出雲大社

 出雲大社は島根県出雲市にある神社である。式内社(名神大)出雲国一宮で、旧社格は官幣大社であった。

 現在は神社本庁包括に属する別表神社、宗教法人出雲大社教の宗祠である。

【注】
 名神大社とは、日本の律令制下において、名神祭の対象となる神々を祀る神社である。古代における社格の1つとされ、その全てが大社(官幣大社・国幣大社)に列していることから「名神大社」と呼ばれる。

 『延喜式』巻3の「臨時祭」の「名神祭」の条下と、同巻9・10の「神名式」され、後者の記載に当たっては「名神大」と略記されている。

所在地 島根県出雲市大社町杵築東195

主祭神 大国主大神

出雲国一宮

官幣大社

勅祭社

境内(千木のある建物が本殿)

 正式名称は「いずもおおやしろ」であるが、一般には「いずもたいしゃ」と読まれ、二拝四拍手一拝の作法で拝礼する。

 明治維新に伴う近代社格制度下において唯一「大社」を名乗る神社であった。創建以来、天照大神の子の天穂日命を祖とする出雲国造家が祭祀を担ってきた。

 

 現在も、皇室の者といえども本殿内までは入れないしきたりを守り続けていて、約60年に一度行われている本殿の建て替えに際して、神体が仮殿に遷御された後に、本殿の内部及び大屋根が公開されることがある。

 明治以降古代より杵築大社と呼ばれていたが、1871年(明治4年)に出雲大社と改称し、1871年(明治4年)に官幣大社に列格の後、大正時代に勅祭社となった。

 現在の本殿は1744年(延享元年)に作られ、高さは8丈

(およそ24m)で、これも神社としては破格の大きさであるが、かつての本殿は現在よりもはるかに高く、中古には16丈(48m)、上古には32丈(およそ96m)であったと伝えられる。

 その伝承より想定される形は大変不思議なもので、空に向かって延びた何本もの柱の上に社が建つというものであった。この想定は東大寺大仏殿(当時の伝承によれば十五丈・45m)や平安京大極殿より巨大であったとされる。

 これは平安時代に源為憲によって作られた「口遊」で、数え歌に歌われていること(雲太、和二、京三=出雲太郎、大和次郎、京三郎)を元にしている。

 

 16丈の建築物が古代において建造可能であったのかに疑問を呈する意見もあるが、実際に何度も倒壊したという記録があり、当時の技術水準では不可能なものをあえて建築してしまった可能性は否定出来ない。

 上古32丈についても、山の頂上に建てられ、その山の高さであると推測すれば、不自然では無いという意見もある。高層建築が必要とされたのは別天津神の祭祀と関係があるとする説もある。

 2000年(平成12年)、地下祭礼準備室の建設にともなう事前調査に際し、境内からは勾玉などの他、巨大な宇豆柱(直径約1.4mの柱を3本束ねたもの)が発掘された。

 古代社殿の柱ではと注目を集めたが、中世の遺構で現在とほぼ同大平面であり、柱の分析や出土品からも1248年(宝治2年)造営の本殿である可能性が高まった。

 

 

 

島根県出雲市

 

この御朱印は茨城県にある分社です(茨城県笠間市)

 

☆小泉八雲の旧跡とゲゲゲの鬼太郎と大社とも参拝した

 

 

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楯縫神社

 楯縫神社は、茨城県稲敷郡美浦村郷中2988番地(旧信太郡木原村)にある神社である。古名は信太郡一宮、式内社(常陸国信太郡、小社)、旧県社で、美浦村信太にも同名の楯縫神社がある。

所在地 茨城県稲敷郡美浦村郷中2988番地

主祭神 普都主命

創建  推古天皇16年(608年)

別名  信太郡一宮

祭神  主祭神 普都主命(普津主神、普都主大神)

        主祭神を彦狭知命とする別伝もある。

    配祀神 大己貴命二座、須佐之男命、宇迦魂命二座、皇産靈命、市杵島姫命、熊野加夫呂岐命

 参道は国道125号現道に面しているが、境内は奥まった場所にあるため発見しにくく、巨樹林立する樹叢に、長大な参道が通り、奥部に社殿を構えていて、社務所や目立った境内社はなく、樹叢と社殿による素朴な構図を楽しむことができる。

 

境内は茨城県指定自然環境保全地域で、常陸国風土記の信太郡の条の普都神話に描かれていて、普都大神が楯を脱いだ地、すなわち「楯脱(楯縫)」の聖地とされている。

 木原の地名由来伝承には二説あるが、いずれも一帯が往古から豊かな森であったことを伝えている。

 普都神話の聖地の結び付きから竹来阿彌神社と関係が深く、往古は信太郡東西の総社として一宮二宮を称していた。

 楯縫神社は信太郡一宮として、旧郡域一帯では筆頭の格式にあって、普都主命の神輿を霞ヶ浦を介して阿彌神社に渡御する古式祭(鹿島神事)も行っていた。

珍しい木製の狛犬

☆村内にある規模は大きいが普段は人気のない神社である。筆者はこの地で牧畜業を営んでいた経緯があり、神社は身近な場所でもあった。

 

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女化神社

 女化神社は、茨城県龍ケ崎市にある神社で、社地は牛久市女化町(旧河内郡柏田村)内の飛地にあり、通称は女化稲荷神社といい、稲荷大明神、女化稲荷社、保食神社、一葉稲荷などとも云われていた。

所在地 茨城県龍ケ崎市

    馴馬町5387

主祭神 保食命(女神)

創建  永正6年(1509年)

別名  女化稲荷神社

 

 創建については、室町時代の永正6年(1509年)と、建久年間(1190-1198年)説もある。

 祭神は保食命である。五穀豊饒・商売繁盛の神として信仰されていて、一説に、伏見稲荷大社を詣でた地元の人が当地に稲荷信仰を伝えたのが始まりともいう。

 

往古は稲荷大明神とも称した。明治2年(1870年)に女化稲荷社から保食神社へ、明治17年(1885年)に女化神社へと改名した。ただし女化稲荷神社と呼ばれることが多く、社名碑にも「女化稲荷神 平成15年に新築された拝殿    社」と刻まれている。

 この地は文化元年(1804年)、牛久助郷一揆(女化騒動)の拠点になったとも謂われ、一説には、常陸国風土記の信太郡の条にある「飯名社」(つくば市臼井の飯名神社の分社)の比定社ともいう。

 女化民話に依れば、社地周辺は「女化原」と呼ばれる元原野で、『女化物語』という民話を伝えていて、大筋は同じだが、異なる2つの伝承があり、その他にも民間伝承がある。

 本殿裏から北に伸びた道の先にある「女化神社奥の院」は、正体を知られた霊狐が姿を隠した森と伝えられている。

(ニユータウンで開発されたが、以前は原野が広がる地域であった)

【伝説】

 栗林義長伝赤松宗旦「利根川図志」(安政2年, 1855年)五の「栗林義長伝」等が次のように伝えている。  その一つを紹介しよう。

 牛久城主岡見氏の老臣に栗林義長がおり、稲塚に向けて駒を走らせていたが、道中、火縄の匂いが鼻に入ったため、気を引き締め、辺りを見渡すと、猟師が鉄砲を構えていたので、その先を観ると、一匹の狐が腹を痛めて前足でさすっていた。

 あまりの痛さに火縄の匂いにも気づいていない様子であった。

 義長は飯名権現の詣で出たばかり、それも飯名権現の使い姫はキツネであり、飯綱使いの巫女はキツネを用いて人の吉凶を占うと云う。義長は飯綱使いに頼んで妻の交霊をしてもらった恩もあったので、小石を猟師に向かって投げつけ、弾は狙いを外した。それに気づいた狐は察して逃げた。

 社前に戻ると亡き妻に似た女がおり、義長はその女を娶るが、女との間に生まれた子が6歳の頃、妻の正体が狐とわかり、行方知れずとなった。

 翌日、縁先に「みどり児の母はと問わば、女化けの原に泣く伏すと答えよ」と書かれた一枚の紙が置かれていた。以来、この原を「女化原」といい、いつからか稲荷の祠が建てられた。

 

狛犬ではなく狐

 毎年初午には、昔ながらの道具市と植木市が立つ

 近年はホームセンターが出来て、昔日の活況はない

毎年初午の日に開かれる植木と道具市を目当てに訪れる神社

 

 

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常陸國総社宮

 古代、国司は各国内の全ての神社を一宮から順に巡拝していたが、これを効率化するため、各国の国府近くに国内の神を合祀した総社を設け、まとめて祭祀を行うようになった。

 当社はそのうちの常陸国の総社にあたり、石岡の中心市街地を抱く丘陵の縁辺に位置し、西から南にかけて恋瀬川の低地を望み、社地は旧常陸国衙に隣接する。氏子は1994年(平成6年)時点で約2,500戸で、各町ごとに氏子会が組織されている。

 

 毎年9月に催行される当社の例祭である「常陸國總社宮大祭」は別名を「石岡のおまつり」と言い、関東三大祭りの1つに数えられる。

現在の祭神は以下の6柱。

伊弉諾尊         大国主尊

素戔嗚尊         瓊々杵尊

大宮比売尊      布留大神

社伝によれば、奈良時代の天平年間(729年 - 749年)の創建とされるが、『石岡市史 下巻』では、総社の制度が確立したのが平安時代末期であることから疑問を呈している。

 当初の社名は「国府の宮」であったが、延喜年間(901年 - 923年)に天神地祇の6柱の神が祀られるようになって「六所の宮」となり、さらに「総社」に名を改めた。

 

 また創建当初は現在の常陸国分尼寺跡付近にあったとされるが、天慶年間(938年 - 947年)に大掾氏が常陸府中(石岡)に築城した際に鎮守のために現社地に遷したという。

所在地 茨城県石岡市総社二丁目8-1

創建  天平年間(729年-749年)

本殿の様式 流造

別名 總社神社・明神さま

 

 2013年12月に行われた氏子 による寒中禊ぎ

【屁理屈】

 神社の創建には、あれこれと謂われは有るが、どんな謂われが有ろうとも、神社の主体は氏子で有ることに、何ら変わることがない!

この事こそが、神道の本質である。

【屁理屈】

1.愛別離苦(愛する人と別れる苦しみ)

 二つ以上の個体なら、離れない事は有り得ない。どんなに仲良しな夫婦でも、必ずどちらかが先に死ぬ。 当然あることに悩んでも仕方有るまい。

【屁理屈】

 知っていることと、出来ることは違う!

 知っている人は沢山いるが、出来る人は、それ程多くない!

友人宅の近くの神社

 

 

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神倉神社

 神倉神社は、熊野速玉大社の摂社で、新宮市中心市街地の北西部にある千穂ヶ峯の神倉山(標高120メートル)に鎮座し、境内外縁はただちに断崖絶壁になっている。

 山上へは、源頼朝が寄進したと伝えられる、急勾配の鎌倉積み石段538段を登らなければならない。

 山上にはゴトビキ岩(「琴引岩」とも。ゴトビキとはヒキガエルをあらわす新宮の方言)と呼ばれる巨岩がご神体として祀られている。

 

 この岩の根元を支える袈裟岩と言われる岩の周辺では、経塚が発見されており、其処では平安時代の経筒が多数発掘され、そのさらに下層からは銅鐸片や滑石製模造品が出土していることから、神倉神社の起源は磐座信仰から発したと考えられている。

 神倉神社の歴史的な創建年代は128年頃と考えられているが、神話時代にさかのぼる古くからの伝承もある。

 『古事記』『日本書紀』によれば、神倉山は、神武天皇が東征の際に登った天磐盾の山であるという。

 このとき、天照大神の子孫の高倉下命は、神武に神剣を奉げ、これを得た神武は、天照大神の遣わした八咫烏の道案内で軍を進め、熊野・大和を制圧したとされている。

 しかし、「熊野権現御垂迹縁起」には神剣と神倉山を結びつける記述はないことから、天磐盾を神倉山と結びつける所説は鎌倉時代以降に現れたものと考えられている。

 時代が下るにつれて、熊野信仰と垂迹論とが相俟って、諸説縁起が現れた。

 

神社の構成は

    御神体の巨岩

    ゴトビキ岩

    拝殿

所在地 和歌山県新宮市

    神倉1-13-8

主祭神 天照大神

    高倉下命

創建  128年

    (景行天皇58年)

 

 

☆新宮へ行った時にタクシーの運転手に教わった

 

 

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諏訪大社

 諏訪大社は諏訪湖を挟んで上社は茅野、下社は下諏訪駅近くに在る。そして上社 本宮(上)と下社 秋宮(下)の両社を併せて諏訪大社と云うようだ。

所在地 長野県の諏訪湖周辺に4宮

主祭神 建御名方神 八坂刀売神

信濃国一宮

創建 不詳

 上社の神紋は「諏訪梶の葉」で、神紋は上社が四根の梶、下社は五根の梶。諏訪大社は、長野県の諏訪湖周辺4ヶ所にある。

 全国に約25,000社ある諏訪神社の総本社で、旧称は諏訪神社で、通称として「お諏訪さま」・「諏訪大明神」等とも呼ばれる。

上社拝殿

 創建の年代は不明だが、日本最古の神社の1つといわれるほど古くから存在する。『梁塵秘抄』に「関より東の軍神、鹿島、香取、諏訪の宮」と謡われているように軍神として崇敬された。

 また中世に狩猟神事を執り行っていたことから、狩猟・漁業の守護祈願でも知られる。

 

 社殿の四隅に御柱と呼ぶ木柱が立っているほか、社殿の配置にも独特の形を備えていて、社殿は多数が重要文化財に指定されているほか、6年に一度(7年目に一度)催される御柱祭で知られる。

 諏訪大社の御柱は寅と申の年に建て替えられ(御柱祭)、全国の諏訪神社や関連社でも同様の祭(小宮祭)が行われる。

 『諏方大明神画詞』には平安時代初期の桓武天皇年間(781年-806年)に御柱祭実施の記載があり、その頃にはすでに御柱が設けられていたとされる。

下社拝殿

 

  

御神渡 御柱祭上社の川越し

 この頃は温暖化で諏訪湖の結氷も少なくなったが、厳しい寒さで湖水の水が凍り、氷が押しくら饅頭して盛り上がってしまう。

 此を見た粋人が、神様が湖面を渡った!と巧く脚色した。

 神社の起源に依り代が云われる。御柱祭が何時から伝わっているかは定かではないが、この行事を通して近隣住民が一致団結して、大いに愉しむ!神道の心髄ではないか!

 この頃はテレビで諏訪大社の御柱祭りを放映するので、全国的に有名となった。

 重厚な神事と、破天荒に悦び勇む民衆と、両者相俟って詰まらぬ悩み事など吹き飛んでしまう!此こそが御祭神の御利益であろう。

【屁理屈】

 霊魂は有るのか?

 霊魂が有るのか無いのか?著者には解らない!

 人間だけが特別な存在ではないのだから、霊魂が有るとすれば、宇宙に存在する総ての生命体に有ると謂える。

茅野に友人が居たので数回は参拝している

 

 

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生田原神社 (遠軽町)

 草創期は僅かに住民が小祠を建て祭祀を行っていたが、大正7年相謀りて札幌神社に請願し、3柱の大神の御分霊を拝戴し神殿を改築し生田原神社として祀ったことに始まる。

 

 昭和8年小森七郎より境内地の寄附を受け、昭和9年11月社殿の新築を行い境内諸般の整備がなされた。

 昭和12年6月神社の社格が認可され、昭和15年村社に列せられる。昭和21年宗教法人生田原神社とし設立され現在に至る。

 昭和31年8月西生田原神社(未公認)を合祀し、昭和51年11月現在の神社社務所及び宮司住宅を兼ねて建設した。

所在地 〒099-0701

    紋別郡遠軽町字生田原237番地

祭神  大國魂神

    少彦名神

    大己貴神

社殿面積  22坪

境内面積  2000坪

氏子世帯数 1100世帯

崇敬者数  3100人

 

 近頃町村合併で呼び名が替わったが、以前は北海道紋別郡生田原町と称していた。畑作と酪農が営まれる地域である。冬の寒さは氷点下30度にも成るという。

 この地域は開拓地で、総てに厳しい処である。心の拠り所として神社は必要不可欠な施設である。

 

【屁理屈】

 聞くところに依ると、開拓地に入ると、西洋人は先ず教会を建てる。

 日本人は先ず学校を建てるという。

 西洋人は、自分の判断を神様に委ねて、気持ちを楽にする。

 日本人は、自分の判断は自分でする。そして何れの結果でも、その結果を人生の糧として受け入れる。

 これらは神道の精神である。

 自分の判断をより確実にするには知識が必要である。知識を得るには学校が必要である。

 友人に尋ねたところ、祠を作る以前に学校は作った!と云っていた。

☆友人が住む地域には人気がなく、目と鼻の先に見えるのに、隣の家まで1q離れている。

 家の先!云うと、10q先である。

 

 

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西根神社

 伊達郡川西一帯(西根郷)の水田の灌漑用水として、今も利用されている西根堰の開祖、佐藤新右衛門と古川善兵衛の二人をおまつりしている。

 400年程前に2人が中心となり、土壌は豊かだが水の少ない1,200haの土地に水田灌漑施設を作った。

 境内は、寛政4年(1792)以降、明治まで三河国刈谷藩陣屋のあった場所で、西側に並ぶ古碑は、いずれも古川善兵衛の功をたたえるもので左の板状の一基は、上堰取入口の近く穴原にあったもので、柱状の一基は湯野の現在の稲荷屋の屋敷内に建てられていたものであった。

 

 西根神社は、西根堰の用水に感謝した農民が両氏の徳をたたえるために、西根郷33村4,231名の発願で、明治20年に建立され、秋季祭礼は、例年9月14日です。

 西根神社の境内に、高畑天満宮(高畑の天神様)というもう一つの神社があり、病気平癒、難除け、学問の神様である。

 そこで、毎年1月13〜16日、4月27日に「うそかえ祭」が行われ、数万人がお参りします。

 昔、高畑の天神様の参拝者を襲った蜂の大群を、鷽という鳥が食い尽くしてくれました。「うそかえ祭」に「木彫りのうそ鳥」を得ると、災難除けや受験合格などのご利益があると言われています。

 正面の大きな本殿の左側にかわいらしい社殿が見える。

 そこが高畑天満宮で、皮肉にも此方の方が人口に膾炙している。

 

所在地 福島県福島市飯坂町湯野神明脇2 ?

御祭神 古川善兵衛重吉

    佐藤新右衛門家忠

【屁理屈】

 この神社は新田開発の功労者、佐藤新右衛門氏と古川善兵衛氏の功績を顕彰して建立した神社だが、顕彰者の功績も歳月と共に薄れて、今ではすっかり素戔嗚尊(神話の人物)ほどの認識と成って仕舞った。

 それに引き替え、境内社の高畑天満宮の鷽という鳥の方が有名になってしまった。嘘を帳消しにしてくれる方が、よっぽど嬉しい。

 世の中とはそう言うものだ!

☆福島市の友人と共に参拝し、新田開発の偉業を為した偉人に敬意を表します。

 

 

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青島神社

 青島神社は、宮崎県宮崎市青島にある、青島のほぼ中央に鎮座する神社で、周囲1.5kmの青島全島を境内地とする。

 青島は全島が熱帯・亜熱帯植物の群生地として、国の特別天然記念物に指定されていて、元来は海洋に対する信仰によって創祀されたと考えられ、古くから青島自体が霊域として崇められており、そこから後述するように江戸時代まで全島が禁足地とされていた。

 社伝によれば、山幸海幸神話で、彦火火出見命が海神宮から帰還した際に青島に上陸して宮を営んだため、その宮跡に命と上記2柱の神を祀ったのに始まると伝えるが、寛文2年(1662年)の大地震で旧記古文書類を失った為に創祀の古伝を詳らかにしえないという。

所在地 宮崎県宮崎市青島2丁目13-1

御祭神 天津彦火火出見命

    豊玉姫命

    塩筒大神

創建  不明

 神社の旧記によれば、平安時代の日向国の国司の巡視記とされる『日向土産』なる書に「嵯峨天皇の御宇に奉崇青島大明神」と記され、当時既に崇敬されていたと伝えられる。

 

 その後文亀3年(1503年)に伊東尹祐によって再興されて以降、伊東氏の篤い崇敬を受け、6度にわたる社殿の造営・改修や、境内の保全事業が行われた。

 また、飫肥藩時代は藩士の中で土器格の者1人を島奉行に任じ、島内の樹林や磯辺を監守させた他、牛馬を渡島させたり発砲を禁じたりと一切の汚穢を警戒させていた。

 元文2年(1737年)まで入島は神職と島奉行のみに限られ、村民は対岸の尖浜(現青島海水浴場)に拝所を設けて遙拝していたが、当時の神主であった長友肥後が藩主に解禁を申請し、以来一般人の渡島参詣が可能になった。

【屁理屈】

 お早う御座います!

は、相手への敬意だ!

 この頃、朝の挨拶もしない“ひと”も居る

【屁理屈】

3.求不得苦(欲しいものが手に入らない苦しみ)

 欲しいものが手に入らない苦しみ、と言うが、欲しいものが何でも手に入ったなら、却って其れが悩みになるのである。

 “ひと”の活力は、欲望を満たそうとする願望が根底にある。欲しいものが何でも手に入ったら、(著者にはその点は未経験である) 其れは其れで不満に成るのではないか?

 だいたい欲が深すぎやしませんか?

【屁理屈】

 何を遣ったら良いのか分からないと云う

 まずは、いま出来ることから始めよう

 それから徐々に考えよう!

 白状しますが、著者はこの歳になっても、何をしたらよいのか分かりません!

 あれこれしている内に、この歳に成ってしまいました!

宮崎県の友人宅の近くの神社で、友人の話によると、この青島は椰子の木林なので、伴淳三郎と花菱アチャコの二等兵物語の撮影が為されたそうである。彼の若かりし頃の話が延々と続いた!

 

 

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石岡金比羅神社

 名前からもわかるように、此方は香川県琴平山の金刀比羅宮からの御分霊を勧請した神社である。

 御祭神は「大物主神」で、相殿神として「崇徳天皇」と「経津主神」を祀っている。

 

友人宅の近くの神社

 由緒として、当社の鎮座地は古くから「森」「森木」「守木」との古称があり、これは神社・神木・神垣の意味で、古代神木祭祀の時代からの由緒ある神域であったと言われてい。

 平安時代、桓武天皇の曾孫平高望王が常陸大掾に着任すると、平氏所縁の神社として森の祭祀が継承され、歴代の平氏の子女が祭主となり神役に勤仕していたたそうである。

 

 森は「大森太明神」と尊称されました天正十八年(1590)、戦乱の兵火の中、森は壊滅してしまい、常陸平氏も滅亡してしまったが、神社は平氏の後裔である別当八大院により再興されている。

 江戸時代には「こんぴら信仰」が人々の間に流行し、当社も「金毘羅大権現」として信仰されていったようで、文政十年(1827)に、あらためて讃岐國象頭山の金毘羅大権現より御分霊を勧請している。

 その後、「笠間の稲荷か、石岡の金刀比羅さまか」と言われるほど賑わいを極めたようだが、明治三十九年に香取神社と合併し、現在の社地は香取神社の旧社地になるそうである。

 旧社格は無社格で、当社はまた幾度も火災に遭遇しており、最近のものでは昭和四年の石岡の大火で消失、平成十二年にも火災で社殿が焼失し、平成十九年に現在の社殿に再建されている。

【屁理屈】

 巧みな言い訳をして辻褄を合わせても、

 事実は変わらない!

 自分が納得しているだけで

 他人は納得していない

友人宅の近くの神社

 

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