高千穂神社

 高千穂神社は、宮崎県西臼杵郡高千穂町に鎮座する神社である。

 

高千穂皇神は日本神話の日向三代と称される皇祖神とその配偶神(天津彦火瓊瓊杵尊と木花開耶姫命、彦火火出見尊と豊玉姫命、彦波瀲武??草葺不合尊と玉依姫命)の総称で、十社大明神は神武天皇の皇兄、三毛入野命とその妻子神である三毛入野命の妃神である鵜目姫命と、両神の御子神である御子太郎命、二郎命、三郎命、畝見命、照野命、大戸命、霊社命、浅良部命)の総称とされる。

所在地 宮崎県西臼杵郡高千穂町大字三田井字神殿1037

主祭神 高千穂皇神

    十社大明神

創建  不明

別名  十社大明神

 

 高千穂は日向三代の宮である高千穂宮が置かれた地と伝えられるが、天孫降臨伝承と在地固有の信仰が融合し、更に熊野修験も加わるなど複雑な信仰を包含する。

 神話の高千穂夜神楽まつり(11月22-23日) - 夜を徹して重要無形民俗文化財に指定されている高千穂の夜神楽全33番が奉納される。

 

ちなみに境内の神楽殿では、年間を通じて観光用に33番の中から「手力雄」・「鈿女」・「戸取」・「御神体」の4番が実演されている。

 境内に以下の境内社がある。

稲荷社   事勝国勝長狭神と大年神を祀っている。

荒立神社・四皇子社

      猿田彦大神・天鈿女命と神武天皇・五瀬命          稲氷命・三毛入野命を祀る。

門守神   祭神不詳

八坂神社  素盞嗚命

御霊社   大神惟基

羽居高天神 菅原道真公

比波里天神 天村雲命

鎮守社   祭神不詳

 

 拝殿前西に根元が一つであることから「夫婦杉」と呼ばれる2本の大杉が聳え、夫婦が手をつないでこれを3周すると、夫婦円満・家内安全・子孫繁栄の3つの願いが叶うと伝わる。

拝殿裏手に連なる御本殿

 

観光地として訪れる高千穂峡

 

 

☆高千穂峡へ行ったとき、足を伸ばした神社

 

秩父三十四観音板東三十三観音四国八十八霊場七福神漢詩もとへ戻る填詞八百万の神々仏教神道キリスト教ユダヤ教イスラム教

 

 

今宮神社

 

水を司どり「生命のおおもと」を守るとされる神仏習合の八大龍王神や、「修験道」の開祖とも言われる秩父霊場開祖役行者、伊邪那岐命・伊邪那美命、須佐之男命、宮中八神等を祀る神社である。

 武甲山伏流水(霊水)が湧き出ている秩父最古の泉「龍神池」と、推定樹齢千年以上、樹周約9mの大欅「龍神木」(駒つなぎの欅)(天然記念物)があり、秩父エリアの中で風水の力が最強の地といわれ、自然信仰の聖地としても注目されている。

 毎年4月4日には龍神祭と水分祭が行われ,水乞いに参詣の秩父神社に今宮神社から水幣(水の神徳)が授与されて,秩父地方の一年の祭りが始まる。

 秋の収穫を終えて,この水幣を武甲山に返すお祭りが,12月の秩父神社の例大祭(秩父夜祭)である、と伝えられている。

 

御社殿

 かつては朱塗りの立派な御社殿がありましたが,30年間の児童館事業をする為、旧御社殿は聖神社(大野原)に寄進された。

所在地 埼玉県秩父市中町16-10

主祭神 伊邪那岐大神・伊邪那美大神

    須佐之男大神

    八大龍王神

    宮中八神(御巫八神)

創建  『今宮神社』としての創建は天文    4年(1535年)

    大宝年間(701年 - 704年)以前より寺社が存在。

 

【屁理屈】

 頂きます!

 この言葉には、沢山の感謝が隠っています

☆秩父33観音巡礼の途次、立ち寄った。今宮坊の近く

 

 

秩父三十四観音板東三十三観音四国八十八霊場七福神漢詩もとへ戻る填詞八百万の神々仏教神道キリスト教ユダヤ教イスラム教

 

 

今戸神社 猫神社 ネコに関わり有りそうな神社

 今戸神社は、東京都台東区今戸一丁目にある神社で、祭神として、応神天皇・伊弉諾尊・伊弉冉尊・福禄寿を祀っている。

 今戸神社は、康平6年(1063年)源頼義・義家親子が奥州討伐の折、京都の石清水八幡宮を当地に勧進し、祈願したのが始まりであると云われている。

 

また永保元年(1081年)にも清原武衡・家衡討伐の際に当地を通り、戦勝祈願をしたといわれている。

 大正12年(1923年)9月1日の関東大震災や太平洋戦争の際、米軍の爆撃機B-29が昭和20年(1945年)3月10日に焼夷弾を投下したり(東京大空襲)など数々の戦乱や火災に見舞われたが、その都度再建され、現在の社殿は1971年(昭和46年)に再建されたものである。

 1937年(昭和12年)には隣接していた白山神社を合祀し、嘗て今戸八幡と呼ばれていた当神社が、現在の今戸神社と呼ばれるようになった。

 

所在地 東京都台東区今戸1丁目5-22

主祭神 応神天皇、伊弉諾尊、伊弉冉尊、福禄寿

社格  村社

創建  康平六年(1063年)

別名  今戸八幡

    沖田総司終焉の地と今戸焼発祥の地の石碑がある。

    また現在では浅草七福神のひとつ福禄寿も祀っている。

 今戸神社は、近年になって招き猫発祥の地のひとつとして名乗りをあげた。

 伝わっているところによると、江戸時代末期、界隈に住んでいた老婆が貧しさゆえに愛猫を手放したが、夢枕にその猫が現れ、「自分の姿を人形にしたら福徳を授かる」と言ったので、その猫の姿の人形を今戸焼の焼き物にして浅草神社(三社様)鳥居横で売ったところ、たちまち評判になったという。

 これが招き猫の発祥ともいわれているが、当時の記録では具体的に招き猫と今戸神社(旧今戸八幡)との結びつきを示すものは確認されていない。

 近年の招き猫ブームによって今戸神社は招き猫発祥の地として看板を掲げるようになり、多くの招き猫が奉られるようになった。

 本殿や境内に安置されている招き猫の形状は江戸明治の今戸焼の招き猫とは形状の全く異なるものなので、考証的には伝統的なものとの関わりのない平成の創作として見る必要がある。

 また、焼物として使うこの土地の粘土が良質のものだったことから、今戸焼が栄えたこともある。

 当神社は幕末の志士・沖田総司の終焉の地ともいわれていて、これは、結核を患っていた沖田総司を診ていた松本良順が当時今戸神社を仮の住まいとしていたことからきている。

【屁理屈】

 感謝を根底に据えて物事を組み立てれば、自ずと幸せが訪れる。

 ネコに感謝をして腹を立てる“人”は居ない。

 喜ぶ“人”はいる。

 「諭すや導き」とは大いに違う。

 諭されたり導かれて感謝をする“人”もいるが、腹を立てる“人”もいる。

 感謝をされて腹を立てる“ひと”は居ない。

 諭すや導きは、誰にでも共通する考え方ではない。

 独善に陥りやすい!

☆都内で偶々目に留まった神社

 

 

秩父三十四観音板東三十三観音四国八十八霊場七福神漢詩もとへ戻る填詞八百万の神々仏教神道キリスト教ユダヤ教イスラム教

 

 

三峯神社

 三峯神社は、埼玉県秩父市三峰にある神社で、旧社格は県社で、現在は神社本庁の別表神社である。

 社伝によれば、景行天皇の時、日本武尊が東征中、碓氷峠に向かう途中に現在の三峯神社のある山に登って伊弉諾尊・伊弉册尊の国造りを偲んで創建したという。

 景行天皇の東国巡行の際、天皇は社地を囲む白岩山・妙法山・雲取山の三山を賞でて「三峯宮」の社号を授けたと伝える。

 中世以降、日光系の修験道場となって、関東各地の武将の崇敬を受けたが正平7年(1352年)、足利氏を討つために挙兵し敗れた新田義興・義宗らが当山に身を潜めたことより、足利氏により社領が奪われて衰退した。

 

江戸時代には、秩父の山中に棲息する狼を、猪などから農作物を守る眷族・神使とし「お犬さま」として崇めるようになったと云われ、さらに、この狼が盗戝や災難から守る神と解釈されるようになり、当社から狼の護符を受けること(御眷属信仰)が流行った。

 平成16年(2004年)には社殿を修復した。

 秩父神社・宝登山神社とともに秩父三社の一社。拝殿の手前には三ツ鳥居(三輪鳥居)がある。

所在地 埼玉県秩父市三峰298-1

祭神  伊弉諾尊

    伊弉册尊

創建  景行天皇年間

配祀神 造化三神 - 天之御中主神

         高御産巣日神

         神産巣日神

    天照大神

 

両部鳥居

奥宮奥宮は妙法ケ岳(標高1329m)の山頂に鎮座し、神社からは東南東へ1時間ほど山道を登る必要がある。

 山頂には小さな祠とともに秩父宮登山記念碑があり、登山道の途中には両部鳥居がある。

 

 鉄筋コンクリート造りの

興雲閣がある。

 参拝の疲れを癒し、宿泊出来る

【屁理屈】

 高度に発達した脳を具え、高度な社会に生息する“ひと”ならば、自分で納得できる人生を経過できるよう思慮することこそが、重要であろう。

 人口統計によると、男性の場合は健康な年齢は70歳、ただ生きているだけの年齢は80歳

 

【屁理屈】

 人の頭は草臥れるほど思考能力が減退する。

 散々草臥れた後で、話を聞かされると、つい其の気になってしまう

☆三峯講で数回参拝した

 

 

秩父三十四観音板東三十三観音四国八十八霊場七福神漢詩もとへ戻る填詞八百万の神々仏教神道キリスト教ユダヤ教イスラム教

 

 

蚕養國神社 養蚕守護の総本社

 養蚕守護の神社として広く知られ、農、工、商、諸業繁栄、交通安全守神として信仰され、社伝によれば弘仁2年(811)の創建で、承和年間(834〜48)官社に列せられる。

 

 寛弘7年(1011)県令・石部少将道秀、堂家左京太夫憲照、石塚丹後頼春諸氏により社殿が造営され、拝殿前の峰張桜(市指定天然記念物)は、この時に植えられたと伝えられる。

 その後、兵火により社殿が焼失するが、保科正之が再建し、社領20石を寄進し、会津大鎮守六社の一とされ、寛保3年(1743)には正一位の極位に進んだ。

 

文化4年(1807)社殿が焼失するが、文政2年(1819)松平容敬が保科正之造営の社殿と同じ形式で再建した。

蠶養國神社

旧称  蚕養国大明神

所在地 会津若松市蚕養町2番1号

御祭神 保食大神

配祀

    稚産霊大神

    天照大御神

創建  弘仁2年(811)

【屁理屈】

 顕彰碑には、その地で行われた事業を顕彰する碑と、その地で功績の有った人を顕彰する碑がある。

 後者の場合は、祭神として祀るほどではないが、「こんな有為な人が居たんだよ!」と、衆人が発願して同志を募り、諸々工面して建立したのである。

 碑面には、被顕彰者の功績が詳らかに刻んであり、この行為は、被顕彰者に対する感謝の気持ちを、廣く永く伝えようとする衆人達の真心から出た行為である。

 設置者が「祠」と刻めば祭神の爲の祠となり、「顕彰碑」と刻めば、故人に対する顕彰と成るのである。

 

☆昭和40年頃は、茨城県でも福島県でも養蚕が盛んであった。だが合成繊維が発明されて急に生糸はは衰退した。

 友人の家も中二階建てで、神棚には蚕の御札が納まっていた。

 

 

秩父三十四観音板東三十三観音四国八十八霊場七福神漢詩もとへ戻る填詞八百万の神々仏教神道キリスト教ユダヤ教イスラム教

 

 

志波彦神社

 志波彦神社は冠川(七北田川の別名)河畔に降臨されたとする志波彦神を祭る神社で、中世までの詳細な所在地は不明だが、東山道から多賀城へ通じる交通の要所で、軍事的にも岩切城などの重要な城がおかれた、宮城郡岩切村(現在の仙台市宮城野区岩切)の冠川左岸に位置していたと見られる。

 

 同縁起では志波彦神の由来を塩土老翁神のことであり、栗原郡の志波姫神社と同体であるとしているが、由来については諸説あり、現在のところはっきりとしていないが、農耕守護・殖産・国土開発の神と伝えられている。

 朝廷からも崇敬されていたが、中世以降は衰微して、元禄8年の縁起によれば、社地は百姓の耕作によって侵され、天正年間には火災により神具や縁起などの資料を失い、延宝3年(1675年)の再建時には6尺四方の小さな社殿となって岩切村の牛頭天王社(現・八坂神社)に合祀された。

 明治時代になると、国幣中社に列せられたことを機に大きな社殿を造営する機運が生じたが、現・八坂神社境内では社地が狭かったため鹽竈神社境内に遷宮した。

 現八坂神社境内の旧社殿はその儘に、既に遷宮した当社から1877年(明治10年)3月に分霊して「冠川神社」として摂社となった。

 当社はもと宮城郡岩切村(仙台市岩切)の冠川の畔に鎮座され、「延喜式」に収められている陸奥国百社の明神大社として、朝廷の尊信殊の外厚いものがあった。明治4年5月国幣中社に御治定され、明治7年12月24日に鹽竈神社の別宮本殿に遷祀され、さらに昭和7年当時の内閣に陳情請願し国費を以て御造営することとなり、昭和9年現在地に工事を起し、明治・大正・昭和三代に亘る神社建設の粋を集めて竣工し、昭和13年9月御遷座した。本殿・拝殿何れも朱黒の極彩色漆塗りで、昭和38年塩竃市の文化財に指定された。

 志波彦神社は志波彦大神をお祀りしており、あまり馴染みのない御神名だが、『延喜式』の神名帳に記載されている3132座の中でもわずか224ヶ所しかない「明神大社」と言う最高の崇敬を朝廷より受けていた神社である。

 元々は東山道より多賀城に至る交通の要所宮城郡岩切村(現仙台市宮城野区岩切)の冠川の辺(現八坂神社境内)に鎮座したが、中世以降衰微の一途を辿り境内も狭隘だったため、明治4年の国幣中社列格の際に社殿造営の事が検討され、明治7年12月5日この地を離れ鹽竈神社別宮に遷座され、この際の御祭文に後日鹽竈神社境内に社殿を造営する旨が奏上された。

 鹽竈神社とは趣を別にし、本殿は黒漆塗り・拝殿は朱漆塗りの極彩色社殿となっており、又全額国費を以て造られた最後の神社とも言われている。

☆塩竈神社と境内を同じくし、いつの間にか参拝している

 

 

秩父三十四観音板東三十三観音四国八十八霊場七福神漢詩もとへ戻る填詞八百万の神々仏教神道キリスト教ユダヤ教イスラム教

 

 

鹿島御児神社

 鹿島御児神社は、宮城県石巻市に鎮座する神社で、旧社格は県社。延喜式内社の陸奥国百座のうちの一座である。

 祭神の武甕槌命と鹿島天足別命は親子神であり、武甕槌命は香取神宮の祭神である経津主神とともに、鹽竈神社の祭神である塩土老翁神の先導のもと、東北地方の平定を行ったとされている。

 御子神の鹿島天足別命は、経津主神の御子神である阿佐比古命と共に東夷征伐と辺土開拓の命令を受けて、海路を下向して奥州へとやってきたという。

 見た目は綺麗で、素人目には破損が確認できない。

 天足別命と阿佐比古命の乗った船が現在の石巻の沿岸へ到着し停泊した時、錨が石を巻き上げたことから「石巻」とこの地を呼ぶようになったという伝承が残されている。

 鹿島御児神社は武神である武甕槌命と天足別命を祀るため、勝利の神として職業繁栄・悪疫除け・鬼門除け・安産の神・海上安全・交通安全祈願の守護神として信仰されている。

所在地 宮城県石巻市日和が丘2-1-10

主祭神 武甕槌命

鹿島天足別命

創建 不詳

 

祭神[編集]武甕槌命、鹿島天足別命(武甕槌命の御子神)の親子二神を祀る。

鳥居から下を覗くと

、斯くの如し

 拝殿は昭和45年に増改築された鉄骨コンクリート製・銅板板葺き入母屋造である。木造三間社入母屋造の本殿は東日本大震災により基礎部分や瑞垣に甚大な被害を受けており、2013年中に解体される。本殿内陣に納められていた神体や御帳台は、2013年5月現在、幣殿部分に遷座されている。

 新しい本殿は造営される予定ではあるが、氏子の多くが被災しているため、浄財寄付の協力を呼びかけている。

【屁理屈】

4.五蘊盛苦(人間の体や心の欲望が適えられない苦しみ)

 “ひと”は生きている限り、身体や心の欲望は数え切れないほど有る。数え切れないほどの欲望がある事こそ、健康な証拠である。身体や心の欲望が充足されたら、其れは不健康への入り口に成るだろう。

☆東日本大震災の後で友人の様子を見に行ったときに見かけた神社

 

 

秩父三十四観音板東三十三観音四国八十八霊場七福神漢詩もとへ戻る填詞八百万の神々仏教神道キリスト教ユダヤ教イスラム教

 

 

鹿島神宮

 鹿島神宮は茨城県南東部、北浦と鹿島灘に挟まれた鹿島台地上に鎮座し、和銅6年(713年)成立の『常陸国風土記』に鎮座が確認されて以来、重きをなした東国随一の古社である。

 古くは朝廷から蝦夷に対する平定神として、また藤原氏から氏神として崇敬され、その神威は中世に武家の世に移って以後も続き、歴代の武家政権からは武神として崇敬された。現在も武道では篤く信仰されている。

 社名は常陸国鹿島郡の地に鎮座するが、その地名「鹿島」は、古くは『常陸国風土記』では「香島」と記載され、同記の中で、「香島郡」の名称は「香島の天の大神」(鹿島神宮を指す)に基づくと説明されている。

 「カシマ」を「鹿島」と記した初見は養老7年で、8世紀初頭には「香島」から「鹿島」に改称された。この変化の理由は史書からは明らかでないが、神宮側では神使の鹿に由来すると説明される。

 なお、鹿島神宮では現在社名に「島」の字を用いているが、自治体の茨城県鹿嶋市は佐賀県鹿島市との区別のため「嶋」の字を使用している。

所在地   茨城県鹿嶋市宮中2306-1

主祭神   武甕槌大神

常陸国一宮

創建    初代神武天皇元年

本殿の様式 三間社流造

札所等   東国三社

 

 全国にある鹿島神社の総本社。千葉県香取市の香取神宮、茨城県神栖市の息栖神社とともに東国三社の一社である。また、宮中の四方拝で遥拝される一社である。

 御祭神武甕槌大神は、日本神話に登場する神で、雷神で、かつ剣の神とされる。亦相撲の元祖ともされる神である。

 今でも鹿島灘は地震の多くある地域で、巷間では鹿島には地震を起こす大鯰がいて、重石をしてあると云う。

 また武甕槌大神は鹿島神宮の主神として祀られていることから鹿島神とも呼ばれ、鯰絵では、要石に住まう日本に地震を引き起こす大鯰を御するはずの存在として多くの例で描かれている。

 

メロンを買いに行く度に、鹿島神宮には立ち寄った

 

 

秩父三十四観音板東三十三観音四国八十八霊場七福神漢詩もとへ戻る填詞八百万の神々仏教神道キリスト教ユダヤ教イスラム教

 

 

酒列磯前神社

 創建の年代は古く、斉衡三年(856)の鎮座とされ、天安元年(857)には官社、延喜の制では「酒列磯前薬師菩薩明神」として明神大社に列している。

 神社周辺には古墳群もあり、古くからの発展をうかがい知ることが出来、当社の「酒列」とは付近の海岸の岩石群が南に傾斜して列なっているなかで、一部だけが北側に傾斜している箇所があり、その様相から「逆列」の地名が生まれ、酒の神様を祀ることから「酒列」となったとされている。

 

 元禄十五年(1702)に隣接する西方の台地から社地が移動され、社殿を造営した。現在の社殿は、元禄時の木材・彫刻等を再利用し、昭和九年から国費でもって改築されたものである。

 拝殿の上部に施されている彫刻は、「ブドウとリス」の彫刻で、「懸魚の彫刻」(防火のための彫刻)である。東照宮の彫刻を終えた左甚五郎が飛騨に帰国する途中で、当社に参拝し、その御神徳に心をうたれて彫ったものであるという。

所在地 茨城県ひたちなか市磯崎町4607−2

祭神  少彦名命

    高皇産霊神の御子神で医薬、醸造、海の神

配祀神 大名持命(オオクニヌシ命の別名・国土開拓の神)

 御祭神は少彦名命で、配祀神が大名持命になります。これは大洗に大己貴命を祀り、酒列に少彦名命を分祭したものと考えられている。延喜式神名帳に記載される式内社で名神大社に列し、「酒列磯前薬師菩薩神社」の社名を賜り、明治十八年に国幣中社に列格、太平洋戦争後には別表神社に定められます。

 

【屁理屈】

 “太平洋戦争”の名称は、戦勝国が占領政策の一環として、敗戦国の日本に名称の変更を強制したもので、本来の名称は“大東亜戦争”です。此は占領軍による文化の変更を示唆する。

 

 由緒は、建久二年(1191)、源頼朝が筑波山参詣の折、頼朝は神馬三十匹と那珂東部、久慈西郡を献じた。

 元弘元年(1331)常陸守護佐竹貞義が社殿を修営、弘治年中(1555-58)と天正八年(1580)にも水戸城主の江戸氏による社殿造営がなされた。

☆嘗て詩吟会の旅行で、勝田へ行ったとき立ち寄った神社

 

 

秩父三十四観音板東三十三観音四国八十八霊場七福神漢詩もとへ戻る填詞八百万の神々仏教神道キリスト教ユダヤ教イスラム教

 

 

出羽山王日枝神社

 創建年代は詳ではないが、当地方第一の古社と伝えられ、出羽国田川郡大宝寺村草創の時よりすでにあったお社と言われている。 鶴岡市大字日枝字坂本の日枝神社を上山王とし、当社を下山王とす、ワンセットの神社であった。

 家康の長男の徳川信康を祀る復鎮神社が鎮座し、城主の酒井氏が先祖の忠次ぐの行状を悔い、御羽車御霊社として信康の霊を勧請したと言う。

 

 芭蕉の句碑が弁天島にあり、“珍らしや山を出羽の初茄子”とも詠われ、この辺りは芭蕉の歩いた奥の細道にあたるのであろうから、記念碑が多い。

 出羽三山神社の三大祭りのひとつである松例祭の際、当社に羽黒山の山伏が集結、参拝する。

 また社殿内には「お山王はん歴史館」が開設され、慶弔16年(1611)に最上義光が奉納した鰐口や阿部重道の門人が奉納した算額(鶴岡市指定文化財)をはじめ、城から貸し出された金瓢槍や鉄砲、鎧具足などを身にまとった氏子の町人が大名行列さながらに練り歩いたという祭礼行列「神輿渡り」の絵巻物の写しなど、神社ゆかりの品々を展示している。

日枝神社 山形県鶴岡市山王町2-26(荒町96)

御祭神  大己貴命、山末之大主大神、市杵嶋姫命 ほか

摂社   稲荷神社 宇賀之魂命、須佐之男命、大市姫命、大     己貴命、五十猛命

【屁理屈】

 日本人なら日本の歴史を学ばなければ成るまい!

 神話だから・・・・・とか、言い訳が多い

 では確実な事実を記載した歴史書なんて、有るのかな?

 物事は見る人によって千差万別

 統一見解と云っても、千の見解を一つに纏めたに過ぎない

 通常の事として、歴史書は勝者によって書き換えられる!

 日米関係も同じだ! 日本の歴史は、米国が書き換えた!

 自分の見解は、自分で作り上げるより方法がない

 物事には少なくとも六面はある

 六面を学んで、自分の見解を作り上げることが肝要だ!

 学ばずに言い訳をするのは止めよう!

出羽三山へ参拝した時に立ち寄った神社

 

 

秩父三十四観音板東三十三観音四国八十八霊場七福神漢詩もとへ戻る填詞八百万の神々仏教神道キリスト教ユダヤ教イスラム教

次のページへ