を向こう五年間二割増しにさせられてしまう。
この宴席に一人行かなかったのが公津岩橋の名主・宗五郎だった。彼は一揆寸前のよその小前を説得し、自分が佐倉を代表して殿様に直訴。しかし暗君である堀田上野介はこれを取り上げない。やむなく、かれは大老・酒井雅楽頭に駕籠訴えをする。
この訴えは聞き届けられるが、堀田は酒井の説得にも耳を貸さない。酒井は宗五郎の身柄を上野寛永寺の凌雲院大僧正・お手代圓珠院に預ける(寛永寺内は一種の治外法権エリア)。こうなれば命を捨てる覚悟で将軍家に直訴するしかない、と宗五郎に助言した圓珠院は、出入りの駕籠屋(侠客)・井筒屋五郎兵衛に命じて、妻子との別れをさせるため宗五郎を佐倉へ送る。
安食の宿・島屋源兵衛という旅籠で役人の詮議を危うく逃れると、宗五郎は松崎の土手へ。ここで渡し守・甚兵衛の義侠で舟を出してもらった(「甚兵衛渡し」)宗五郎は、自宅へ戻って妻子に別れを告げる。
帰途、役人に見咎められた宗五郎は甚兵衛によって救われるが、甚兵衛はこの役人を殺した罪を負って印旛沼に投身して亡くなる。
万治元年十二月二十日、圓珠院のサポートのもと、寛永寺にお成りの将軍家綱に宗五郎は直訴する。これは取り上げられ、堀田家の重臣共はことごとく重く罰せられる(かつて宗五郎の訴えを取り上げようと努力した江戸家老小島式部をのぞく)。宗五郎は堀田家へ引き渡されて、妻子もろとも処刑される。こののち、堀田家は改易となる。継いで「木村長門守」。
宗吾霊堂殿
京成電鉄宗吾参道駅下車直前数分で門前に至る
門を通ると前に仁王門、左手に土産物店
鳴鐘山東勝寺
仁王門を内側より撮影
山門を入り右手に木内宗吾氏の墓所
薬師堂
慈眼閣
本堂
霊寶殿
宗吾御一代記館
聖天堂
鐘楼
旧宅
霊堂から数キロの処にある。幹線道路から、幅3bほどの
坂道を降り、坂下の左側
旧宅
旧宅の井戸
甚平渡し
甚平渡しにある松林
昔は印旛沼の渡船場
現在は印旛沼の干拓が行われ、水面からは随分と離れた位置にある。
松林