遠軽神社 (北海道紋別遠軽町)

 遠軽町は明治26年、湧別原野が開放され、農民が移住し、明治35年、北海道同志教育会が私立大学を創設する目的で開かれた町である。

 

明治37年、ナラの木の尺角のくいを建立し、日露戦争の戦勝祈願を行った。

 大正5年、3.3uの神明造り神殿を建立し、現在の祭神を奉斎し、大正9年、川村喜作が白滝村から来住し初代社掌に就いた。

 大正13年7月17日、内務省から遠軽神社創立の認可を受け、大正14年10月13日、村社に列せられ、昭和8年2月、川村社掌死亡の為、照井幸助を2代目社掌として迎え、昭和15年、紀元二千六百年記念事業として、工費71000余円を以って社殿を改築造営し、同年11月23日に竣工する。

 合併により合祀された歴史をもつ御祭神。

 平成16年、御創祀百年記念事業として本殿改修工事を行い、平成17年、本殿に引き続き社務所を新築。

所在地   紋別郡遠軽町宮前町2番地30

祭神    天照皇大神

      建速須佐男命

      品陀別命

      建御加豆智命

社殿面積  75坪(247.5u)

境内面積  1521坪(5019.3u)

氏子世帯数 7500世帯

崇敬者数  18000人

境内外末社 伏見稲荷神社

      宇迦之御魂神(昭和2年創祀)

 

【屁理屈】

 どんな巧みな言い訳でも、

自分を納得させても、

事実は何も変わらない!

 

☆北海道の遠軽と云えば、最も過酷な地域に属す。友人の話に依れば、開拓は言語に尽くせぬ厳しさがあるという。心の拠り所として、神社は必要な施設である。

 

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塩竈神社

 志波彦神社・鹽竈神社は、宮城県塩竈市にある神社(二社が同一境内に鎮座)で、志波彦神社は式内社(名神大社)、鹽竈神社は式外社、陸奥国一宮である。両社合わせて旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「塩竈桜」。

 鹽竈神社は、全国にある鹽竈神社の総本社である。

 

 塩竈神社と志波彦神社は同じ敷地に祀られているので、案内表示を確かめないと混同しやすい

所在地 宮城県塩竈市一森山1番1号

位置  志波彦神社 鹽竈神社

主祭神 志波彦神社 志波彦神

    鹽竈神社 塩土老翁神 武甕槌神 経津主神

社格等 志波彦神社は式内社(名神大)

    鹽竈神社は式外社 陸奥国一宮

    両社共通 旧国幣中社 別表神社

創建 不詳

本殿の様式 流造

 塩竈神社御祭神の塩土老翁神は謎の多い神であるが、海や塩の神格化と考えられる。神武天皇や山幸彦を導いたことから、航海安全・交通安全の神徳を持つものとしても見られる。また安産祈願の神でもある。

 

随身門

 

塩竈神社拝殿

 鹽竈神社は、武甕槌命・経津主神が東北を平定した際に両神を先導した塩土老翁神がこの地に留まり、現地の人々に製塩を教えたことに始まると伝えられる。

 弘仁11年(820年)に撰進された『弘仁式』の『主税式』では「鹽竈神を祭る料壹萬束」と記載され、祭祀料10,000束を国家から受けており、これが正史における鹽竈神社の初見と言われ、さらに延長5年(927年)の『延喜式』の『主税式』においても祭祀料10,000束を国家正税から受けている。

 

 

 

 『延喜主税式』によれば当時の陸奥国の税収は603,000束、鹽竈神社の他に国家から祭祀料を受けていた3社の祭祀料は、それぞれ伊豆国三島社2,000束、出羽国月山大物忌社2,000束、淡路国大和大国魂社800束であった。

 これらと比較しても国家から特別の扱いを受けていたのは明白であるが、同式の神名帳に鹽竈神社の記載は無い。

 また、近世に至るまで神階昇叙の記録も無く、式外社となったことと併せて朝廷が一見矛盾するような扱いをなぜしたのか、その理由はわかっていない。

松島観光に行くと立ち寄る神社である

 

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温泉神社

 那須温泉神社の創建は舒明天皇年間(629〜41)に狩野三郎行広が近くの村々で悪行を働いた大白鹿を追って山中に迷い込み、白髪の老人から"今、大鹿が温泉に入っているのでそこを狙い打ちなさい!"と告げられ、念願成就したことから、先程の老人が温泉神だと悟り、この地に祀ったのが始まりとされる。

 以来、周辺住民だけでなく朝廷にも崇敬され天平10年(738)には朝廷の役人が那須温泉に湯治に訪れ那須温泉神社に参拝した事が記録に残っている。

 格式も高く貞観11年(864)には従四位勲五等が送られ延長5年(927)にまとめた延喜式神名帳に記載されている下野国11社にも名を連ねている (延喜式神名帳に記載されている全国の神社の中でも温泉を号するものは10社しか無い事から温泉地としても歴史が古い事が分かる)。

 中世は那須家の崇敬社となり、文治元年(1185)には那須与一が那須温泉神社に戦勝祈願をして見事、扇の的を射て功を上げている(源平合戦屋島の戦いで源氏武者の誉れをあげたとされる)

 江戸時代に入ると黒羽藩主大関家(旧那須家家臣)の崇敬社となり社領20石が寄進されている。

 

又、元禄2年(1689)には松尾芭蕉が奥の細道行脚の際この地を訪れて、那須温泉神社の参拝や殺生石の見物などを行い" 湯をむすぶ 近いも同じ 岩清水 "の句を詠み、「那須の温泉神社の相殿に八幡宮を移し、両神一方に拝まれ給う」と記載している。

 現在の本殿は慶長12年(1607)に那須資晴が再建した。

所在地 栃木県那須郡那須町

    大字湯本182

祭神  大己貴命

    少彦名命

相殿  誉田別命

【屁理屈】

 自分の判断に責任を持たなくて良いのなら、こんなに楽ちんなことはない!こんな無責任なことはない!

☆温泉神社は各地にあるが、那須温泉に行く途中にある神社

 

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笠間稲荷神社

 笠間稲荷神社は、茨城県笠間市にある稲荷神社である。旧社格は村社で、現在は神社本庁の別表神社となっている。

別称胡桃下稲荷、紋三郎稲荷とも云われている。。

 2010と2011年に倒壊したので、この写真はそれ以前の姿である

 鳥居の両側に土産物店が軒を連ねる。手前右側には、邸内に祀る社の販売店がある。

 

 祭神は宇迦之御魂命で、五穀豊穣、商売繁盛の神として、古くから厚く信仰され、関東はもとより日本各地から年間350万人の参拝客が訪れる。

 また、正月三が日の初詣には80万人以上の参拝者が訪れ、初詣参拝者数で茨城県1位を誇り、日本三大稲荷の一つとされている。

 東京都中央区日本橋浜町には、当時の笠間城主牧野家の下屋敷があり、その地には藩主が笠間稲荷神社より分霊を受けて建てられた笠間稲荷神社東京別社がある。

所在地 茨城県笠間市笠間1

主祭神 宇迦之御魂命

創建  白雉2年(661年)

 社伝では白雉2年(661年)に創建されたとされるが、近世までの沿革は不詳である。『常陸国風土記』によると、7世紀ごろにはすでに当地で宇迦之御魂神への信仰が行われたと記されている。

 江戸時代になると広く知られるようになり、歴代の笠間藩主が厚く崇敬し、三代藩主松平康長や忠臣蔵で有名な浅野家なども、転封し笠間を離れても分霊を新たな領地で祀るなど、庶民のみならず歴代藩主からも手厚い信仰を受けてきた。

【巷話】

 坂本九は幼少期の不思議な体験から、この神社を篤く信仰するようになったそうで、自身の結婚式もこの笠間稲荷神社で執り行っている。

 

 

☆松戸からは身近なので、時期を選ばず参拝する神社である

 

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葛西神社

 葛西神社は、東京都葛飾区東金町にある神社で、金町、東金町を合わせた11町会の総氏神で、祭囃子発祥の神社でもある。

 創建の年代は平安時代末期、元暦2年(1185年)である。当時は上葛西、下葛西合わせた三十三郷(現在の行政区分では、東京都葛飾区、江戸川区の全域、墨田区、江東区、足立区の一部地域にあたる)の総鎮守として、葛西三郎清重公の信仰により 香取神宮の分霊を祀ったのが始まりである。

 

 

この地は葛西御厨の神域にあり、21年ごとに香取神宮の造営に携わった関係から、郷内の守護神として奉られたといわれる。

 もとは香取宮と称していたが、その後時を経て、明治8年には郷社に定められ、第二次世界大戦後は全国神社の社格が廃止され、宗教法人葛西神社として今日にいたる。

所在地 東京都葛飾区東金町6丁目10番5号

御祭神 経津主神

    日本武尊

    徳川家康尊

    由緒

     江戸時代初め、徳川家康が葛西神社へ立ち寄った際、古くから伝わる操り人形芝居の神事を見て大変感激し、奨励のため天正19年(1591年)に御朱印十石を送られた。

     この縁により、葛西神社において徳川家康を奉ることとなり、立身出世や事業成功の象徴として今なお敬意を集めている。

 

【屁理屈】

 ペンは剣よりも強し!と言うが、

 ペンも剣も善意にも悪意にも使える!

 どのような目的で持つのか?

 “人”は陥れられる“ひと”を見て喜ぶ習性が有るので、善意悪意の判断が厄介だ!

ペンは剣よりも強と言うが、現実には剣には勝てない。当面は逃げ回るだけだ!
ペンを持って拳銃を持たない警官も、ペンを持って武器を持たない軍隊も役には立たない。

☆酉の市に誘われて参拝した。算額が有ると聞いて、奇しくも誘いに乗ったのだが、算額は確認出来なかった。

 

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鎌倉宮

 鎌倉宮は、大塔宮 護良親王を祀る神社で、護良親王は延慶元年(1308年)に後醍醐天皇の皇子としてご誕生した。

 6歳の時に京都の三千院に入り、11歳で比叡山延暦寺に入室し、尊雲法親王と呼ばれ、天台座主になった。

 当時、鎌倉幕府の専横な政治に、父帝の後醍醐天皇は国家の荒廃を憂えられ、親王と共に元弘元年(1331年)6月、比叡山にて討幕の挙兵をする手筈であった。

 

しかし、この計画は幕府の知るところとなり天皇は捕らえられ、

隠岐に配流となった。

 親王は還俗して、名を護良と改め、天皇の代わりとなって楠木正成らと、幾多の苦戦にも屈せず機知を持った戦で大群を吉野城や千早城に引きつけた。

 この間にも親王の討幕を促した令旨に各地の武士が次々と挙兵し、中でも足利尊氏、赤松則村らが六波羅探題を落とし、また新田義貞が鎌倉に攻め込み、鎌倉幕府は北条一族と共に滅びた。

 後醍醐天皇は京都に還御され、親王はこの功により兵部卿・征夷大将軍となった。

 しかし尊氏は征夷大将軍を欲し、諸国の武士へ自らが武家の棟梁であることを誇示した為、親王は尊氏による幕府擁立を危惧し、兵を集めた。

 ところが、逆に高氏の奸策に遭い捕らえられ、建武元年(1334年)の11月15日に、鎌倉 東光寺の土牢に幽閉された。

 建武2年(1335年)7月23日 残党を集め鎌倉に攻め入った北条時行の軍に破れた尊氏の弟、足利直義は逃れる際に、家臣 淵辺義博へ親王暗殺を命じました。

 義博の凶刃に対して、親王は9ヶ月をも幽閉された御身では戦う事も出きず、御年わずか28歳という若さでその苦闘の生涯を薨じられた。

 

明治2年2月、明治天皇は建武中興に尽くされ、非業の最期を遂げられた護良親王に対して、遥かに想いを馳せられ、親王の御遺志を高く称え、永久に伝えることを強く望まれました。

 親王終焉の地、東光寺跡に神社造営のご勅命を発せられて、御自ら宮号を「鎌倉宮」と名づけられました。

 なお、明治6年4月16日、明治天皇は初めて鎌倉宮に行幸遊ばされた。

所在地 神奈川県鎌倉市二階堂154

主祭神 護良親王

社格等 官幣中社

創建  明治2年(1869年)

【屁理屈】

 農家の果樹園では、枝接ぎや芽接ぎをして、市場の要望に対応する。幾年か前は、赤梨を実らせていたのに、今は青梨を実らせている。然し、樹木そのものが変わった訳ではない。枝先が変わっただけで、樹木の本質は全く変わってはいない。

 宗教も同じで、末端の言辞は変わっても、本質は変わらない。柿の木は枯れるまで柿を実らせ、宗教も、滅びるまで本質(教義・思想)は貫き通す。

☆子供の頃に父親に連れられて参拝し、護良親王の歴史謂われを長々と聞かされた記憶が蘇った

 

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岐佐神社 看護婦さんを祀った神社

 大国主命とその兄君の八十神とが恋争いの末、大国主命が八上比売命と結婚する。

 

恨みに思った兄君たちは、「手間山から赤猪を追い出すから捕らえろ。」と言い付けて真っ赤に焼いた大石を転がした。

 その石を抱き止めた大国主命は、大火傷を負って死んで仕舞われた。悲しんだ母君の切なる願いで、神産巣日神の御子蚶貝比売命は、『あかがい』の貝殻で白い粉を作り、蛤貝比売命は『はまぐり』の水を出して練り合せ、乳汁のような膏薬を作り、全身に塗り付けた。

 大国主命は、元の麗しい元気なお姿におもどりになられた。

【屁理屈】

 随分と人間臭い由緒だ!其れはその筈、神様は民衆が祭り上げた実在の“ひと”なのだから当然のことだ。

現社名 岐佐神社

所在  静岡市浜松市西区舞阪町舞阪 1973

祭神  蚶貝比賣命

    蛤貝比賣命

     配祀  市杵島比売命

 

上の絵は、青木繁という明治の画家がキサガイヒメとウムギヒメを描いたものである。

【屁理屈】

 恐らく、この社を創った端緒は、其の昔この地に、民衆に敬愛されたご婦人が居られたのでしよう。

 其のご婦人の名は“○○子さん”と云うお名前だったのでしょう。

 民衆は胸に秘めたご婦人への感謝の気持ちを、皆で共有しようと祠を創り、御祭神としてお祭りしました。

 けれども民衆が共有する御祭神のお名前としては、○○子さんよりは、お名前の知れた神様の方がが相応しいので、神話に登場する神様に、お名前を貸して戴くこととした。

 神話の神様はお心の廣い方ですから、ご自分のお名前を○○子さんに、お貸しして呉れました。

 ですから、この土地の民衆に愛されたご婦人○○子さんと、神話の神様とは、同一と云うことになりました。

☆仕事の関係で浜松に出掛けたとき、看護婦さんを祀ってある神社がある!と聞いて同輩と立ち寄った。管理人が居ないので朱印は無い。

 

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祇園神社

 この神社は、日南線・油津駅の東1.5km程の辺り、広渡川の河口に架かる広渡大橋の南に鎮座している。薄暗い洞窟の奥に社殿が建っていて、神秘的な雰囲気の中静かに参拝できる。

 

所在地 日南市梅ケ浜1

祀神  素蓋鳴命・稲田姫命

    本殿入口左右の神様は龍神(八岐大蛇)様と水神(水波女命)様です。

創建  大正十二年

 この神社は疾病(腹痛など)除け、厄難除けの守護神で航海安全、商売繁盛、五穀豊穣、縁結びの神様で、人々を海難、水難を始め、諸々の災難から守る神様として広く親しまれている。

 

この神社の創建は大正十二年、油津に赴任された宮崎鉄道管理所長の星野寅二氏のご尽力により、大正十三年四月に完成した。 当時三十数名の石工が工事に携わったと云われている。

【屁理屈】

 手を合わせる!

 感謝するとき、お願いをするとき、何れも根底に真心がある

【屁理屈】

 宮崎の友人が、序でに案内して呉れた神社とでも言おう。道路沿いに鳥居があり、階段を下る洞窟がある。

 

神社はその気になれば、誰にでも何処にでも創れるものだ!此処も道路沿いに程々の洞窟が有った。程々の由緒があった。程々の資金があった。

 純真な心の持ち主だった。

【屁理屈】

 自分が祭神に成りたかったら、自分で自分をお祀りすればよい!

自分で自分の社を建てた“ひと”を知っているが、それ程の人物でなかったので、笑いものになった!死後息子が不動産屋に土地を売ってしまって、跡形も無くなった!

 矢張り、お祀りしてくれる民衆が居てこそ祭神だね!

☆宮崎県在住の友人と一緒に参拝した神社

 

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京都大豊神社 狛ネズミを祀る神社

 大豊神社は、狛犬ならぬ狛ネズミがある小さな神社で、以前は知る人ぞ知る神社であった。

 

この神社は、889年に宇多天皇の病気平癒の祈願のために創建された、古い歴史のあるお社で、狛ネズミがつくられたのは、ずっと新しく1969(昭和44)年のことである。

 大国主命が野火に囲まれ困っているとき、 ネズミが洞穴に導いて命を救ったという『古事記』の記述に依っている。

 全国にある約8万社の神社のうち、狛ネズミがあるのはここだけで、子年の正月には、すごい数の参拝客が訪れる。

 鳥居の突き当たりにあるから、拝殿らしい

【屁理屈】

 実際に行ってみると、大豊神社は東山の住宅地にある小さな神社で、狛ネズミ以外にとくに見所があるわけではないが、それでも狛ネズミの愛らしい姿を見ると、満足するから不思議である。

 京都へ行った折「哲学の道」から、案内に従って脇道へはいると、住宅地の中に鳥居があり、小さな社がある。

 

この神社のメインは鳥と猿と鼠

 

 

☆同業の旅行で立ち寄った神社

 

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金ヶ作熊野神社

 “ひと”は“ひと”を取り巻く多くの物事に助けられて生きている。依って常に感謝の念を蔑ろにしてはならない。

 感謝の念は己の心に感謝の念を抱くことだが、具象化すれば神棚で感謝の思いを述べ、或いは屋敷に祀る社に礼拝し、或いは地域に祀る神社に礼拝をする。

 

旧社殿

手水舎

 

 

平成7年に新築された本殿と清掃をする氏子

 

本殿左手のご神木

 

 

 金ヶ作熊野神社は熊野三山のひとつ、和歌山県の熊野本宮大社の分社にあたる。(熊野三山は他に熊野速玉大社、熊野那智大社)

(熊野神社は日本全国に約3千社あると言われている)

御祭神 伊弉冉命、日本武命

所在地 金ヶ作熊野神社 千葉県松戸市金ヶ作361番地

由緒  金ヶ作は、元武州川越藩郷士の石川家五代目石川彦次右ヱ門氏が、当地の新田開発を計画され、天明2年(1782年)、元締として九家を引き連れて此の地に入植し、一家あたり五町歩を与えて開墾した。

    翌年(天明三年・1783年)7月6日、浅間山の大噴火により大量の火山灰の降灰により、田畑が大被害を蒙り、急遽、氏神様を祭神するにあたり、石川彦次右ヱ門氏が神社敷地を寄進され、紀州和歌山の熊野本宮より御魂を拝受して、その名も熊野神社と称して祭神された。

    当初は木造平屋茅葺で有ったが、明治28年に建替えられ、その後百余年経過して老朽化したため、平成7年2月5日、現在の建物となった。

【屁理屈】

 人の寿命なんて、長いと思っても、実は短いものだ!

 人口統計に依れば、五体満足に生きられる年齢は、男性で70歳!

 五体不満足で、やっと生きている年齢が男性で70歳から80歳まで!

 明日生きているか? 明日から寝たきりで襁褓とも限らない!

 それなら今からでも遅くないから、配偶者や、我が子や、親や、兄弟や、身近な人の爲に、良かれと思うことを為して生きた方が、よっぽど良いぞ!

【屁理屈】

 新興住宅地の住居には神棚を設けない家が多い。

 独りでに生まれて、独りでに大きくなって、独りでに金を稼いで、誰の世話にも成らずに生きていると思っているのかな?

 自分の今居る状況に何の恩義を感じていないのかな?

 当面の物事には思慮するが、離れると思慮が及ばないのかな?

氏子諸氏の真心に頭が下がる

 

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